コロナ危機、“科学を軽視する”安倍政権の「限界」 大震災・原発事故の教訓はどこへ…

写真拡大 (全3枚)

「想定外」の教訓をいかせているか?

東日本大震災・原発事故から丸9年――。

この9年目の3月はしかし、新型コロナウイルス一色で終わりそうだ。

ウィルス対策ということで大事な国の追悼式も取りやめとされた。「内閣総理大臣追悼の言葉」が内閣府のホームページにぽつんと掲載されているだけで、なんともあっさりとしたものである。

そして毎年のこの時期、必ず行われていた震災・原発事故の検証も、今年はほとんど行われなかった。

〔PHOTO〕gettyimages

だが、本当にそれでよかったのだろうか。

というのも、関係者の多くがそれに気づきながらも、しっかりと声を上げられないでいる気味の悪い現実があるからだ。

それは、この新型コロナに対する政府および厚生労働省の対応が、あまりにも原発事故への対応に似ているということである。

私たちはこの「想定外」で始まった大災害の教訓をほとんど生かせていない。私たちはこの震災・過酷事故にきちんと学べていないようである。

いやそれどころか、いま私たちを引っ張っている安倍政権は、こうした巨大災害リスクに向き合うための基本を理解していないのではないかという疑いさえある。

この政権が、3・11対応に「失敗した」とされる旧民主党政権にかわって誕生したものであるにもかかわらず、だ。

以下に記すことは政権批判ではない。

科学研究者による一つの分析、あるいは仮説である。

それも、そうであって欲しくない、あるべきではないという仮説である。

原発事故とパンデミック

パンデミックとは、全世界で流行する病気のこと、である。Pandemicという語はもともとpeopleやpublicからきているという(新英和大辞典、研究社)。要するに、大量の人々に、それもふつうの人々に、普遍的に広がった大流行の病を指す。

こうした病気の蔓延と、2011年の東京電力福島第一原発事故は一見、異なるもののように見える。

原発事故は人為災害。これに対し、パンデミックの原因は自然に由来するからだ。

放射性物質とウィルス――だが目に見えないものの脅威という点で両者は共通する。

いずれもその危険は私たちには見えない。それゆえ可視的に避けることができない。しかもそれある人には身体になんら影響を及ぼさないのにもかかわらず、別のある人には死さえもたらすものである。

見えない間に身近に驚異が迫ってくるということでは、放射性物質よりもウィルスの方が怖いかもしれない。

放射能は人を介してはうつらない。原因から遠く離れれば、ひとまず危険は避けられる。安心はえられる。

これに対しウィルスは、人によって広域にかつ急速にうつされ、危険は増幅される。
このことから、パンデミックは、人に対する恐怖まで呼び起こす。

とはいえ、だからこそまた両者は同じなのである。放射能もウィルスも、その直接的危険はもちろんだが(原発事故ではさらに、大爆発の危険も忘れてはならない)、これらがもたらす心理的社会的影響がまた非常に怖ろしいのである。

この問題を指揮する政治家には、この怖ろしさをしっかりと意識した的確な判断が求められる。

目に見えないものとの闘い

目に見えないが、その恐ろしい作用があることはわかっている。

そういうものがもたらす恐怖。これが放射性物質とウィルスの共通項だとすると、これに立ち向かうには、ともかくこの「見えないもの」を、まずは「見える」ようにしていく必要があるということになる。

