あのブラジル人Jリーガーはいま
第1回ジョルジーニョ(前編)

 1994年アメリカW杯。ブラジルは決勝でPK戦の末にイタリアを下し、24年ぶりに世界チャンピオンのタイトルを手に入れた。その立役者はロマーリオだった。彼は大会中チーム内最多の5ゴールを決め、大会最優秀選手にも選ばれた。しかし、その優勝を陰で支えたもうひとりの功労者がいた。それがジョルジーニョだ。


1995年から98年まで鹿島アントラーズでプレーしたジョルジーニョ photo by Yamazoe Toshio

 本大会を前にブラジルは危機に陥っていた。南米予選の最終戦で、ブラジルはウルグアイに勝たなければならなかった。そうでなければ、史上初めてW杯出場を逃す可能性さえあった。しかしこの時、セレソン(ブラジル代表)の雰囲気は最低だった。ロマーリオがその少し前の親善試合出場を拒否したことで、カルロス・アルベルト・パレイラ監督との仲が決裂しかけていたのだ。

 そこで立ち上がったのがジョルジーニョだった。彼はロマーリオにチームに戻るように説得し、モチベーションを上げさせると同時に、パレイラ監督を落ち着かせた。その結果、ロマーリオはこの試合で2ゴールを決め、ブラジルは無事W杯出場を決めた。ジョルジーニョ自身も1ゴール目をアシストなど活躍。ロマーリオはゴールを決めると。真っ先に彼のもとにかけつけた。

 温厚で常に礼儀正しく、他人をリスペクトするジョルジーニョは、いわばロマーリオと正反対の性格であったが、それがよかったのかもしれない。セレソンの合宿でふたりはいつも同室で、ジョルジーニョは多くの伝説を持つ悪童に忠告ができる、数少ない人間でもあった。いまでも彼らは仲のいい友人である。

 彼がサポートしたのはロマーリオだけではない。ドゥンガも一筋縄ではいかない性格をしているが、彼の代表監督就任中、ジョルジーニョはそのアシスタントを務めている。チームメイトのみならず、対戦相手やサポーターなど、誰からも愛される存在であった。ブラジルサッカーの歴史の中でも、最も紳士的で謙虚な選手といっても過言ではないだろう。

 ジョルジーニョは1964年、リオデジャネイロの郊外の貧しい地区で生まれた。父親のことをジョルジーニョはこう語っている。

「彼はポルトガルからの移民だったが、とにかく酒が好きだった。家に帰るといつも暴力をふるった。今でいうDVだ。母はあまり何度も殴られたため耳が聞こえなくなってしまった。私も手加減なしに殴られた。本当にひどい子供時代だった」

 その父親も早くに亡くなり、一家は貧しかった。ジョルジーニョ少年にとって、サッカーはそんな現実から逃れる唯一の手段だった。

「サッカー人生で最も栄光に輝いていた時でさえ、かつての家での風景がフラッシュバックのように脳裏に蘇る。母が泣き、自分は殴られないようにどこかに隠れ震えている。そんなシーンがまるで映画のように見えてくるんだ」

 彼の持つ優しさは、そうした生い立ちからくるのかもしれない。選手時代、彼は毎日一番に練習場に現れ、翌日のために誰よりも早く就寝した。そんなジョルジーニョをフラメンゴでともにプレーしたジーコはこう評している。

「ジョルジーニョはサッカー選手のお手本のような生活態度だった。彼が頑張っているから、自分も頑張る。そう思う選手も少なくなかったろう。彼はチームのエネルギーの源であり、無くてはならない存在だった」

 ブラジルからヨーロッパに渡っても仕事に対する真摯な態度は変わらなかった。レバークーゼンで多くの勝利を得て、名門バイエルンでは外国人選手ながらキャプテンを務めるまでになったのは、彼の人柄と仕事熱心な態度からだろう。

 1995年、シーズン途中に突如ドイツを離れ、日本へと渡った。当時のいきさつをジョルジーニョ自身が教えてくれた。

「実は日本に行くなんていう考えは自分の頭にはまるでなく、イタリアかスペインに行きたいと思っていたんだ。しかし、バイエルンがヨーロッパのライバルチームに私を渡すのを嫌がっていて、そんな時に日本からのオファーが来た。

 私を鹿島アントラーズに呼んだのはジーコということになっているが、それは真実ではない。私を呼んだのはジーコの兄のエドゥだった。あまり知られていないことだが、ジーコは私をほしがってはいなかった。彼らには、アルシンドの代わりになるような前線の選手が必要だったからだ。でもエドゥの口調は断固としていた。『ジーコと喧嘩をしても僕は君がほしい。このチームには真のリーダーが必要だ。経験があってチーム全体を動かせるようなね』と。その言葉が私を決心させたんだ」
(つづく)