プロ1年目の室屋。負傷を乗り越え、J1の12試合に出場した。写真:茂木あきら(サッカーダイジェスト写真部)

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 当時の明治大・体育会サッカー部の監督である神川明彦が「室屋はプロでも十分に通用する」と思うのと時を同じくして、室屋の才能に惚れ込んでいたのが当時FC東京のスカウトだった浅利悟(現FC東京・育成部サブアカデミーダイレクター)だ。

「当時のFC東京は徳永(悠平)選手が不動の右サイドバックで、その彼に取って代わるディフェンダーを探していました。青森山田高時代から気になる存在でしたが、なにより惹かれたのは負けず嫌いなところ。それはプロで成功するために大事な部分で、さらに言えばダイナミックなプレーも魅力的に映りました」

 アンダー世代の日本代表に名を連ねていた室屋は、大学サッカー界屈指のスターであり、もちろん他クラブも狙う逸材だった。だから、浅利は明治大学の八幡山グラウンドに足繁く通った。「どうしてもFC東京に来てもらいたい」という熱意を室屋にアピールするために──。

 実を言えば、室屋は3年次に特別指定選手としてFC東京に加入している。だがマッシモ・フィッカデンティ体制下で出番をもらえず、シーズン途中ながらも自らの意思で大学の活動に専念した。

 そんな経緯もあり、特別指定選手として引っ張ってきた浅利は「負い目を感じていた」。だから、「それでもFC東京に来てもらいたい」という想いを伝える必要があったのだ。ただ、たとえ室屋本人を口説き落とせたとしても、別のハードルがあった。そう、スポーツ推薦の問題である。浅利はいう。

「室屋がうちに来てくれると言っても成立しない話だった。大学側の判断を待つしかありませんでした」
 
 グルージャ盛岡(現・いわてグルージャ盛岡)の監督に内定していた神川が15年12月31日付けで明治大を去ったこともあり、「室屋の去就」は同サッカー部のゼネラルマネジャーの井澤と監督の栗田大輔に委ねられた。栗田は当時をこう回顧する。

「現役大学生でリオ五輪候補に入っていたのは室屋ぐらいで、我々はどうしても彼をオリンピックに出したかった。ちょうどアジア予選を突破したタイミングで私も井澤さんも『室屋をプロに行かそう』という意見で一致していましたから、あとは大学を説得するだけでした。彼の将来、オリンピックに出す意義、そういうことをいろんな部署に伝えました。幸い、室屋は単位を取っていて、学校を辞めるわけでもなかった。サッカー部を退部するだけで学校自体に迷惑をかけないという点を理解してもらって、最終的には快く送り出せました」

 こうして室屋は16年2月、晴れてFC東京の一員となった。入団の決め手は「浅利さんがいたから」だ。「試合や練習をいつも観に来てくれて、自分のことを『欲しい』と何度も言ってくれましたから」

 室屋をFC東京に導いた浅利は栗田や井澤に感謝の言葉を述べる。

「井澤さんや栗田さんの働きかけで大学側も心を動かされたんだと思います。室屋の今日があるのは井澤さんたちの決断があってこそです」

 ちなみに、スポーツ推薦の生徒が在学したままプロになるのは、同サッカー部で初のケースだった。
 
 記念すべきプロ初日の練習で左足骨折というアクシデントに見舞われた室屋だが、そこから不屈の闘志で這い上がり、16年のリオ五輪に臨む代表メンバーに見事選ばれた。これまで彼に携わってきた指導者、関係者の夢が叶った瞬間でもあった。

 U−17時代から代表の常連でエリートのようにも見えるが、しかし本人に言わせれば「挫折の連続」だった。事実、今年で在籍4年目を迎えたFC東京でも順風満帆なキャリアを築けてきたわけではない。

「最初の1、2年はJリーグのテクニカルなサッカーに適応できず、苦しみました。チームの中で自分の特長を発揮できるまで、だいぶ時間がかかってしまいました」