とともに重要なことは、さらに次の点にある。

放射能もウィルスも、人間の目にまったく見えないものでもなければ、一切制御することができないものでもないということだ。

これらは目に見えないが、特別な装置をもってすれば可視化できる。そして一定の手続き(管理)を実現できれば、その危険を下げることもできる。

危険や不安をすべて取り除くことはできないが、その増幅を避けることは可能だということだ。

〔PHOTO〕gettyimages

そしてウィルスに関しては、ワクチンの開発が実現すれば、危険はかなりの程度除去される。管理を徹底し、感染を防ぎ、時間を稼ぐことが重要だと言われるのはこの点にある。

無用な不安と恐怖を和らげ、かつ適切に恐れて正しく対応し、感染拡大を防いでいく。

そこにはまた、日常生活や経済活動とのバランスもある。感染を恐れすぎて心や社会が破綻しては逆効果だ、それによってますます感染が拡大する。

なにより医療活動の持続性が要になる。いま急速に死者数を増やしているイタリアは、どうもこのバランスの維持に失敗したようである。

日本でも、急なイベント自粛や学校一斉休校で、生活や経済に極端な衝撃がはしり、このことで様々な悪影響が起きているのは間違いない。

かつ日本で感染者数が伸びないのも、必要なPCR検査が実施されていないということにあるようだが、とにかく欧米の状況に比べると、今のところ、全体のバランスは保たれているようだ。

必要となる三つの手続き

さて、この目に見えない恐怖との闘いを制するには、次の三つの手続きが不可欠である(その補助項目とともに示す)。

(1) リスクの原因となっているものを、科学的に目に見える状態に、可能な限り持って行くこと[リスクの可視化]

(1)補 そのための科学情報の高度化を図ること。またその情報を適切に流通させる制度の充実

(2) そうして得られた状況証拠(データ)を元に、適切に科学的分析をほどこして、何がおきているのかを予測し、よりリスクの低い方法で危機を乗り切る手段を見出し、実現していくこと[科学的知見の形成と、その政策への活用]

(2)補 そうして実施された手段(政策)がどういう効果があったのか(なかったのか)、随時リアルタイムで観察検証し、次の手段へのフィードバックを行うこと

(3) (1)(2)を速やかに情報公開して人々(people)と共有(public)し、不安や恐怖を取り除くこと(政府と科学への信頼がその政策の精度を高め、リスクの軽減を実現する)[情報の公開とその共有]

(3)補 そのために、政府・メディア・国民の情報リテラシーを極限まで高めること

9年前の原発事故は大量の放射性物質をまき散らし、日本国内のみならず、世界中にその恐怖を広げた。

だがそこには当初、「想定外」ではじまり、その「想定外」に見合った、これまでにない対応がとられるはずだとの期待もあったし、また現実にそれは進んでいるかに見えた。

しかしそれはいつの間にか変転し――その異様な変転を筆者は本紙記事「復興政策に「異様な変化」が起きている」に描いておいた――この3つの手続きがほぼ実現されないまま、9年がたってしまった。

それどころかいまや、被害者への賠償切り、支援切りが断行され、安全への不安を抱えたままの原地帰還が進められている。

リスクの可視化が行われていない?

同様に、今回の新型コロナウイルスへの対応にも、今述べた(1〜3)の手続きが適切に実施されていない。

まず指摘しなくてはならないのが、原発事故も、新型コロナも、いずれもその検査体制が不十分であり、(1)リスクの原因体の可視化に失敗しているという点である。

2011年の原発事故では、国による避難指示区域からの避難者に対してさえも、適切なかたちでその被曝量の検査が行われていない。

今回の放射能汚染がもたらした実際の身体への影響については専門家の評価は様々だが、いずれにしてもこの領域に携わる人々が口を揃えて主張していたのは、「何がおきて、人がどこでどれほど被ばくしたのかをまずは明らかにすること」だった。

そしてその手段はあり、検査体制を整えることも可能だった(例えば金銭的には有り余るほどの予算が投じられていたのだから、財政的な理由でやらなかったのではない)。

だが結局そうした検査体制は構築されなかった。

なぜしっかりとした検査体制が確立されなかったのかについては、一般に、政府が被爆者数を減らしたかったからだろうと理解されている。筆者もそれ以外に説明のしようがないと考えている。

この間の官邸と所轄官庁(経済産業省、厚生労働省など)、そして加害者である東京電力との関係ははたして適切なものであったのかなど、この先、いつか問題が解明されるときが来るだろう。

