09年のホーム最終戦でスピーチをした海保氏。「ざまぁ見やがれってんだ!!」と叫ぶ姿は感動的すらあった。写真:Jリーグフォト

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 モンテディオ山形を取材するようになって、いつの間にか16年目になる。その間、いくつものエポックメイキングな出来事を目の当たりにしたが、クラブにとって最も重要なインパクトを残した出来事は何かと問われれば、あまり悩まずに答が出る。2008年に成し遂げた、初めてのJ1昇格だ。
 
 その意義の大きさは、その後の降格、昇格、降格を経た今も変わらない。それどころか、あの時に昇格していたからこそ今の山形がある、と思うことのほうが多い。そして、あの初昇格を思う時、小林伸二監督(現・北九州)や、宮沢克行キャプテン(現浦和ジュニアユースコーチ)、二枚看板の豊田陽平(現・鳥栖)、長谷川悠(ウロンゴン・オリンピックFC/オーストラリア)ら当時のメンバーにも増して、決して忘れることのできない人物がいる。海保宣生理事長である。
 
 海保氏が、当時まだ公益社団法人だったモンテディオ山形の運営母体・スポーツ山形21の理事長に就任したのは2006年5月。2000年まで鹿島アントラーズの常務取締役を務め、定年退職後は地元の千葉県で総合型スポーツクラブの立ち上げに尽力していたが、山形県からの依頼を受けた川淵三郎・日本サッカー協会会長(当時)の仲介で、地縁も血縁もない山形の地にやってきた。“落下傘人事”のような形での就任に「当初、周囲の目は冷ややかだったね」とのちに語っていたが、味方になったのはサポーターだった。
 
 ホームゲームの試合前には、サポーターの輪に入りスタジアムグルメの芋煮や肉そばを頬張りながら、腹を割って意見を交わす。サポーターの「このままではいつまで経ってもJ1に上がれない」という危機感と、「過剰と言ってもいいくらい」(海保氏)の期待を痛いほど感じた。そして動く。当時7億円ほどだった予算規模を拡大。財政を安定させないことにはチーム力を上げることもできないことを、海保はよく分かっていた。

 入場者を増やし、スポンサー獲得への施策を捻り出す一方で、07年には空席だったGM職を機能させるべく、前身であるNEC山形サッカー部の創設に関わった中井川茂敏氏に白羽の矢を立てた。すでに堅気の企業人だった中井川氏を引き抜いたのである。そして中井川氏が招聘した小林伸二監督が就任1年目でJ1昇格。駆け出しの番記者として傍で見ていても、よくできた物語のような展開だった。
 
 十数年が過ぎた今の地点から眺めると、物語はさらに厚みを増している。2007年に海保氏の肝入りで鹿島から加入した石川竜也(現・山形ジュニアユース監督)は、2度の昇格に貢献して2017年まで活躍を続け、山形のレジェンドとして引退した。

 また、鹿島のカリスマスカウトとして職を全うし第一線を退いていた平野勝哉氏を、半ば強引に引き入れたのも海保氏だった。その平野氏が強化育成アドバイザーとして獲得に関わった選手の一人、山田拓巳は今、主力でありキャプテンでもある山形の顔として13年目のシーズンを迎えている。あの頃海保氏が仕込んでいった核が、何年も経って大粒の真珠になって輝いている。そんな思いを強くする。
 
 初めてのJ1を戦い、大方の予想を裏切って残留した2009年シーズンの最終節。シーズン終了の理事長挨拶で、クラブ史に残る名言が飛び出した。
 
 「ざまぁ見やがれってんだ!!」
 
 シーズン前、こぞって山形の最下位を予想した人々に向けて意気揚々と言ってのけた言葉に、選手たちは相合を崩し、スタンドはやんやの喝采。チームとフロントとサポーターの一体感が伝わってくるシーンだった。番記者的には、2014年昇格プレーオフ準決勝でのGK山岸範宏の決勝ゴールと並ぶ名場面だと思っている。

 2010年3月、海保氏は健康上の理由もあり理事長職を勇退。地元の千葉県に活動の場を移した。山形は翌’11年に降格してしまったが、14年、山岸範宏の劇的ゴールで昇格プレーオフ決勝に進出。ファイナルの舞台となった味の素スタジアムのスタンドに、応援に駆けつけた海保氏の姿があった。しかし、山形の2度目の昇格を見届けると、2015年4月に逝去。73歳だった。