オフトジャパンで主力を張った福田(8番)は、大きな使命感に燃えていた。写真:サッカーダイジェスト

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 「話さなくていいなら、しゃべりたくない話」と福田正博は言う。

 “ドーハの悲劇“のことである。1993年10月28日、カタールの首都ドーハで行なわれたアメリカ・ワールドカップのアジア最終予選、勝てば本大会出場が決まるイラク戦で試合終了間際まで2−1とリードしていた日本が最後の最後で追いつかれ、アメリカ行きの切符を逃がしてしまう展開は、オフトジャパンにとって残酷な結末だった。

 「打ちのめされた」という福田が、ドーハで心に深い傷を負ったのは紛れもない事実だ。それでも、「話していいと思う自分もいる」。誰かを批判するためでも、自分を慰めるためでもない。あの時いったい何が起きたのか、そこに至るまでの長い道のりの過程で何があったのか、それを伝えることで「サッカーの厳しさを分かってほしい」と福田は考えている。

「今だからこそ受け入れて、整理がついて、話せる状態にある。ただ、美談にする気はない。ドーハでの戦いがあったから、次のフランス・ワールドカップに行けたなんて解釈があるけど、自分はそう考えていない。ドーハはドーハ、フランス・ワールドカップはフランス・ワールドカップ。別物だよ。ただ、あのイラク戦で、サッカーの厳しさ、ワールドカップに出ることの大変さは再認識できた。『本当に勝負は終わるまで分からない』というメッセージにはなったと思う」

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 まだ日本がワールドカップ本大会に出られなかった時代、どこか人間臭く、個性的で情熱的な代表チームが存在していたことを是非、知っていただきたい。「オフトジャパンの真実」としてお届けするのは、その代表チームの中心選手だった福田の体験談を基に綴った、「ワールドカップに絶対出る」という使命感を背負って過酷な戦いに挑んだ日本代表の物語であると同時に、福田自身の激闘記でもある。今回は「エピソード1」だ。

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<エピソード1>
 1992年3月、外国人初の日本代表監督に就任したのがハンス・オフトだ。のちに同年のダイナスティカップ優勝、アジアカップ制覇をもたらす指揮官だが、就任当初からしばらくは選手たちに受け入れてもらえず、チームの雰囲気は悪かった。福田は当時の様子を次のように振り返る。

「代表チームの中心は(三浦知良、ラモス瑠偉などの)ヴェルディ(川崎)勢で、彼らは狭い局面で(中央から)崩すブラジル的なサッカーを好んでいた。でもオランダ人であるオフトのスタンスは『攻撃はワイドに』で、そこにズレがあった。最初は相容れない感じだったね。どちらかというとオフトを否定している人が多かった。当然ながら、ミーティングの雰囲気も悪い。試合後、オフトは一人ひとりを評価するんだけど、当時の選手はそのやり方にも慣れていなかった。俺自身、オフトに対して怒りをぶつけた時もあったしね」
 
 オフトジャパンの初陣となったアルゼンチン戦(92年5月31日/結果は0−1)と続くウェールズ戦(6月7日/結果は0−1)、キリンカップのこの2試合で福田は招集メンバーで唯一使われなかった。「なんだよ、ふざけんなよ……」。大会後のミーティングでその怒りは頂点に達していた。福田はオフトから「自分で点数をつけてみろ」と言われた時、「もう代表に入らなくていい」という覚悟で思いの丈を打ち明けた。「俺は使われていないし、点数をつけられない。なんでメンバーに選ばれたかも分からない。むしろここで選ばれた理由を聞きたいくらいだ」と。

 福田は少し笑いながら回想する。