■国民が激怒した安倍晋三の貴族動画

危機対応を売りにしてきた安倍政権だったが、新型コロナという戦後最大級の危機にあって、リーダーシップを発揮できていない。

写真=iStock.com/si-ki
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4月7日には新型コロナに関連する3度目の演説・記者会見で、戦後初の緊急事態宣言を行った。この時の安倍晋三総理の姿を、「お疲れのようだが大丈夫か」と同情的に見た人は多いと思うが、闘う姿勢を感じたという人は少なかっただろう。

極めつきは4月12日朝に安倍総理のSNSアカウントに投稿された動画だった。歌手の星野源さんが歌う動画とのコラボレーションが流行(はや)っていたらしく、これに安倍総理が“乗っかった”格好だ。愛犬と戯れ、本を読みコーヒーをすする私服姿の安倍総理。「自宅で過ごそう」と国民を啓発する意図だったことはわかるが、あまりに「緊急事態」からかけ離れた「くつろぎおこもり動画」には脱力するほかなかった。一部からは『貴族のような振る舞い』との批判も出た。いずれにしろ、ここでは「総理や政府が働くから、国民は休んでくれ」というメッセージを伝えるべきだったのではないか。

安倍総理は4月7日の会見でニコニコ動画の記者からの質問に対し「ネットから出てくる情報をつかみながら対処していきたい」と答えているが、こういう対処を望んだ人はおそらく誰もいなかっただろう。

■愛国的政治家の代名詞だったが

かねて安倍総理を「闘う政治家だ」と評する声は多かった。肯定的であれ否定的であれ、いざとなれば強権を振るうことも辞さない、危機や有事に強い政治家である、と。

北朝鮮のミサイル対応や拉致問題、中韓との歴史論争、朝日新聞との対立といった局面で、確かに安倍総理は闘ってきた。親安倍的な保守の論調においては、安倍総理はまさに「愛国的政治家」の代名詞だった。

反安倍的なスタンスを取ってきた人たちからは、安倍総理をヒトラーになぞらえる声すらあった。憲法への緊急事態条項の記載は、ナチス政権の全権委任法にも等しいという批判も後を絶たなかった。

だがこれらの論評は間違いだった。振るえる強権などなかったし、危機に際し戦う姿勢すら示せていないのである。問題はなぜこのような間違いが起きたのかだが、それは戦後の「保守・革新」の成り立ちに由来する。

「この国に生まれ育ったのだから、わたしは、この国に自信をもって生きていきたい」

安倍総理の著書『美しい国へ』の一節だが、こうした言動から安倍総理は「愛国者」の筆頭としてとらえられてきた。

■都合の悪い歴史的真理の前に恥じ入り、時には怒りに身を震わせる

オタゴ大学教授の将基面貴巳(しょうぎめん たかし)氏は『日本国民のための愛国の教科書』において、〈自国の誇りとは都合の悪い歴史的真理の前に恥じ入り、時には怒りに身を震わせることで、より倫理的に優れたものになる〉〈自国のことを卑下する人間は愛国心を持っていない、というような単純な話ではない〉と述べている。

その点でいえば、確かに安倍総理をはじめとする戦後保守派には自国を時に批判的に見据え、過去の過ちを徹底的に反省する姿勢は乏しかっただろう。しかしそれはいわゆる戦後の革新派にも責任がないわけではない。彼らは当然、「愛国」などという言葉は戦前の反省から口にしなかった。本来なら歴史の両面を見て、徹底的に批判すると同時に、肯定すべきところは浮かび上がらせる必要があったが、前者だけの姿勢にとどまった。つまり戦後革新派も「戦前の否定」というリアクションに囚(とら)われていたのだ。

こうした風潮に対抗して「戦前の全否定はおかしい」と登場したのが保守であり、「反革新」の受け皿となった。その姿勢こそが愛国的であるという錯覚も生んだが、当時はやむをえなかった部分もある。自分たちが戦前を擁護しなければ、いったい誰が戦後の日本人に光と誇りを与えてくれるのか、という思いだ。

