サウジ戦で決定機を迎えた福田だが、ゴールならず。ここで得点していれば……。写真:サッカーダイジェスト

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 まだ日本がワールドカップ本大会に出られなかった時代、どこか人間臭く、個性的で情熱的な代表チームが存在していたことを是非、知っていただきたい。「オフトジャパンの真実」としてお届けするのは、その代表チームの中心選手だった福田正博の体験談を基に、「ワールドカップに絶対出る」という使命感を背負って過酷な戦いに挑んだ日本代表の物語であると同時に、福田自身の激闘記でもある。今回は<エピソード4>だ。

【前回までのあらすじ】
92年に発足したオフトジャパンで最初は反発しながらもハンス・オフト監督との信頼関係を築いた福田は、代表チームでトップ下に定着。ダイナスティカップに続き、アジアカップでも優勝に貢献した。しかし、ワールドカップのアジア1次予選を突破したあと、93年5月にJリーグが開幕すると……。心身ともに余裕がなくなっていった。オフトジャパンに都並など怪我人が出るなか、10月、ついにワールドカップ・アジア最終予選が始まろうとしていた。

<エピソード4>
 アメリカ・ワールドカップのアジア最終予選は、カタールのドーハを舞台にセントラル方式で総当たり戦を行ない、上位2か国が本大会出場というルールになっていた。日本の他にこのラウンドに駒を進めたのは、サウジアラビア、イラン、北朝鮮、韓国、イラクで、どこも強敵。1次予選で戦ったバングラデシュ、スリランカのようなアウトサイダーは皆無と厳しい戦いが予想された。しかも、約2週間の短期決戦で、一旦崩れると立て直すのが難しいという側面もあった。

 中東へのコンプレックス(エピソード3参照)もあってか、福田に余裕はなかった。

「(最終予選の仕組みみたいなものを)なんだかよく理解していなかった。ひとつの都市での集中開催、日本にとっておそらく初めての経験で、自分自身も戸惑う部分があった」

 ちなみに、最終予選に登録されたメンバーは以下の22名(フルネーム表記)。GKが松永成立、前川和也。DFは大嶽直人、勝矢寿延、堀池巧、柱谷哲二、都並敏史、井原正巳、三浦泰年、大野俊三。MFは福田正博、ラモス瑠偉、北澤豪、吉田光範、森保一、澤登正朗。FWは武田修宏、三浦知良(以下カズ)、長谷川健太、黒崎比差支、中山雅史、高木琢也。左サイドバックの都並はドーハ入りしても試合でプレーできる状態になかった。
 
 福田自身も、そしてチームも万全ではないなか、1993年10月15日、サウジアラビアとの初戦を迎えた。両国とも初戦ならではの硬さが見られた試合で、福田が「今でも感触を覚えている」というシュートシーンがある。20分、敵陣のエリア内でラモスがヘッドでポーンと浮かして左に流したボールを右足でジャストミート。しかし、完璧と思われたそのシュートは、GKのモハメド・アル・デアイエに左手一本で止められてしまう。決して大袈裟ではなく、この一撃は福田の、日本の流れを大きく左右するものだった。

「あのシュートが入っていればな、と思う。そんなもので気持ちは変わる。ラモスさんから来たボールを、ジャストミートしているわけよ。完璧なんだよ。少なくとも俺の中では完璧、感触も。今でもその感触を覚えているくらい、完璧なんだよ。上手く抑えて打っているし、GKの逆も突いた。でも、入らない。こういうことが起きるんだ。あれで俺の流れは変わった」

 本人が言うように、あのシュートは完璧に見えた。著者が映像で何度確認しても、完璧に見えたのである。デアイエのセーブは見事だったが、それでも……。当時のサッカーファンで「あれが入っていれば……」とそう思った方は決して少なくないはずだ。
 
 結局、サウジアラビアとは0−0のスアレスドロー。この結果を受け、福田の心に広がったのは焦りだった。