インタビューに応えてくれたジーコ。Jリーグ開幕当初について、振り返ってもらった。写真:徳原隆元

写真拡大 (全2枚)

 1991年に住友金属(鹿島の全身)に加入したジーコは、日本サッカーの底上げに尽力した世界のスターのひとりだろう。93年のJリーグ開幕当初の活躍ぶりはもちろん、2002〜06年には日本代表を指揮し、現在は古巣の鹿島でテクニカルディレクターを務める。

 そんなジーコはJリーグをどう見ているのか。19年9月26日号でインタビューに応えてくれたが、ここでは、本誌で伝えきれなかった話も加え、改めてノーカットバージョンでお届けする(※インタビューは19年9月5日に実施)。

 前編では、リーグ発足当初の過去について語ってもらった。

───◆───◆───
 
「日本サッカーも発展していくんじゃないかなと、明るい未来を予想していました」

 Jリーグ開幕当初からジーコは、そんな予想を立てていた。根拠としてまず評価していたのは、リーグ戦開幕を翌年に控えたプレ大会として、92年に開催されたリーグカップ。Jリーグ初の公式大会で採用されたルールが「非常に良かった」と振り返る。

「第1回ナビスコカップの予選リーグでは、勝利で勝点4、2得点で勝点1がボーナスで加えられるルールがありました。そうすると、やっぱり得点をしなくてはいけない、したほうが勝点を稼げるという考えが選手にも生まれます。一時期は10チーム中9位にいた僕ら鹿島は、7節で名古屋に7−1で勝って、そこで勝点7を得ていっきに4位まで上がりました。そういう例があると、どのチームも得点を量産すれば上位に絡める意欲になるので、多くのゴールシーンが生まれる。サポーターはそれを観たいわけなので、モチベーションも『また観に行きたい!』、『応援しよう!』という気持ちになって、非常に良いルールだったと思います」

 2得点で勝点1がボーナスで加点されるルールは、以降のリーグとカップ戦では採用されなかったが、Jリーグ開幕当初の制度も評価できるものだったという。

「当時に僕が耳にしたことによると、Jリーグ発足にあたって、Jリーグの関係者やクラブの社長が、アメリカへNBA(アメリカのバスケットボールリーグ)の話を聞きに行ったそうです。そこでは、アメリカでサッカーが普及しなかった原因は引き分けがあるということ、そしてバスケは勝敗がつくようになっていて、必ずどちらかのサポーターが喜んで帰るという状況を知ったようです。そこから学び、Jリーグが発足当初に考えたのは、引き分けをなくすこと。ゴールデンゴールも画期的な制度でしたし、90分、延長戦、PK戦に及んででもどちらかが勝たないといけないルールは、非常に良かったと思います。おかげでファンは熱狂的になり、サッカーに興味を持つようになりました」

 初期のリーグ戦は全試合が完全決着方式。90分で決着がつかなければ、得点したチームを勝者として試合を打ち切るゴールデンゴール方式の延長戦が行なわれ、それでも試合が決まらない場合はPK戦に持ち越される。そして、93〜94年は勝利数のみで順位が決まっていた。このルールだけでなく、ジーコは「大々的に宣伝をしていたマーケティング」、レオナルド、リトバルスキー、リネカーら「スーパースターを連れてきた」おかげで、多くの観客を集められたと回顧する。
 もちろん、「有名な外国人選手はメディアの露出という面では非常に重要」と肯定はしつつも、ジーコは「ただ…」と言って、こう続けた。

「僕はJリーグ開幕当初、全クラブの社長さんに『日本人のスーパースターも育成しないといけない』と言いました。そうすると、各クラブも取り組み、ヒデ(中田英寿)から始まり、稲本(潤一)、中村(俊輔)、高原(直泰)などの選手たちが台頭し始めて海外移籍。なおかつ、彼らが海外で活躍できたのは良かったと思います。日本のサッカーファンであるなら、ただ有名な外国人選手を応援するのではなくて、やっぱり自国の選手を応援するべき。「応援したい!」という気持ちにさせないといけなかったので、(先述の選手たちが活躍できて)上手くできたんじゃないかと思います。また、その延長線上として、ワールドカップの出場、今でも継続できている連続出場が成果としてあるのは良いことです」