■「反朝日新聞」だけになってしまった

その際、保守にとっての「国内の敵」の象徴となったのが朝日新聞だった。「日本悪しかれ」の価値観から、戦前の行いを批判するだけでなく、戦後の外交関係においても朝日新聞は中国や北朝鮮、のちに韓国の肩を持つようになった--少なくともそう見える論調が多かった。自身が戦争を煽(あお)ったにもかかわらず、戦後は一転、俯瞰した視点から日本を“攻撃”する朝日新聞こそ敵であり、反日であり、それに対抗すること自体が愛国的言動であるとみなされるようになった。

例えば慰安婦問題や憲法議論において反朝日新聞的態度をとってきたのが安倍総理で、愛国的議員として保守派から支持を受けるようになったのはこういうわけである。つまり、ここでいう「愛国」とは、反戦後民主主義であり、反革新であり、なんなら反朝日新聞だったのだ。もちろんこれ自体に意味はあったのだが、これ「だけ」になってしまったところに問題がある。

安倍総理は自らを「開かれた保守主義者」とし、その政治思想の成り立ちについても『新しい国へ』に綴(つづ)っている。ここでまさに「祖父が推進した日米安保に反対する人たちをうさん臭く思った」と自身の保守主義が反革新的感情から醸成されたことを自ら明らかにしているのだ。

■親米こそが保守=愛国者といういびつな図式

しかしここで問題が生じる。リアクションとしての反革新に終始していると、「普通に見れば愛国的、ナショナリズム的感情の発露であるはずなのに、革新の専売特許になったことで保守が手を出さなくなったカテゴリー」が生まれることになった。アメリカとの関係である。

沖縄の反基地運動を保守派は「反日勢力の仕業」「中国や北朝鮮に対する利敵行為」というが、普通に考えてナショナリストは自国に他国の軍隊の基地があることをよくは思わない。だが、反米・反基地は革新派の専売特許となり、さらには安全保障の現実という建前が加わって親米こそが保守=愛国者という図式ができあがった。

安保闘争のさなか、子供時代の安倍総理が祖父の岸信介氏に「アンポってなあに」と聞いたところ、こんな答えが返ってきたという。

「安保条約というのは、日本をアメリカに守ってもらうための条約だ。なんでみんな反対するのかわからないよ」

この時点では間違いではないだろう。だが安倍総理は40年以上を経た自身の第1次政権時にも、ほとんど同じような感覚を持っていた。

「日本に向けて(北朝鮮が)ノドンを数発発射し、万が一それが日本本土に着弾することになれば、日米同盟に基づいて米軍が報復します」(『文藝春秋』2006年9月号)

■危機管理を他国に預けてきた日本の戦後政治の弱点

自立心のない安全保障観は、アメリカと組んでさえいれば大丈夫という誤った信念を生む。つまり北朝鮮のミサイル対応や尖閣沖の中国船に強く出られるのも、「いざとなったらアメリカがやってくれる」と思うからで、その状態を保つこと、アメリカの要請に応えられる状態を保つことが日本における危機管理の柱になってしまったのである。

だがこれは安倍総理ひとりの責任ではもちろんない。「護憲・反基地」の革新と、「改憲・日米同盟礼賛」の保守の議論がデッドロック状態に陥ったことも一因であり、その点で日本の対米依存は保革の合作と言える。

新型コロナには現場の力で何とか対処しているものの、政府の危機管理は右往左往して腰が定まらない。北朝鮮のミサイルが「国難」と位置付けられたときのような「闘う姿勢」が感じられないのは、危機管理を他国に預けてきた日本の戦後政治の弱点が露呈したからであり、危機管理に強いと言われてきた安倍政権も例外ではなかったということだ。

4月7日の会見で、安倍総理は「最も恐れるべきは、恐怖それ自体です」と述べた。聞いたときにも妙に詩的だと違和感を持ったが、のちの情報によればこれはフランクリン・ローズヴェルトの大統領就任演説の一節だという。「戦後最大の危機」を迎えるこうしたときに、全国民に語り掛けるここ一番の演説で、借り物の言葉、それも他所の国の歴史から拝借した言葉に“乗っかる”とは。

この事実が安倍政権の本質を象徴しているといったら言い過ぎだろうか。

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梶井 彩子(かじい・あやこ)
ライター
1980年生まれ。大学を卒業後、企業勤務を経てライター。言論サイトや雑誌などに寄稿。
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(ライター 梶井 彩子)