コロナ危機を受けた一連の政策に対し、多くの国民が不満を感じている。危機にあって政府はどうあるべきなのか、財政の役割とは? (写真:首相官邸で代表撮影/ロイター)

コロナ危機を受けて、安倍政権に対する支持が急落している。一連の対策に対して、多くの国民が不満に感じ失望している。

近著『人はなぜ税を払うのか:超借金政府の命運』を上梓した浜矩子氏が、危機にあって政府はどうあるべきなのか、財政の役割とは何かについて説く。

もぐらたたき的な政府の対策

今、世界で新型コロナ肺炎が爆発的に流行している。各国で感染拡大のために都市がロックダウンされ、世界大恐慌以来とも言われる未曾有の経済危機が迫ろうとしている。わが国でも政府より3月に学校の休校が要請され、4月には緊急事態宣言が発せられた。


だが、外出自粛や休業の要請がなされる一方で、それによって大きな損害を受け、解雇や倒産で仕事を失いつつある人々への対策は、あまりに小粒であり、かつ動きが遅くもどかしい。

新型コロナウイルスによる日本経済への打撃に対応するため、政府は総額約108兆円と称する経済対策を取りまとめた。しかしその大部分は民間企業への低利の融資や、昨年のうちに決まっていた補正予算の残りであって、財政の世界でいう真水、すなわち政府がコロナ対策のために新たに支出しようとする金額は、実はその半分にも満たない。

民間エコノミストの推計によれば、真水はおよそ20兆円ないし25兆円程度という。個人に対しては、ようやく1人10万円の一律支給を決めたが、非常事態宣言のあおりで仕事をなくしてしまった人たちが、1人10万円で何日食いつなげるというのか。こうした点をまともに詰めて考えているとは思えない。こういうふまじめさ、いいかげんさに怒りと不安を覚える日本国民は数え切れないであろう。

5月に入って、政府は、緊急事態宣言と外出自粛のさらに5月末までの延長を決めた。猛威を振るう新型コロナ肺炎を見れば、期間延長自体はやむをえまい。だが、非常事態宣言を出して経済活動を抑制するのであれば、それに伴って生じる経済的真空状態をどうするか、それに対する対処方針を考えておくのが当然だ。そうでなければ政策責任者の名に値しない。

「空白はわれわれ政府がしっかり埋めます。ですから、皆さんはどうか安心して営業を自粛してください。外出を控えてください」というような呼びかけがあれば、休業要請にも外出自粛要請にも、国民は不安ながらも納得して対応しただろう。ところが、要請ばかりが先行して、支援についてはおよそ場当たり的な対応ばかりが続く。さながら、もぐらたたきのごとしだ。しかも、下手くそで空振りの多いもぐらたたきである。

緊急事態を宣言するということは、政策もまた、あるいは政策こそが緊急対応モードにならなければいけないことを意味している。国民の行動をどう制約したり、誰に自粛を要請したりするのかをしっかり考えることは重要だ。だが、それと同時に政策が緊急事態にどう対応するのかを考えるのでなければ、政策責任を果たしているとは言えない。

緊急事態は、政策責任者たちに対しても宣言されている。彼らは、ひょっとするとこの点がわかっていないのではないか。緊急事態だからといって、政策や行政がやたらとしゃしゃり出てきたり、強権的になることは絶対に許してはならない。そういうことではなく、緊急事態下で本当に皆さんのお役に立てる動き方とは何なのかを徹底追求する。この姿勢が欲しい。

政府が助けるべきは誰か

政府や政策は、強い者を助ける必要はない。強い者たちは自助で結構。政策の役割は弱い者に手を差し伸べることにある。支えがなければ生きることがままならない人々の暮らしを守る。そこに公助の意義がある。

自助のすべを持たない人々こそ、公助に値する。この辺も、チームアホノミクスはわかっていない。ひょっとすると、彼らは自助力の強い人々こそ、公助に値すると考えているのかもしれない。とんでもない話だ。こういう誤解・曲解も、今のような危機的状況下における政策の有効性を大いに損なう。

どうやら「弱者救済」とか「世のため人のため」という文言は、チームアホノミクスの辞書にはないようだ。もしかすると、そもそも「弱者」という言葉自体がアホノミクス用語の中には含まれていないのかもしれない。

国民に奉仕するために存在する。それが政府であり、国家だ。この奉仕集団を差配する位置づけにあるのが、現状ではアホノミクスの大将だ。だが、この人は国民を国家に奉仕させようとして「一億総活躍」構想などというものを打ち出してくる。

