筑波大学で講義をする落合陽一

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筑波大学で講義をする落合陽一

4シーズン目を迎えた「筑波大学コンテンツ応用論」の最終回、落合陽一(おちあい・よういち)がYouTuber志望学生と対話した前編記事に続き、後編では実に3年ぶりとなる「落合陽一による落合陽一論」だ。

モチベーションに悩む青年との人生相談のフェーズとは打って変わって、モチベーションの塊のような落合節が炸裂!

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落合 あらためまして、落合陽一です! さっき羽佐田さんが就職を考えてないと話していましたが、僕もどこかに就職しようと思ったことはありませんでした。だけど、東京大学大学院学際情報学府の博士課程2年のときに、たまたま筑波大学から公募が出た。

出身大学だし、研究室も持ててよさそうだなと思って応募しようとなって、それで博士課程を急ぎで修了しなきゃいけなくなって......とやっているうちに、採用面接は通った。それで頑張って博論を書いて、普通3年かかるところを2年で出たんです(編集部註:これが同学府初の早期修了者)。

それから約5年たちますが、まずは最近のエモいニュースを紹介します。令和元年11月、日本科学未来館の常設展「計算機と自然 計算機の自然」がオープンしました。10年くらい展示が続く常設展に、やっとデジタルネイチャーが入ったというわけです。

これはどんな展示かというと、紀 貫之(きの・つらゆき/平安時代の歌人)がYouTuberについて「日記文学もYouTubeも似ているよね」とかしゃべっている横で、ひたすらGAN(Generative Adversarial Networks、機械学習のひとつの手法)生成されていたり、あとは「禅的空間」を意識しているので、真ん中に生け花を置いたりしています。

落合の代名詞となった"デジタルネイチャー"について、彼は中国戦国時代の思想家である荘子(そうし)の「夢に胡蝶(こちょう)と為(な)る」の挿話を引いて説明する。

落合 夢の中で蝶になった荘子が、目覚めてから「自分は果たして人間の夢を見ている蝶々なのか、蝶々の夢を見ている人間なのかわからなくなってしまった。そこには明確な区別があるはずだが」と考える、そんなお話です。

それで荘子は「これを物化と呼ぶ」と言ってるんですね。面白いのが、これを西洋人が英語に訳すと「The transformation of material things」になるんです。トランスフォーメーション。そう言われるとドキッとしない?

これは計算機の性質を的確に示していると僕は思うわけです。物質的に表現されるもの、ホログラムで作られるもの、動物的に振る舞うもの、そしてわれわれの視覚自体のような視点と、この間を行き来するトランスフォーメーションが計算機によって為し得るだろう、と。

そうやって計算機の外の自然と計算機の中の自然との垣根がなくなり、新しい自然、デジタルネイチャーとして溶け合う風景が見たい。それが僕のモチベーションです。

僕の作品『コロイドディスプレイ』になぜ蝶が映っているか、これでわかりましたでしょうか? マテリアルがトランスフォームするから蝶が映ってるんだと、パッと思えた人はすごいなぁとも思う。でも、前提知識がない人には説明しないといけないか。......と思うでしょ? ところが、必ずしもそうとは限らない、という話をちょっとしますね。

学部2年生のときに、衝撃的な出来事がありました。サークルの後輩に「先輩はものを説明するのが好きだけど、説明しちゃダメです!」って、すっげえ怒られたんです。頑張って勉強して、自分で気づいて、その喜びに浸りたいのに、説明しちゃうとそれを無にしてしまうって。

「でもさあ、説明しないと99%の人はわからないじゃん?」って聞いたら、「1%はわかるからいいんです」だって。それまでは7割くらいの人に伝わるように書くのがいいだろうと思っていたんだけど、それからは考え方を変えました。1%の人が深く共感してくれるなら、それもありだなと思うようになりました。

それこそYouTuberやブロガーの話とも関連してくるけど、例えばツイッターで40万人フォロワーがいたら、その1%、4000人くらいは自分の生んだものにお金を払ってくれるかもしれない。1%のユーザーにグサッと刺すか、20%のユーザーにそこそこ刺すか、80%のユーザーに広く薄く刺すか、あるいは100%を目指すのか。パーセンテージが下がれば、逆にユーザーのコミットメント量は上がるという考え方もできます。

