2012年にペトロヴィッチ監督の後を継いだ森保監督。就任は決して唐突でも思いつきでもなかった。(C)SOCCER DIGEST

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 永井龍や浅野雄也ら、移籍してきた選手たちが、一様に言う言葉がある。

「広島のような強豪」
「優勝を狙えるチーム」

 確かに、21世紀に入ってからの広島は、リーグ戦3度の優勝(2012、13、15年)をはじめとして、ルヴァンカップ(10、14年)、天皇杯(07、13年)それぞれ2度の準優勝、ゼロックス・スーパーカップでは4度の優勝(08、13、14、16年)、クラブワールドカップでは3位(15年)と、結果を残している。一方で、02年、07年と2度の降格を経験し、17年も残留争いを強いられて勝点1差で勝ち残った。危機も少なからず経験している。

 広島の財政規模からすれば本来、「強い」チームを作るのは至難の業だ。1997年には経営危機も経験し、高木琢也ら主力選手を放出せざるを得なかった。さらに11年オフ、経営陣は財政健全化を目的とした減資を決断する。その影響もあり、チームのベースをつくったペトロヴィッチ監督との契約延長を見送らざるを得なかった。チーム得点王である李忠成の海外移籍(サウサンプトンへ)やミキッチ以外の外国人選手の退団も認めるしかなかった。他にも、レジェンドというべき服部公太や盛田剛平らベテランもチームを去ることに。

 そういう事情もあり、12年の開幕前には多くのジャーナリストや評論家が広島を下位転落と予想。残留争いの主役となり、降格するという予測も少なくなかった。しかも偉大なるペトロヴィッチの後を引き継ぐのは森保一。クラブ創設期のミスター・サンフレッチェと言っていいレジェンドではあるが、監督経験はゼロ。「この人事では、チームの弱体化は避けられない」と怒りを爆発させたジャーナリストもいた。
 しかし、クラブ側からの視点に立てば、森保監督就任は決して唐突でも思いつきでもなく、まして減資の影響によるものでもない。03年に彼が仙台で引退した直後、広島に呼び戻し、指導者の道を一から歩ませた。当初はチームを担当させずに育成部門で経験を積ませる。時にはスクールコーチのアシスタントとして、ボール拾いに精を出す日々もあった。05年からは吉田靖監督のもとでU−20日本代表のコーチに就任。07年のU−20ワールドカップでは槙野智章、柏木陽介、平繁龍一の広島トリオらと共に世界の舞台で戦った。ちなみにこのチームには、内田篤人や森重真人、太田宏介や香川真司といった代表で活躍する選手たちも参戦。魅力的なサッカーと明るい個性で人気を集めた。

 代表から戻ってきた彼を、クラブはトップチームのコーチとして抜擢。09年までペトロヴィッチの下で学ばせた。翌年から森保は新潟のヘッドコーチに就任するが、いずれは広島の監督として呼び戻すという考え方は微動だにしなかった。彼が広島を離れた後も、コミュニケーションをとり続けていた。

 久保允誉会長の言葉である。

「森保はずっと、監督候補だった。U−20日本代表や新潟に彼が行ったのも、武者修行に行ってもらっている感覚。本谷(祐一社長※当時)と話をしていても、(監督候補として)いつも森保の名前がまず、あがった。ミシャに後継監督に相談した時も森保のことを話したのだが、『それは良い選択だ』と言ってくれたんです」
 森保自身、オファーを受けた当初は「ミシャさんの後が俺でいいのか」と考えたという。しかし「挑戦したい」という気持ちが逡巡を跳ね返し、ペトロヴィッチ前監督に「広島の監督に就任することになりました」と挨拶を終えたうえで、就任記者会見に臨んだ。

 その会見は、11年12月8日に行なわれた。その4年前、広島がJ2降格を余儀なくされたあの日に、森保新監督は記者たちの前に立った。07年のあの時、「誰になんと言われていようと、私はミシャと共にやっていく」と前代未聞の「降格監督続投人事」を発表した久保会長は、森保新監督に対してこんな言葉を贈っている。