あのブラジル人Jリーガーはいま
第3回ドゥンガ(前編)>>後編を読む


優勝したアメリカW杯でブラジルのキャプテンを務めたドゥンガ photo by YamazoeToshio

 ここ3週間、ドゥンガは止まることがなかった。コロナ禍で仕事を失い、その日の食事にも困っている貧しい人々のため、休みなく奔走した。それは困難なことだったが、これまでの人生同様、ドゥンガはその障害を乗り越えた。20日間で、彼は45トンの食糧……野菜、米、パン、果物、豆などを人々のもとに届けた。

 4月26日、すべてをやり遂げたドゥンガは久しぶりに家でゆっくりとした時を過ごしていた。彼が家にいるのにはもうひとつ理由がある。この日、ブラジルのグローボTVが、かつての名勝負、1994年アメリカW杯決勝、ブラジル対イタリアを再放送していたからだ。

 ドゥンガだけでなく、多くのブラジル人がこの日、テレビの前に陣取っていた。なにしろ24年ぶりにW杯に優勝したあの時の喜びは、当時を知るブラジル人にとっては格別なものだった。今、不安な日々を過ごす人々にも大きな勇気を与えるはずだ。そしてその主役のひとりこそ、ドゥンガだった。

 キャプテンだったドゥンガは、カリフォルニアの空にトロフィーを掲げながら叫んだ。

「俺たちはチャンピオンだ! 思い知ったか、クソ野郎ども!」

 喜びと同じくらいの怒りがほとばしっていた。ドゥンガは類を見ないほどアグレッシブで、同時にものすごく正直な人間だ。この時の彼がなぜ怒りを爆発させたのか、その理由は4年前にあった。

 ドゥンガは1990年のイタリアW杯にも出場していたが、この大会はブラジルにとっても、そしてドゥンガにとっても最低なものだった。早々に敗退しただけではなく、プレーの内容もひどかった。ドゥンガ自身は彼本来のポジションではない、背番号4をつけてプレーしなければならなかった。

 グループリーグの3試合は全勝したが、ブラジル人が愛するジョゴ・ボニート(美しいサッカー)は皆無だった。そして決勝トーナメントに駒を進めると、彼らはいきなりアルゼンチンと対戦しなければならなかった。

 この試合の前半を見た者のほとんどは、それまでとはまるで違うブラジルに驚いたはずだ。この大会のブラジルの試合で一番の出来だった。セルヒオ・ゴイコチェアの守るゴールに何本もシュートを放ち、そのうちの1本はドゥンガの足から繰り出されたものだった。試合は圧倒的にブラジルが支配し、ブラジルの誰もが「いける!」と思った。

 だが、アルゼンチンにはディエゴ・マラドーナがいた。天才的な動きでクラウディオ・カニーヒアをフリーにすると、カニーヒアがシュートを決め、1−0とアルゼンチンに勝利をもたらした。

 この大会前から、ブラジルの有名サッカー誌『プラカル』が、W杯日記の主人公にドゥンガを選ぶなど、彼は大きな期待を寄せられていていた。ところが、ブラジルが敗退した途端、マラドーナにカウンターを許したとして、ドゥンガは監督のセバスティアン・ラザローニ、GKのクラウディオ・タファレルとともにA級戦犯にされてしまった。

 ブラジル中がマラドーナの天賦の才を褒めそやし、芸術性を欠いたブラジルのサッカーをこき下ろした。プラグマティック(功利的、現実的)で魂のないサッカーのシンボルとされ、「しょせんはドゥンガ(『白雪姫』に出てくるこびとのひとりで、おとぼけキャラの名前)だから」と非難された。

 こうして、ドゥンガは重い十字架を背負わされてしまった。

 しかし、困難だと思われたことを彼は不屈の精神でなしとげた。ドゥンガは決してあきらめなかった。その後何年もいいプレーをしようと努力し、94年のW杯メンバーに選ばれた。アメリカにドゥンガはキャプテンとしてやって来た。身にまとったユニホームも背番号8。彼本来のポジションである。

 タイトルに向けて楽な相手はいなかった。同じグループにスウェーデンがいたし、決勝トーナメントに進んでからの対戦相手も開催国アメリカ、オランダと強敵だった。

 それでも、カルロス・アルベルト・パレイラ監督率いるセレソンは、ロマーリオだけのチームではなかった。大会を通してブラジルの失点はたったの3。7試合中5試合は無失点で終えた。そしてその優秀な守備陣を率いていたのが、疲れることを知らないマウロ・シウバとドゥンガだった。

 1994年7月17日、時計の針は正午を少し過ぎていた。カリフォルニアの太陽の下、カナリア色のユニホームをまとった選手たちがローズボウルスタジアムに入ってきた。選手たちは手をつないで一列になってロッカールームを出ると、トンネルを通って、ピッチに現れた。先頭には緊張した面持ちの、逆立ったヘアスタイルの選手がいた。カルロス・カエターノ・ブレドルン・ヴェーリ、通称ドゥンガだ。

 決勝でもドゥンガはイタリアの天才ロベルト・バッジョに仕事をさせなかった。ドゥンガは徹底的にバッジョをマークした。

「ピッチの中にライオンがいるようだった」

 数年後、バッジョはこの試合のドゥンガをこう表現している。

 90分+延長の30分を戦って0−0。試合はW杯の決勝史上初のPK戦となった。ここでもドゥンガはキャプテンマークに見合う責任感を見せた。重要な4人目のキッカーを引き受け、見事ゴール。イタリアはそのすぐあとに蹴ったバッジョが外し、ブラジルは世界チャンピオンとなった。

 メダルを首にかけられたあと、ドゥンガはワールドカップを受け取った。そして9万4000人の前でカップを掲げた時に、先の言葉を吐いたのだ。ドゥンガは品位を欠いたと非難の声も聞かれたが、私が思うにドゥンガは彼にしつこくつきまとってきた”亡霊”をその怒りで追い払ったのではないだろうか。
(つづく)