果敢にドリブルを仕掛ける中村敬斗。秋田戦のプレーには、闘志が漲っていた。(C)J.LEAGUE PHOTOS

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 日陰に入ると、まだ肌寒さを少し感じる頃だった。19年5月5日、吹田スタジアム。そのピッチには、おびただしいほどの熱量を持った青年が立っていた。G大阪U-23の一員として出場したJ3秋田戦は彼のターニングポイントになったのかもしれない。現在オランダ1部トゥベンテでプレーするFW中村敬斗である。

「最後のところを決め切りたかった。でもパフォーマンスはまずまずだったし、今日の試合に出られたことは良かったと思う」

 チームは3-1で勝利。35分過ぎと試合終了間際には決定的なシュートも放った。食野亮太郎(現スコットランド1部ハーツ)の8本に次ぐ5本のシュート。ノーゴールに終わったことには唇を噛んだが、左サイドからの仕掛けは攻撃を活性化させて2点目の起点にもなった。そして鬼気迫るプレーから一転、試合後の彼はさわやかな顔でこう言った。

「あとは影山さん(影山雅永監督)が決めること。僕は待つのみですね」
 一点突破に賭けた一戦だった。19年の中村が掲げた目標のひとつは、ポーランドで開催されるU-20ワールドカップ(5月23日〜6月15日)に出場することだった。だが3月の欧州遠征には選出されず。4月の直前合宿でも招集されなかった。扉は閉じられつつあった。

 風向きが変わったのは、U-20代表の主力と目されていた久保建英(マジョルカ)と安部裕葵(バルセロナB)がA代表に招集されるという情報だった。A代表は6月にキリンカップとコパ・アメリカへの招待参加が予定されていた。久保と安部は上のカテゴリーに招集され、U-20ワールドカップには出場しないかもしれない、と噂になっていた。

 もし、ふたりが不在ならばドリブラーが必要になるかもしれない――。中村はそう感じていた。
 19年シーズン。それまでトップチームでのリーグ戦出場時間は浦和戦(4月14日)のわずか4分間のみだった。秋田戦前日の4日に行なわれたFC東京戦でもベンチ入りしただけで出場機会は巡ってこなかった。18年シーズンとは違う境遇。その一因は、G大阪・宮本恒靖監督の目に「昨年のようなハングリー精神が欠如している」と映っていたからだった。

 だが中村は腐らなかった。むしろ、いつも通り「成長するチャンスですよね」と前向きに捉え、U-23チームの森下監督のハードな練習に取り組んだ。そして4月24日のルヴァンカップ・磐田戦では1得点・1アシストをマーク。心身ともにコンディションが上がっている状態で迎えた秋田戦だった。

 FC東京戦後、ミックスゾーンを通り過ぎる彼はこう呟いた。「明日(秋田戦に)出られるかどうかは分かりませんが、出たら思い切りプレーします。持っているものをすべて出します」。こちらが「出る気満々やん」と思わずツッコミを入れたくなるほど、言葉は熱く、眼は研ぎ澄まされていた。
 5月7日。U-20代表を率いる影山監督が選んだメンバーに『中村敬斗』の名前が記されていた。「久保と安部くんがいないことで入れたのは言われるまでもなく分かっている。でもメンバーに入れば、今までの序列は関係ない。成り上がるだけですね。世界に『KEITO NAKAMURA』の名前を知ってもらう」。

 ワールドカップでは“ジョーカー“として全4試合に出場。同大会でセミファイナルに進出したエクアドルやイタリアの守備陣も中村のドリブルは止められなかった。決勝トーナメント1回戦の韓国戦(同大会準優勝)では惜しいヘディングシュートも放った。若く、光輝く個性を、欧州クラブは見逃さなかった。
 
 大会後、中村はG大阪のトップチームでレギュラーを掴むだけではなく、トゥベンテやフローニンヘンなどからの正式オファーをたぐり寄せた。様々な状況を精査し、彼はトゥベンテを選択。7月20日のリーグ名古屋戦を最後に、オランダへと渡った。

 決して秋田戦の1試合だけで評価が上がったわけではないだろう。積み上げてきた実績や能力を総合的に判断されたはずだ。ただ、彼が秋田戦に並々ならぬ闘志を持って臨んでいたのは間違いない。その証拠に、筆者の取材ノートにはこんな一文が残っている。「敬斗 気持ち強い」。思わずペンを走らせるほどの熱量が、あの日の彼からは漂っていた。

取材・文●飯間 健