日本サッカー界の歴史に残るトピックが、わずか一週間の間にふたつ生まれたタイミングがある。1999年の4月である。
 
 ひとつ目はワールドユースだ。フィリップ・トルシエに率いられたU-20日本代表が、FIFA主催の大会で初の決勝進出を果たしたのである。
 
 カメルーン、イングランド、アメリカとのグループリーグを首位で通過した日本は、決勝トーナメント1回戦でポルトガルをPK戦で退けた。準々決勝ではメキシコを2対0で下した。

 中田英寿や松田直樹が出場した95年、柳沢敦や中村俊輔が奮闘した97年は、ともにベスト8だった。ポルトガルを下した選手たちに爆発的な喜びはなく、「前回と同じところに来ただけ」と話していた。

 メキシコを撃破して過去最高のベスト4入りを果たしたことで、達成感に包まれてもおかしくなかった。それだけに、日本時間の4月22日に行われた準決勝は価値がある。

 対戦相手はウルグアイだった。97年大会の準優勝チームであり、フル代表は2度のワールドカップ優勝を果たしている古豪である。

 さらに言えば、準々決勝から中2日での一戦だ。ウルグアイは決勝トーナメント1回戦からラゴスにステイしていたが、日本はバウチ、イバダン、そしてラゴスと移動を繰り返している。短期の連戦が6試合目ともなれば、移動だけでも億劫になるものだ。

 23分に高原のゴールで先制するが、すぐに追いつかれる。1対1で迎えた35分、2トップの一角を担う永井雄一郎が大会初得点を決め、2対1と引き離す。

 後半は押し込まれた。疲労感が顕在化した。それでも、2対1で逃げ切った。

 2日後の4月24日に行われた決勝は、スペインが相手だった。決勝進出に国内のメディアも沸き立ったが、戦前から苦戦が予想された。キャプテン小野を累積警告による出場停止で欠くからだ。

 しかも、試合の入りが悪かった。前半5分、GK南雄太がオーバーステップの反則を取られ、間接FKからゴールを撃ち抜かれた。大会7試合目にして初めて先制点を許し、14分にも追加点を与えてしまう。

 トルシエ監督は「開始20分で勝負が決まる」と話していたが、主導権を奪われた日本は攻撃の糸口を見出せない。30分には早くも3点目を喫した。後半開始早々にも失点した日本は、0対4で敗れた。完敗だった。

 ボランチの遠藤保仁は「スペインはフィジカルも判断力も別格だった。悔しいけどいい経験だった」と話した。負傷を抱える稲本潤一に代わって、彼は全7試合にスタメン出場した。

 決勝戦をタッチラインの外から見つめた小野は、「スペインの強さは、僕たちの刺激になる。これで終わりじゃないですから。次に対戦することがあれば、違った結果になるようにしたい」と未来を見据えた。本山雅志とともに大会ベストイレブンに選ばれた彼には、スペインのエスパニョールからオファーが届いたとの報道があった。

 ワールドユースにおけるその後の成績は、03年のベスト8が最高である。U-20ワールドカップに改称された07年以降は、ベスト8からも遠ざかっている。09年から15年までは4大会連続でアジア予選さえ突破できず、17年と19年はベスト16に止まっている。

 1979年生まれの小野らは、このワールドユースをきっかけに黄金世代と呼ばれていく。同時期に傑出したタレントが登場したのは間違いないが、彼らは特別だったのだろうか。五輪代表や日本代表でも世界の舞台に立ち、クラブレベルでも海外を主戦場としていったのは、生まれながらの素質があったからこそなのか。

 そうでは、ない。

 ナイジェリアのワールドユースでは、移動のバスの冷房が切れても、ホテルのシャワーが冷たくても、日本食が食べられなくても、不満を漏らす選手はいなかったと聞いた。オフザピッチでも逞しいメンタリティこそは、彼らを黄金世代たらしめたと思うのだ。

 そして、4月24日のワールドユース決勝から6日後、完全アウェイのなかでアジアの頂点に立つチームが現れる。(以下、次回へ)