さて、この原発事故と同様に、今回の新型コロナウイルスの検査体制もまた、3月後半に入ってもなおまだ整っていない。

検査はいたずらに増やすべきものではないが、医師が必要と判断したケースでさえ検査が行われていない例もあると伝えられている。保険適用になった現在もなお、実質的なルールは変わらず、実際の検査へのハードルは高いという(帰国者・接触者相談センター経由であることはかわらない。つまりはなおも水際対策の体制のままにあるということか)。

先述のように、日本の感染者が少ないのも、つまりは検査をしていないからだとの批判もある。

ここにはなにか、国民の命を守ることとは別の意図が働いているのではないかという疑いさえもたれ、国民の不信や不安を増幅する原因にもなっている。

素人判断で国家の危機管理はできるか

今のべたことは単なる政府批判ではない。というのも、(1)のリスクの可視化が重要なのは、我々一人ひとりの国民にとってというよりも、データがなければ科学は分析も議論できないからである。政府の対策が立てられないからである。

9年前の原発事故においても、例えば新たに癌が発見された場合にも、それがこの事故と関係があるのかどうかはよく分からないままになっていた。なぜなら、人々がどんなふうに被ばくし、その被ばくがその後の身体の変化にどのように現れたのか、十分なデータが全体として蓄積されていないからである。

データがないので放射能による被害もなく、原発事故の影響もない。だから「この国は安全です」ということになるのだが、ここには何の化学的根拠も介在してはいない。はたしてそれが多くの国民に資することなのだろうか(観光客やオリンピックの誘致には必要なのだろうが)。

同様に、新型コロナウイルス対策として安倍首相が行った、イベント自粛や学校一斉休校要請も、これらを行うとこんなふうに効果が現れるというデータも根拠も一切が示されていない。そこには専門家の意見が入っていない。ここにも、明らかに(2)科学の適切な政策形成への利用が欠けている。

危機管理にあたって、筆者はこういうこと(リスクの不可視化と科学を介さない独断)はあってはならないことだと考える。

首相といえども、ウィルス感染については素人である。

パンデミックのような国家の危機を、素人判断で決定してよいものではない。

まして今明らかになっている感染者数は、どうも実態を適切に反映していないようだから、専門家の判断を仰ぐにも、その条件さえ整えていないといってよい。

たしかに検査が行われなければ感染者数は最低限になる。対外的・対内的には感染者数が少ないのはよいことかもしれない。だが、国家の危機管理としてはたしてそれでよいのだろうか。

今、欧米への急速な広がりをみれば、我が国はなんとか事態をしのいでいるように見える。だがそれが、この自粛・休校によるものなのかどうかは、もはや判断できない。もしそれを、たまたまうまくいったということだけで評価するのなら、それこそあまりにも危険だろう。

安倍首相の記者会見をふりかえる

こうして、(1)リスクの可視化(データの収集体制の構築)、(2)科学や専門家の知見の集積と活用に基づく政策決定という、こうした問題において基本なことがなされていないので、当然、次の(3)情報公開とその共有にも至らないわけだ。

原発事故では、「リスク・コミュニケーション」政策が行われたが、この政策では、(1〜2)がないまま、「今回の事故による放射線被ばくは、健康に影響を与えるものではないので、安心せよ」というものとなった。

そして被害者との対話や調整など一切行われずに、一方的な賠償・支援切りが展開している(前掲「復興政策に「異様な変化」が起きている」を参照)。

これほどの理不尽さはまだ生じていないが、今回の新型コロナウイルス対策の情報公開のあり方として象徴的だったのが、3月14日に行われた安倍首相の2度目の会見である。

〔PHOTO〕gettyimages

多くの人が気づいたと思う。

そこには驚くほど素人の総理がいた。せっかく出てきても文書を読むばかりで、記者の質問に対する回答とあわせても、何ら新しい情報、新しい説明、新しいメッセージは出てこなかった。