国民の命が最大級の危機にさらされている今このとき、こんな人が政策を指揮する立場にある。何とも恐ろしいことだ。ただ、チームアホノミクスのこの体たらくが国民の目の当たりに全面的に露呈したことは、真相が明るみに出たという意味で、悪いことではない面もあると思う。

今日のこの危機的状況は、「政府というもの、政策というものがそもそも何のためにあるのか」という基本的なところを改めて正面切って問いかけてくるものだ。拙書『人はなぜ税を払うのか』の中でも申し上げていることだが、政府と政策は、民間の経済社会に対して外付け装置の位置づけにある。その位置から、助け手として働くために存在する。

民間の経済社会が自力ではうまく回らなくなったとき。その場面こそ、外付け装置としての政策の出番だ。リーマンショックのような金融恐慌の勃発時。東日本大震災のような大災害時。今回のように疫病が地球的に蔓延するとき。こうした局面で最大限効果的に緊急出動する。

そのときのために、政府という名の外付け装置は満を持して待機している。この姿が政府というものの正しい姿だ。この構えが政府というもののあるべき構えだ。そして、政府が緊急出動するとき、その主要な道具立てとなるのが財政だ。

緊急時に動けるよう、日頃は清く正しい財政運営が必要

だからこそ、平時において財政は健全性を保持していなければならない。いざというときに機動的に動けるよう、日頃は慎重な運営に徹して余計な無駄遣いはしないのだ。財政赤字など気にしてケチケチするな。そんなことでは経済成長に寄与できない。この種の論法はよく出てくる。だが、今の状況をみれば、これがいかに的外れな考え方かがよくわかる。

今は、確かに財政赤字を気にしている場合ではない。今こそ、財政は思い切って大盤振る舞いに出る場面だ。だが、日頃から大盤振る舞いのばらまきばかりやっていると、理屈のつじつまが合わなくなって、思い切ったことができがたくなるのである。

日頃は、清く正しく財政を運営している。つまり、日銀による財政ファイナンス(中央銀行が政府から国債を直接引き受けること。これをやると政府はいくらでも財政支出を増やせる。だから、日銀による国債の直受けは、財政法第5条によって禁止されている)などをしっかり封印しているのであれば、「この非常時だから、あえて禁断の財政ファイナンスに踏み切る」とか、「今、このときに限って禁じ手の日銀による国債直接引き受けを解禁する」などという言い方ができる。その言い方に説得が伴う。

だが、すでに隠れ財政ファイナンスを全面展開しているチームアホノミクスが「今こそ財政と金融の一体運営のとき」などと言い出しても、われわれはしらけるばかりだ。下手をすれば、今の事態をダシにして財政ファイナンスの恒久制度化に乗り出すのではないか。そのように勘繰りたくなってしまうだろう。

さしものチームアホノミクスも、自分たちが日頃から事実上やってしまっていることを、「緊急時だからこそやる」とはさすがに言いがたいだろう。気が引けるからではない。彼らにそういう羞恥心はない。緊急時だからやると言ってしまうと、緊急時ではなくなったときに財政ファイナンスを引っ込めなければいけなくなるからである。

今のコロナ禍の場合のように、誰の目にも外付け装置の緊急出動が必要に見えるとき、日頃そのために備えを整え、蓄えを準備している政府であれば、待ってましたとばかりに勇躍して出動すればいい。

思うようには蓄えを準備できていない状況でも、通常はきちんと節度ある財政運営をしている政府であれば、堂々と「危急の今だからこそ、禁じ手を使います。そして、禁じ手は可及的速やかに再封印いたします」と宣言して、思い切って助っ人に乗り出せばいい。

平時に政策を私物化してきた代償

ところが、チームアホノミクスには上記のいずれも当てはまらない。「待ってました」とばかりに緊急出動できるような手堅い財政基盤からは、程遠い状態を放置してきた。放置というよりは、自分たちで作りだしてきた。

そのために、「異次元緩和」の金融政策を隠れみのにして、日銀が事実上の財政ファイナンスを行ってきたわけである。平時がこのようなありさまでは、有事に機動的に動けるわけがない。

結局のところ、チームアホノミクスは財政が何のためにあるのかがまったくわかっていなかった。有事に緊急出動するための外付けレスキュー隊だという認識がまったく欠けていた。そのような認識を持とうとする姿勢が欠如していた。

財政は、自分たちの野望や下心をそれこそ「ファイナンス」するためにある。そんなふうに考えているらしい。これでは、何をいつやるべきで、何をいつやってはいけないのかということの区別はつかない。もとより、これでは、いざというときに世のため人のために効果的に動けるはずがない。

