1993年〜2019年Jリーグ
『私のMVP』〜あの年の彼が一番輝いていた
第7回:2013年の中村俊輔(横浜F・マリノス/MF)

 各クラブの戦力が拮抗し、優勝予想が極めて難解なJリーグでは、最終節で首位が入れ替わる、土壇場での逆転優勝を目にする機会が少なくない。

 2013年のJ1もそうだった。

 この年、J1の優勝争いを引っ張っていたのは、横浜F・マリノス。開幕6連勝の好スタートを切り、シーズンを通じて先頭集団を走り続けた。

 そんな好調のチームを引っ張っていたのが、当時35歳のキャプテン、MF中村俊輔である。

 シーズン序盤、鮮やかなスタートダッシュを決めた横浜FMだったが、内容的に言えば、結果ほどに安定していたわけではなかった。高い位置からの積極的、かつ強度の高いプレッシングが生命線であり、攻撃に関しては、よくも悪くも、俊輔頼み。一発で相手の急所を突くパスは脅威だったが、言い換えれば、それだけだった。

 ひとたびスローダウンさせられると、ボールは前への進みが悪くなり、4−2−3−1のトップ下に位置する俊輔が、低い位置まで下がってきてしまうことも多かった。

 加えて、当時の横浜FMには俊輔をはじめ、ベテランが多かった(J1開幕戦時点で、先発11人のうち5人が30代。平均年齢は30.45歳だった)。それゆえ、夏場の失速を危惧する向きも少なくなかったのである。

 しかしながら、経験豊富な選手を中心としたチームは、試合を重ねながら修正を施していくと、失速するどころか、結果に引っ張られるように、次第に内容も向上。とりわけ、ボールポゼッションにおける質の向上は顕著で、俊輔が下がれば、ダブルボランチのひとりであるMF中町公祐が前に出たり、サイドハーフのMF兵藤慎剛が中央へ絞ったりと、チーム全体でバランスよくボールを動かし、チャンスメイクができるようになっていった。

 もちろん、プレスからの速攻がベースであることに変わりはなかった。素早くファーストディフェンダーを決め、チーム全体がそれに連動してボールを奪い、ショートカウンターを仕掛ける。そんな攻撃が十八番ではあった。

 だが、トップ下の俊輔が攻守両面での切り替えのスイッチとなることで、チームは確実に戦術の幅を広げていった。とくに攻撃面でのタクトさばきは絶妙で、巧みに緩急をコントロール。カウンターのチャンスになりそうな場面でも、身振り手振りをまじえて味方に指示を送り、闇雲に攻め急がせない。開幕当初から俊輔がチームの大黒柱であることに変わりはなかったが、その”目立ち方”は明らかに変化していた。

「セルティックでもそうだったが、(チームの調子が)いいときは自分(のプレー)もよくて周りもいい」

 自身が口にしていたそんな言葉からも、俊輔がいかに気分よくプレーできていたかがうかがえる。

 第21節で首位に立った横浜FMは、それ以降、(首位と同勝ち点で得失点差の2位はあっても)勝ち点のうえでは一度も先頭を譲らなかった。第32節終了時点では、2位に勝ち点4差。残り2試合でひとつ勝てば優勝が決まるところまで漕ぎつけた。

 ところが、横浜FMは優勝を目前に、ラスト2試合で連敗。2位のサンフレッチェ広島に優勝をさらわれる結果に終わった。

「キャプテンとして、こういう試合で勝てず、ファンの人に申し訳ない」

 最終戦後、俊輔は悔しさをかみ殺すように、そう語った。



2013年シーズン、2度目のMVPを受賞した中村俊輔

 だが、この年、シーズンを通して俊輔が際立ったプレーを続けていたことは疑いようがない。

 優勝こそ逃したが、シーズンMVPは間違いなく俊輔――。そう思いながら、J1最終節からほどなく開かれたJリーグアウォーズを見ていたが、実際にそのとおりの結果となった。

 40歳を過ぎた現在もなお、俊輔は現役でプレーし続けているが、決して孤軍奮闘ではなく、チームとして質の高いパフォーマンスを披露するなかで、彼自身がひと際まばゆい光を放ったという意味では、2013年は、Jリーグでの彼のベストシーズンだったのではないだろうか。

 俊輔にとっては、この年が2度目のMVP選出だった。1度目は、当時22歳だった2000年。今もJリーグ史に残る、最年少MVPである。だが、このときは、本人も「まさか自分が、と驚いている」と話していたように、必ずしも俊輔が絶対の本命ではなかった。

 2ステージ制の当時、横浜FMはファーストステージを制してはいたが、チャンピオンシップでは鹿島アントラーズに敗れ、年間優勝を逃している。俊輔にしても、他を圧倒するほどの存在感を示したわけではない。いわば、期待料込みのMVP。そんな印象を受けた。

 しかし、2度目は違った。優勝の成否とは無関係に、誰もが納得の受賞だった。

 日本サッカー史に残る稀代のテクニシャンは、2002年夏にイタリアへ渡り、2010年にJリーグに復帰するまでのおよそ7シーズン半、ヨーロッパでプレーした。なかでもセルティック時代の活躍は出色で、チャンピオンズリーグでマンチェスター・ユナイテッドを沈めたFKは、CL史に残るビューティフルゴールとして知られている。

 その後に、マンチェスター・ユナイテッドやインテル、あるいはレアル・マドリードでプレーする日本人選手が出てきたことを考えれば、俊輔をヨーロッパで最も成功した日本人選手と評することは難しい。だが、残したインパクトの大きさで言えば、後進もおよばないほどのものがあった。

 そんな選手が、ヨーロッパでのキャリアのあとに、再びJリーグでプレーすることを選んだ。プロ野球で言えば、ニューヨーク・ヤンキースのローテーション投手でありながら、広島カープに復帰した黒田博樹もそうだったように、海外で活躍した選手が日本に戻って質の高いプレーを見せるということは、日本の国内リーグを盛り上げる、あるいは若い選手に刺激を与えるという意味において、非常に大きな意義がある。

 もちろん、ヨーロッパでプレーしたあと、そのまま彼の地でキャリアを終える選手がいてもいい。だが、ヨーロッパで活躍した選手が、”晩年”ではあっても、決して”老後”ではなく、あくまで”現役”の段階で日本に戻ってきてくれたこと。そして、ヨーロッパでの実績にふさわしいプレーを見せてくれたこと。そうした点においても、このシーズンの俊輔の活躍は、日本サッカー史において意義深いものだった。

 史上ただひとり、2度のMVP受賞。しかも、かつて史上最年少MVPだった気鋭の若者が、ヨーロッパでの経験を携えて日本に戻り、史上最年長MVPに選ばれる。そんな筋書きもまた、カッコいい(最年長記録は、2016年に中村憲剛が更新してしまったが)。

 もちろん、優勝できていれば言うことなし、だっただろう。その後、天皇杯決勝では広島にリベンジし、充実のシーズンを有終の美で飾ってはいるが、俊輔本人にとっては、悔しいシーズンだったに違いない。

 しかし、最後の最後で優勝を逃すという悲劇的結末も含め、いや、むしろそうだったからこそ、記憶はより鮮明なものとして残っているのかもしれない。

 2013年、中村俊輔はスーパーだった。