ドーハ後、浦和で苦しんでいた福田が、95年シーズンになると輝きを放ち始め……。写真:Jリーグフォト

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 まだ日本がワールドカップ本大会に出られなかった時代、どこか人間臭く、個性的で情熱的な代表チームが存在していたことを是非、知っていただきたい。「オフトジャパンの真実」としてお届けするのは、その代表チームの中心選手だった福田正博の体験談を基に、「ワールドカップに絶対出る」という使命感を背負って過酷な戦いに挑んだ日本代表の物語であると同時に、福田自身の激闘記でもある。今回は最終章の<エピソード7>だ。

【前回までのあらすじ】
92年に発足したオフトジャパンでトップ下に定着した福田は、ダイナスティカップとアジアカップ制覇に貢献。しかし、ワールドカップのアジア1予選を突破したあとはJリーグの過密日程も響き、調子を落とす。迎えた最終予選でも結果を残せず、チームはまさかの展開でアメリカ行きを逃がす。帰国後、福田は茫然自失の状態だった。

<エピソード7>
 本当の地獄は“ドーハの悲劇”のあとから始まった。福田は当時の心情をこう振り返っている。

「(ワールドカップ・アジア最終予選の北朝鮮戦以降)スタメンから外れた悔しさ、自分に対する歯がゆさ、情けなさ、いろんな感情があった。負けたとか、ワールドカップに出られなかったとか、そういう感情とは違う。やり切ってないから。なんかすっきりしない感じ。その感情をずっと引きずっていた」

 福田は一種のパニック状態に陥っていた。

「ドーハのあと、チーム(浦和レッドダイヤモンズ)に戻っても拠り所がないというか、どうしていいか分からない。パニックになっていた感じだね」
 
 人に会うのも嫌で、プレーしようにも力が湧いてこない。「ワールドカップ出場」に向けてやってきた使命感がすっぽりと抜け落ちた状態だった。

「目標、目的を見失った。俺は切り替えが得意なほうではない。むしろ、引きずるほうだった。過去のことを忘れて、『さあ、次』となれる選手のほうが結果を残せると頭では理解しているけど、俺はポジティブになれなかった。そういう性格だからね。ドーハのことを切り離せなかったんだ」

 自信を喪失しているが、浦和ではチームの中心として振る舞わなくてはいけない。その狭間で気持ちを上手くコントロールできず、いつも苛立っていたという。
 
 追い打ちをかけたのは浦和のチーム状況だった。93年の第1、第2ステージ(当時は2ステージ制)に続き、94年の第1ステージも最下位、年間順位でも2シーズン続けて最下位とどん底にいた。Jリーグ創成期、浦和は「Jリーグのお荷物」と呼ばれるほど“負け癖”が染みついていたのである。

 93年シーズンのJリーグでわずか4ゴールに終わった福田は、続く94年シーズンもパッとしない。怪我もあり、リーグ戦で6ゴールとエースに相応しくない成績を残した。

「チームの状態も、自分の調子も悪い。(ドーハから帰国後はしばらく)ピッチに立つのも怖いくらいだった。次の年(94年)も怪我があって思うようにいかない」
 
 ファンの期待に応えないといけないという思いはあった。しかし、実際はまったくと言っていいほど現実と向き合えなかった。

「現実を受け入れる勇気がなかった。なぜダメだったのか、それを受け入れることができなかった。今だから『(ドーハで)何もできなかった』と言えるけど、当時はそんなことを言えるわけがない。仮に本音を漏らしたら自分がダメになってしまうというか、そういうプレッシャーを受けているように見せたくなかった。すべてのことから逃げていたのかもしれない。(ドーハの悲劇について)喋らない、触れないというのは逃げていることだからね」

 95年シーズンも開幕当初は上手くいかなかった。しかし、5月10日のガンバ大阪戦あたりからゴールを量産していくようになる。鋭い突破でPKを獲得すれば、そのPKを冷静に決める。エリア内でパスを受ければ、正確なフィニッシュワークでゴールに突き刺す。就任1年目のホルガ―・オジェック監督の下、バイン、ブッフバルト、岡野雅行ら仲間のサポートもあり、チームの躍進に貢献。自身は32ゴールで日本人初のJリーグ得点王に輝き、同年のベストイレブンにも選ばれた。