「今は財政赤字のことを考えているときではない」というのは、通常は財政赤字のことを考えている人々、財政節度を心がけている人々だからこそ、言えることである。日頃からこうした姿勢に欠けている者たちには、かえって、ここぞというときに思い切った行動が取れないのである。

こうしたメリハリを利かせられるためには、政策の役割と機能に関する深くてしっかりした理解が必要だ。現政権には、それが完全に欠落していると言わざるをえない。

ここで、少し海外の新型コロナ対応に目を向けておきたい。アメリカのトランプ政権については、何をかいわんやだ。トランプ氏は、感染状況や治療方法について、あることないことツイートしまくって混乱を招いてばかりいる。各州の知事たちが懸命に頑張っているのに、それを邪魔立てするようなことを口走る。たまったものではない。

欧州事情はさまざまだ。初動的には、大陸欧州のEU加盟諸国とEUを離脱したばかりのイギリスで大きな差があった。大陸欧州勢は、総じて早い段階からロックダウン・モードに入った。それに対して、イギリス政府は、一時、集団感染・集団免疫方式で行くのだという考え方に傾いていた時期がある。

そのため、当初は比較的緩やかな新型コロナ対策にとどまった。だが、その間に感染が拡大し、死者が2万人を超え、スペインを上回ってイタリアに迫るという状況になった。その中で、ついにはボリス・ジョンソン首相が感染し、重症化して集中治療室に運び込まれる騒ぎとなった。

疫病を甘く見て対応を誤った政策責任者に、天からの鉄鎚が下った。そんなふうにも思えてしまう顛末だが、それはそれとして、イギリスという国は何かにつけて方向感が定まるまで時間がかかるのである。

国民と対話し信頼される政策責任者が必要

何しろ、人々が納得がいくまで動かない。政府が打ち出した方針だからといって、従順にそれに従うのはしゃくに障る。気に食わない。だから、あえて逆らったりする。外出自粛だと言われると、あえてパブで騒いでしまいたくなる。

そんな特性を持つ国民に対しては、それこそ丁寧で納得ずくの説明が必要だ。それがちゃんと行われたと判断すれば、その段階からイギリス人は実にしっかり頑張るようになる。このプロセスがなかなか厄介だが、これがイギリス魂の1つの真髄だ。

これに対して、フランスはトップダウンの対応が速い。大統領権限も強い。だから初動は機敏だが、後から国民の不満が噴出しがちで大規模デモなどが起きやすい。

面白いことに、イギリスのジョンソン首相は退院後に人気が挽回している。自身の治療に果敢に対応してくれた医療・看護チームに心から深謝した。新型コロナ禍を軽視しているような、どこかおちゃらけた風情は影を潜めて、結構、真摯に新型コロナ対策に邁進している雰囲気が出てきた。

これがイギリス魂の琴線に触れたようで、支持率が上がっている。存外に正直者で気のいい奴だったらしいと、見直されているのである。

こうなると、おあまのじゃくで権力に逆らうことを身上としているイギリス人たちも「彼を信じてついていこう」ということになってくる。折しも、このタイミングでお子さんも生まれて、国内は「おめでとう」ムードに包まれている。鉄鎚転じて天恵の趣だ。やはり、素直に反省し、真摯に頑張るようになったことが天にも評価されたのかもしれない。

メルケル・マジック再び

それにつけても、このようなときには、やはり何と言っても政策責任者の信頼醸成力がものをいう。つくづくそう思う。何を言うかではない。誰が言うかだ。そのような面が多分にあると思う。

ドイツのメルケル首相が言うことなら、信じられる。だが、チームアホノミクスの大将が言うことだから信じられない。たとえ、大同小異のことでも、それを誰が言うかで人々の反応は変わる。これはとても重要なことだと思う。

メルケル首相は、党内の求心力低下で一時は支持率が下がっていた。メルケル・マジックも、もう終わりだという雰囲気になっていた。だが、新型コロナ危機への対応が評価されて支持率が挽回している。やっぱり、いざというときに頼りになるのは、この人だ。国民に対する彼女の決然としつつも真摯な語り掛けが人々を引き寄せたのである。

それに対して、チームアホノミクスは信頼醸成力のなさが露呈する一方だ。「強力なリーダーシップ」を発揮しているように見せようとして必死になるばかりで、世のため人のために働こうとはしていない。

政策責任者は「国のリーダー」ではない。国民に奉仕するサービス事業者だ。そのことがわからない政治家集団には、政策を担当する資格はない。