ライター像が多様化し始めたのもその頃からだと思う。「どこかのチームに強くなる。あるいは特定の選手と強いパイプを築く」というスタイルは、年を経るごとに浸透していった。
 
 取材を通して親しくなる人は、特に意識をしていなくてもそれなりにいる。困るのは、たとえばそうした人が「監督」になってしまった場合だ。「サッカーは監督で決まる競技」なので、監督は批評、批判を受け、追及されるべき一番の対象になる。

 岡田さん、西野さんとは実際、それまで仕事でご一緒させてもらったことが幾度かあった。楽しい時間を過ごしたことがあるだけに、日本代表監督就任のニュースを耳にしたとき、弱ったなと少しばかり頭を痛めることになった。

 だからこそ逆に監督になる人には一言いいたくなる。批評、批判をしたくてしているのではない。仕方なく、なのです、と。それはともかく、岡田さんは代表監督を終えると、テレビ解説者として評論する立場に就いたものの、時の代表監督の采配には口を開こうとしなかった。

「自分が監督だったとき、いろいろ言われたので、監督の気持ちがよく分かる。なので、私は監督を批評、批判をしないことにしています」と。お気持ちは分かるが、解説者、評論家としてテレビに出演するのであれば、そこはしっかり言いましょうよと、意見したくなったものだ。

 岡田さんに限った話ではない。このタイプの解説者、評論家は、実際、数多くいる。日本代表戦はもちろん、Jリーグの試合においても、監督采配に付いて批評を避けている人がほとんどだ。それよりレベルの高い欧州サッカーの試合で解説をする場合は、遠慮なく批評しているのに、である。

 取材対象者とどの距離で接するか。その距離感についてどれほど敏感になれるか。中立を意識する筆者には、そこに敏感な人と敏感でない人との差が大きく映るのだ。