「別に1%に刺さればいいよ」というつもりなら、すごく深くて難解なコンテンツで、噛み応えがあって、手抜きせずにありのままを伝える。そこはコストもかけて、価格の高いものを作ればいいんですよ。

......話がずれてしまったな。トランスフォーメーションの話をしてたんだ。

物化(トランスフォーミング)変態という視点でとらえると、一見多彩で複雑そうな落合の活動の数々を、本人が「やってることはシンプル」だという理由が見えてくる。テクノロジー×アートという方面での仕事に例をとれば、日本フィルハーモニー交響楽団とのコラボで大好評を博した『変態する音楽会』シリーズは、まさにアプローチそのものが落合式だ。

落合 音と光がどう調和していくかというのは、すごく重要なテーマです。この音楽会は映像装置と、音を触覚や光に変換するデバイス(サウンドハグ)などを使って、オーケストラを「再発明」しようというものです。

2年前に初めて『耳で聴かない音楽会』のリハをやったとき、グッとくる瞬間がありました。筑波にある聴覚支援学校の学生さんたちに協力していただいて、光や振動で音楽を体験してもらったんだけど、その中でジョン・ケージの『4分33秒』を演奏するという題目をやってみたんです。何も演奏しないで4分33秒数えて、その間に聞こえる物音、時空間に切り取られたあらゆる振動はすなわち音楽である、という前衛音楽の代表的な作品です。

そうしたら、ある学生さんが「華やかな音楽を想像してたんだけど、静かで、ちょびちょびとかカタカタといった音だけが聞こえて、これが演奏というものなんだなってすごく驚きました」というような感想をくれたんです。これは本当にジョン・ケージに聞かせたい言葉だなって思った!

こういう場面に巡り合えると、音だけが音楽なんていうのはいかに視野が狭いか、って思うじゃない? 光は視覚のためだけにあるものではないし、音は聴覚のためだけにあるものではない。時間と空間方向に広がるなんらかのデータや揺らぎが存在すれば、それだけで成り立つ芸術性というものがあって、多分それは人を十分に楽しませられると僕は思っています。

それから、ときにはトランスフォームした翻訳のようなこともやっています。2019年3月、SXSW(サウス・バイ・サウスウエスト)で経済産業省とのプロジェクトで日本のパビリオン「ニュージャパン・アイランズ」を作りたいという話があり、じゃあ、本気で誤訳した日本を作ろうと。

半分はダンスホール、残りはコタツみたいな空間で、天井からは富士山が逆さまに生えてる。1995年くらいからの外国人が想像したり体験したりした「不思議なコンテクストが接続されたジャパン」をひたすら考えていました。当然パチンコ台は必要でしょ、とか、土偶が神輿に乗っているでしょ、とか。

肉寿司が出てきたり、永平寺の禅僧に来ていただいたり、タトゥーシールで刺青だらけにした関係者さんたちに町じゅうを練り歩いてもらったり、このサウスバイに関しては打ち込みすぎて収拾がつかなくなった感じでした(笑)。

だけど、コンセプトがDigitally Fermenting Landscape(デジタル発酵した風景)だっていうと、外国の方もなんかすごく納得した顔をしてくれる。自然になじんで発酵した様子の祝祭空間は美しい。そうやってインバウンドで来てくれた海外の人のスマホの中の旅行記のような横断するコンテクストを、包括しながら見せていく、新しく捉えてもらうみたいなことは大切だと思う。価値観は移ろいながら新しい解釈を常に求めるからね。

近年、落合が着手した数多くのプロジェクトの中でも、「X Diversity(クロス・ダイバーシティ)」は特に広く注目されている。「計算機によって多様性を実現する社会」を目指し、2018年秋には乙武洋匡氏が義足を装着し、歩行するというプロジェクトも大きな話題を呼んだ。この仕事もやはり、計算機の内と外を地続きにするという落合の「自然観」がモチベーションになっているようだ。

落合 自然と対峙したときの人間の自由度というのが、課題としてありまして。従来の自然観だと、例えばわれわれの腕が事故で失われたら、そう簡単には生やすことはできません。

けれどもコンピュータによって生成されるキャラクターであれば、腕が回復することだって、自由に足が生えることだってできそうですよね。その自由度をこっちの世界にも浸透させるのが、コンピューターに裏打ちされた多様性ということになります。

だから、乙武さんのプロジェクトは面白い。最近は腕も生えて歩いている。足と腕、ここまでは想定通りなんですが、この後はもっとわけのわからないものを作っていこうかなと思っています。人間がどうやってこの世界に対して自由になっていくかを考えるのは、重要なことなんですよ。どうやってこの世界を変換可能にしていくか。

最後に学生との質疑応答から――。

学生A すごくスケジュールが詰まってると思うんですが、ご家族と過ごされる時間はどうしてらっしゃるんですか?

