92年にダイナスティカップを制覇。福田は主力のひとりとして貴重なゴールを挙げるなど優勝の立役者のひとりに。写真:サッカーダイジェスト

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 まだ日本がワールドカップ本大会に出られなかった時代、どこか人間臭く、個性的で情熱的な代表チームが存在していたことを是非、知っていただきたい。「オフトジャパンの真実」としてお届けするのは、その代表チームの中心選手だった福田正博の体験談を基に、「ワールドカップに絶対出る」という使命感を背負って過酷な戦いに挑んだ日本代表の物語であると同時に、福田自身の激闘記でもある。今回は<エピソード2>だ。

【前回までのあらすじ】
 オフトジャパン発足当時のキリンカップでベンチにも入れず、ハンス・オフト監督に反発した福田。しかし、続くオランダ遠征でチャンスをモノにすると、自信が芽生え、オフトとの関係にも変化が訪れていた。

<エピソード2>
 オフトとの信頼関係を築きはじめた福田は、オランダ遠征後の8月17日に行なわれたユベントス戦でも三浦知良(以下カズ)のゴールをアシストするなどアピール。一部の選手とオフトとの対立関係が続く中、福田はオフトジャパンでの地歩を着々と固めていった。

「とても良い流れできていた。オランダ遠征に続いてユベントスとの国際試合でも結果を残し、ダイナスティカップの中国戦(92年8月24日/結果は2−0)でオフト体制の下で初ゴールを決めている」
 
 その中国戦から中1日で行なわれた北朝鮮戦(8月26日/結果は4−1)でも、福田は先制点をマーク。結果的にダイナスティカップ制覇の立役者となった福田が、なにより手応えとして感じていたのは“韓国への苦手意識”が消えていることだった。

「ダイナスティカップでは2回、韓国と戦った(大会初戦と決勝)。どちらも引き分けだったけど(大会初戦は0−0、決勝は2−2の末にPK勝ち)、なんとなく勝てるような気がした。オフトが当時掲げていたキーファクターは『アイコンタクト』『コーチング』『3ライン』『コンパクトフィールド』で、それを徹底させたうえで日本人の長所である技術力を前面に押し出して戦うというのが彼の戦略だった。オフト以前は、韓国に対して走力やフィジカルで上回ろうとした。相手の土俵で勝とうとしたんだ。でも、オフトはそういうアプローチをしなかった」

 つまり、フィジカル的な部分は韓国が上かもしれないが、それだけで試合の勝敗は決まらない。「日本の良さを出すこと」が韓国に対するベストな対抗手段だとオフトは考えたわけだ。

「1対1の戦いだけに捉われず、いわゆる組織力でボールを動かしながら戦うことを徹底しようとしていた。俺の感触では、十分に通用した。むしろ韓国のほうが苦しそうな顔をしていた。だから、こう思ったよ。これはやれるなって」
 
 オフト監督の片腕として良い仕事をしていたのが、コーチの清雲栄純だ。指揮官と選手の間に入って、チームの調和を整える。オフトジャパンにとって、清雲は不可欠なバランサーだった。当時、全体トレーニングのあとの自主練を巡って揉めた時があった。「自主練はするな」という監督に対し、「なぜだ?」と反発する一部の選手たち。それで1〜2時間も話し合いになると、清雲が「とりあえず監督はああ言っている。じゃあ、20分間だけ自主練をやろう。それ以上はやらない。これでどうだ?」と双方が納得できるような落としどころを決めていたのだ。

 だからといって、この名参謀の存在がダイナスティカップ制覇の決め手となったわけではない。やはり特筆に値したのは、オフト監督の手腕。その凄さを福田は肌で感じていた。

「オフトはオランダ人だけど、マツダ(現サンフレッチェ広島)で監督をやっていて日本の文化、日本人の特徴を理解していた。そんなオフトが素晴らしいのは、当時、日本人が気づいていなかった日本人の良さを気付かせてくれたこと。オフトは外国人だからね、日本人には見えないものが見えていた。韓国との試合に臨む際は、相手の良いところ、悪いところ、日本の良いところ、良くないところ、そういうものを総合的に考えて、組織力でボールを動かす戦い方に行き着いている。韓国に負けないためにどうすべきか、彼は分かっていたんだ」