「都心・駅近・タワマン」の住居価値が低下する訳
リモートワークの普及で、街選びの基準も変化しているようです(写真:xiangtao / PIXTA)
コロナウイルスの感染拡大で揺れる日本。対策として企業でのリモートワークの導入などが進んだ結果、働き方改革が急ピッチで進み始めている。では働く環境が変わることで、私たちは「住まい」をどのような視点で選ぶことになるのだろうか。牧野知弘氏著『街間格差−オリンピック後に輝く街、くすむ街』を一部再編集し、住まい選びの変化を分析する。
私たちは住まいを探す際、これまでは交通利便性や資産としての価値を主眼に考えてきました。しかし今、社会に起こっている変化は人々のライフスタイルや価値観そのものを変える可能性があります。
特にコロナウイルスの感染拡大を前に、社会的な要請からテレワークや時差出勤などが導入される企業が急増し、それに伴って、住まいの考え方も大きく変わりつつあります。
その変化をここで端的に記せば、「住まい探し」は「街探し」の局面を迎えると言えるのではないでしょうか。
日本のサラリーマンは急速に増えてきた
総務省の労働力調査によれば、2018年3月における就業者数は6694万人ですが、このうち雇用者数は5933万人、就業者全体の88.6%がサラリーマンというのが現代の日本社会です。日本人の顔はすなわちサラリーマン、と言ってよいほど日本は「サラリーマン社会」になっています。
この数値がどれだけ高いかというと、50年前の1968年3月で見ると就業者数4965万人に対して雇用者数は3107万人でその割合は62.5%に過ぎませんでした。
世の中で「働き手」としてカウントされる15歳から64歳の人口を意味する生産年齢人口は、1998年には8692万人だったのが、現在は7592万人と約13%も減少しています。ところが同じ期間で雇用者数は5389万人から5933万人へと逆に10%も増加しています。日本社会のサラリーマン化は急速に進行してきたといえるのです。
サラリーマンといえば毎朝毎夕、通勤電車に揺られて都心にある会社に通うというのがお決まりで、郊外からの長時間通勤のストレスからはなかなか解放されませんでした。しかしこうした生活スタイルは1990年代半ば以降、ようやく変わり始めます。
まず経済、産業構造の変化で都心部の工場がアジアに移転し、土地の容積率も緩和された結果「タワマン」と呼ばれる超高層マンションの建築が可能となりました。
さらに夫婦共働きが当たり前になった結果、世帯年収が上がり、低金利の追い風を受けて世帯における住宅購買力が飛躍的にアップしていきます。こうして団塊ジュニア以降の世代は幸いなことに、親たちには叶わなかった都心居住が可能となりました。
しかし、これもまだすべてが「働く」ことを優先した選択でした。会社に通勤する以上、居住地を会社の近くに設定する。それはある意味で合理的な選択がもたらした結果です。つまり私たちは意図するとしないとにかかわらず「会社ファースト」の人生選択をどこかで行ってきた、ということです。
オフィス環境やAI技術で働き方が変わる
その根底には、社会やライフスタイルが変化しようと、なかなか変わることが無かった朝9時に出勤して午後5時になれば帰宅する、という昭和時代の「働き方」がベースにありました。
しかし感染拡大を見せているコロナウイルスの影響もあり、人々の働き方は、政府が提唱する「働き方改革」を待つまでもなく、大きく変わり始めています。
特にこれからの社会では通信機器やオフィス環境、AI技術の進化などにより、会社の業務そのものまで大きく変わることも容易に予測できます。それに伴い、会社の構造が必然的に変わることになります。
社員1人にデスク1つをきっちり用意しないフリーアドレス制を導入する会社が増えていることもよく知られていますが、今後はさらにその先、社員間はオンライン上のみで繋がり、各社員が好きなとき、好きなスタイルで仕事をするビジネス形態へと近付いていくのではないでしょうか。
そしてそのとき、世の中から「通勤」という言葉はなくなるかもしれません。そもそも「勤める」ために会社へ「通う」理由がないのですから。つまり長く続いた「会社ファースト」時代が、いよいよ終わりを告げる時がきたのです。