落合 最近は、出張に一緒に行くようにしています。例えば、でっかいしめ縄の写真を撮りたくなるとするじゃないですか。ならない? 僕はなるんです、そのために出雲大社に行くと決める。じゃあ子供も連れてくか、と。

出張に連れていけば、10時間くらい一緒にいられるじゃないですか。昔は誰かが一緒にいるといやだ、俺は独りでいたいっていうときがあったんですが、最近はちょっと変わってきました。

ただ、泊まるときには部屋をふたつ取ることが多いです。僕が集中モードに入ったときのために。それくらいの合意性がとれるライフスタイルづくりは、クリエイターとしての戦いです。ちなみに、うちの親父(落合信彦氏)は作家だったんですが、本を書き始めると10日くらい話しかけちゃいけないんです。それと同じようなことかなぁ(笑)。

学生B バーチャル空間と現実の空間がどんどん融合していってますが、限界はどのあたりだとお考えですか?

落合 限界って、誰にとっての限界?

学生B 人間の社会や自然に、どこまでAIが取り込まれていくのでしょうか。

落合 えっ、そんなの、DNAの一本一本に至るまですでにコンピューテーショナルです。いや、質問の意味はもうちょっと深いところにあって、人間観や生命観の話をしてるのかな。例えば物質ではないけれど、デジタルの「実質」を失った時、人は悲しむかとか?

僕が小さい頃、「デジモン」を飼ってたんです。そういうゲームがあったんだけど、わかるかな。あるとき、デジモンが死んじゃったの。それで俺は泣いた。たまたまその次の週に、おじいちゃんが亡くなったんだけど、涙は出なかった。おじいちゃんとは割と仲良しだったんだけど、デジモンの死のほうが泣けたんだ。

人は死ぬのは当たり前、だからすんなり行った。でもデジタルが死んだとき、当時の僕にとってはリアリティとともに悲しみがあって準備できてなかった。きっと皆さんにもそういうことはあると思います。もちろん人によりますよ。こちらに悲しみや喜びの感情をもたらすのは、相手との関係性の深さですよね。デジタルがその深さを持ちうるかどうかといえば、きっと持ちうると思います。

学生C 落合先生はいろんなアイディアをいろんなところから入手していると思うんですが、お忙しい一日の中で、どういったメディアからどのくらいの量をインプットするとか決めていらっしゃいますか?

落合 インプットに充てるのは、朝の会議とかゼミのときなどです。本は自分が執筆する時にまとめ読みする感じで、あとは"耳学問"が多いと思います。だからこの授業でも、話していてインプットになる方と会うようにしてる。そこは意識的にやっています。

若いうちはスケジュールを詰めて仕事したほうがいいですよ。30歳を過ぎると体にガタがきて、無理がきかなくなから。

■「コンテンツ応用論2019」とは? 
本連載は昨秋開講された筑波大学の1・2年生向け超人気講義、「コンテンツ応用論」を再構成してお送りしています。今回は番外編として、落合研究室所属の学生との対話、そして「落合陽一による落合陽一論」をお届けします。

●落合陽一(おちあい・よういち) 
1987年生まれ。筑波大学准教授。筑波大学でメディア芸術を学び、東京大学大学院で学際情報学の博士号取得(同学府初の早期修了者)。人間とコンピュータが自然に共存する未来観を提示し、筑波大学内に「デジタルネイチャー推進戦略研究基盤」を設立。最新刊は『2030年の世界地図帳 あたらしい経済とSDGs、未来への展望』(SBクリエイティブ)

構成/前川仁之 撮影/五十嵐和博

【画像】「現代の魔法使い」落合陽一