1993年〜2019年Jリーグ
『私のMVP』〜あの年の彼が一番輝いていた
第2回:2007年のロブソン・ポンテ(浦和レッズ/MF)

 2000年代中盤、浦和レッズは数年にわたって黄金期を謳歌した。そのチームの中心にいたのが、万能の攻撃的MFロブソン・ポンテだった。


2000年代中盤、浦和レッズ黄金期の攻撃陣を支えたポンテ

 浦和は結果の出なかったJリーグ序盤を経て、2003年にハンス・オフト監督のもとでリーグカップを制して初タイトルを獲得。翌シーズンにギド・ブッフバルト監督を招聘し、リーグのセカンドステージで優勝を飾った。翌2005年夏にそれまでのエース、エメルソンがカタールへ去ると、ドイツ人指揮官は母国のレバークーゼンからポンテを連れてきた。

 レバークーゼンではディミタール・ベルバトフやフランサらと魅惑の攻撃陣を形成し、チャンピオンズリーグにも出場。2004−05シーズンのグループステージでは、ジネディーヌ・ジダンやルイス・フィーゴを擁したレアル・マドリードを3−0で叩きのめし、フランチェスコ・トッティやアントニオ・カッサーノがいたローマにも3−1で快勝している。

 浦和に入団した時は28歳。Jリーグではあまり例のない、選手としてのピークを迎えたところでの来日だった。新天地でエースナンバー10番を任されたイタリア系ブラジル人は、Jリーグにデビューした試合でいきなり1得点1アシストを決めて逆転勝利に貢献。日本のピッチにすんなりと適応し、半年間のデビューシーズンで8得点を挙げて2位フィニッシュの原動力となり、天皇杯で優勝した。

 翌2006年シーズン、ポンテは夏に負傷で長期欠場を強いられたものの、最終節のガンバ大阪との直接対決で同点ゴールを決め、ワシントンの得点をアシストし、クラブ史上初のJリーグ優勝をたぐり寄せた。

 そして2007年、30歳で3シーズン目を迎えたポンテが、チームとリーグの主役を張った。

 リーグで初優勝したあと、ホルガー・オジェック新監督を招いた浦和は当初、それまでの個人能力に頼った攻撃からの脱却を図り、ポゼッションスタイルに舵を切った。だが開幕直前のスーパーカップでガンバ大阪に0−4と大敗し、第7節川崎フロンターレ戦で長らく継続していたホーム無敗記録が途絶えるなど、新機軸は思うように機能しなかった。

 それでもポンテはシーズンを通して、異次元のパフォーマンスを披露し続けた。ベテランの域に入ったアタッキングMFは、いかなる時も冷静にゲームをコントロールし、たしかな技術に裏打ちされた外連味のないプレーでチームを動かした。

 ブラジル人ながら、ドイツで6年を過ごしたからか、スキルに溺れることは一切なく、動きの選択は常に最善。正確無比なキックで、リーグ戦7得点し、14ものアシストをマークした。

 相手との間合いを制すような巧みなドリブルもじつに効果的だったし、ワシントンや永井雄一郎との連係も呼吸も合っていた。そしてゴールや勝利のあとには、素敵な笑顔を見せた。

 当時、ポンテと対戦した選手たちは、皆一様に手放しで彼を称賛している。ガンバ大阪でディフェンスの中心を担った山口智は「彼がいなかったら浦和は機能しないでしょう。ポンテは浦和のすべてですね」と言い切り、鹿島アントラーズの守備の要だった岩政大樹は「決定的な仕事が多かった。MVPはポンテしかいないでしょう」と讃えている。

 この年は、日本勢初のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)制覇の原動力にもなった。グループステージ第1戦から永井のゴールをお膳立てするなど、序盤から見事な働きを披露。ホーム&アウェーの決勝戦でもメインキャストとなり、敵地での第1戦では鋭いミドルで貴重なアウェーゴールを決め、第2戦では永井の先制点をアシストしている。

 ACL初制覇を境に浦和は失速し、Jリーグでは最終節に鹿島に優勝をさらわれて2位に終わったものの、ポンテはリーグMVPを受賞。だが不運にも、最終節の横浜FC戦で右ヒザに重傷を負ってしまい、クラブ・ワールドカップには出場できなかった。

 本人も無念だったに違いないが、我々ジャーナリストやファンも同じくらい残念だった。浦和はその大会の準決勝で、カカやクラレンス・セードルフ、アンドレア・ピルロ、アレッサンドロ・ネスタらを擁したミランと0−1の接戦を演じた。あそこにポンテがいたら、前線のワシントンか永井が一度くらいネットを揺らしてもおかしくなかった。あるいはポンテ自身が狙いすましたミドルを沈めるか。そんな想いを抱きながら、あの試合を取材したことを覚えている。

 現在、ポンテはポルトガルのポルティモネンセで副会長兼テクニカル・ディレクターを務めている。イタリア語とポルトガル語で『橋』を意味する苗字を持つ43歳は、メディアに出て文字どおり、クラブと周囲の橋渡しをすることもある。

 一昨年の暮れに、中島翔哉のいたポルティモネンセを訪れた時、試合前にスタジアムの階段を上がっていたら、開いた扉の部屋の中にポンテがいた。副会長なのにクラブスタッフがシャツのプリントをするのを手伝ったりしていて、こちらが声をかけると現役時代と同じように気さくに微笑んでくれた。背番号10をまとった頃よりもふくよかになっていたけれど、優しい瞳は変わっていなかった。