そう考えれば、未だに根強い「会社の近くに住む」という都心居住の考え方も怪しくなってきます。確かに都心は「交通利便性」が高い。とは言え、今現在多くの人が考える「交通利便性」とは、あくまで自分たちが勤める会社との行き来のために便利かどうか、つまり「通勤利便性」という意味合いが強かったのではないでしょうか。
たとえばそういう意味での「通勤利便性」を重視し、湾岸の工場跡地などにやや強引に建設されたタワーマンションなどは、人々が暮らすための環境が整っていない立地にあるのも事実です。
現代の若い人がかつての同世代に比べて車を所有していない、とよく言われます。車は必要なときにシェアカーなどを使う。車を買っても使うのは週末だけで、駐車場代などのコストを払う、あるいは家のまえに「展示」をしているくらいなら買わないほうが良い。自転車すらシェアで問題ない。洋服だって誰かが一度着たもののリユース(たとえばメルカリなどを利用して)で十分、という考え方がごく当たり前になりました。
つまり以前のように、とにかく消費することを喜ぶ、というライフスタイルはとっくに廃れてしまった、ということです。
通勤利便性だけが家選びの基準ではない
こうした大きな変化がライフスタイルに生じる中、時に辛さを伴うこともある「通勤」だけ、旧来の習慣として残っていくとは到底思えません。
そして「通勤」がなくなった瞬間、同時に「通勤利便性」という概念も消え、住まい選びの価値基準は大きく転換していくことになり人々は「街」との関係性をもっと真剣に考え始めるようになります。なにせ「街」を出ないまま、1日の大半を過ごすことになるわけですから。
否が応でも私たちはこれから先「家の良し悪し」「通勤利便性」にこだわっていた住まい選びを根本から覆すことになるのです。
一昔前は、お父さんは毎日遅くにしか帰ってこない、そのため専業主婦のお母さんと子供がハッピーに過ごせる「街」が求められました。そして今の現役世代は会社への通勤を重視するという「通勤利便性」、とりわけターミナル駅周辺を選好する傾向があります。
しかしこれは「ベッドタウン」として住む街を選んでいるだけで、実は昭和から平成初期までの「住まい選び」となんら変わりがありません。
これから先、街を住みこなすために最も重要なこととは、実は「自分のライフスタイルを確立すること」にあります。
これまでのサラリーマンは「会社で働いていればそれでよし」として、住まい選びもその延長線上で考えればよかったのです。それが1日のかなり多くの時間を「住む街」で過ごすということとなれば、ただ単に「保育所が近くにあるかどうか」とか「駅から何分」とか、ましてや「買った家がこの先値上がりするかどうか」などという古い発想では対応できなくなります。
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「自分らしく」などと人はよく言いますが、実際に「自分らしさ」を自覚し、それに沿った人生を歩んでいる人は意外と少ないものです。なんとなくではなく真剣に人生を豊かにするため、もしくは自分を磨いていくため、自分の住む街とどういった関係性を築くのかがこれからの大事なテーマとなるでしょう。
もし理想的な関係性を確立できたなら、ライフスタイルが根本から変わっていく社会の中で生じる自由時間を有効に活用し、それではじめて有意義な人生を送ることができるのです。
「住まい選び」で人生が豊かになっていく
このことは、勤労者の間でも生き方や考え方が異なる人がいるのが当たり前で、異なっていても待遇や処遇に差が生じない、むしろ人とは違う自我や個性を持つ人ほど評価される時代に繋がる可能性を秘めています。
今までのような、どこを切っても同じ「金太郎飴」のような考え方でいると、人生はとてつもなく退屈になりますし、職種によってはAIなどに代替され、失業の憂き目を見る可能性もあると思います。
詳しくは拙著『街間格差』に記しましたが、同時に家余りの時代の中で、都内の同じようなポジションにある「街」であっても「選ばれる街」と「遠慮される街」に厳しく選別され、暮らしやすさや自治体のサービス、治安、不動産の価格などあらゆる面で差が生じ始めています。
それこそが私が同書を通じて唱えた「街間格差に備えよ」という言葉の真意です。
「都心にあるから」「タワマンだから」「駅から近いから」「ブランド路線だから」といったこととは次元が違う「街の持つソフトウェア」によって、その価値やあなたの人生の豊かさまでが決まる時代が突然、私たちの目の前にやってきたのです。