しかもその後の質疑も、NHKでの放送直後(テレビで見られる時間の終了後)にすぐ打ち切りを図ったようだ。記者から異論が出たため、その後数名が質問できたが、結局最後は質問を強引に打ち切っている。

冒頭に行われた首相の長い説明の終わりに、自ら「いかなる困難も力を合わせれば必ずや克服することができる。打ち勝つことができる。私はそう確信しています」と呼びかけたばかりだったのに。

なぜ首相はきちんと説明できなかったのか

だが、そうなる理由はよくわかる。

(1)今回のウィルス感染について、安倍首相の手元にはきちんとした裏付けになるデータはない。それゆえ(2)科学的知見をふまえたアイディアも説明も、今の首相にはないからだ。

「一気呵成(いっきかせい)に、これまでにない発想で、思い切った措置を講じてまいります」とも述べたが、これ以上根拠なく行う政策を断行するという意味なら、その方が怖ろしい。

安倍総理には今、情報がない。情報がないまま、対応が求められている。

ならば一方的に自分の立場を正当化するのではなく、こうした記者会見の場などを通じて、世の中の声や、生じている国民社会の問題点を、きちんと吸い上げる努力こそが必要なのではないか。

そしてそれは、必ずしも首相だけが出てきて説明するかたちではなく、担当官僚や専門家委員会とともに会見を行えばよかったのである。その方がきちんとした議論になったはずだ。

そしてパンデミックは基本的に未知との闘いなのだから、自分への批判など意に介す必要などなく、堂々といろんな意見を聞き、政府に持ち帰り、次の政策に生かしていけばよいのである。誰もそのことに文句は言うまい。

質問を怖がる必要はないはずだ。そもそも「力を合わせる」と自ら呼びかけているのだから、記者たちとも力を合わせるのが筋ではないか。

重大な危機の際にリーダーに求められるのは、一方的に何かを決めて人に押しつける力ではなく、国民にとって必要な情報をしっかりと把握し、かつその情報を十分に分析し、多様な発想の開花が実現する場を形成することである。

そうして政策の選択肢を増やした上で、きちんとしたデータに基づいて適切だと確信できるものを選びとり、その根拠をきちんと説明し、人々の協力の下に(強制ではなく、みなの納得の元に)着実に実行していくことである。

震災直後・菅直人政権の危機管理体制

世間では、東日本大震災・東京電力福島第一原発事故の時の菅直人政権が、原子力の専門家たちをうまく使えず、その無知から事態を攪乱し、被害をむしろ拡大したかのようなイメージが流布しているようである。

また菅直人政権は、事故発生によるパニックの発生を恐れて、過度に事故の安全性を強調したとも印象されている。

しかしそれでは、どうも当時の政権の関係者がかわいそうである。これらのイメージには、デマゴギー(意図的な虚偽情報)さえ混じっている可能性さえある。

筆者も当時、そのデマにだまされた者だ。その後、冷静に事態を追ってみると、当時の官邸は事故直後の極限状態の中、情報過疎の中でできる限り多くの情報を集め、適切な対応を目指して画策していたのは明白である。

そしてその中で、政権はできるだけ多くの人を現地から避難させようと努力していた。そこにはパニック発生による二次災害の危険をどう防ぐかという課題との駆け引きもあったようだが、これも今となってはよく分かる(ちなみに、なぜこの時、官邸が情報過疎状態に陥ったのかについての解明が、いまだなされていない。我が国の危機管理体制の向上のためには、その解明こそが必要である)。

安倍政権の危機管理体制は適切なものなのか

彼らの判断が正しかったかどうかは、わからない。この先、さらにその評価や審判がなされるとして、ともかくここでは、上記の(1)や(2)を実現しようとする努力が、当時の政権によっては適切に進められていたことについて確認しておきたい。

問題はその後、民主党に代わって政権を握った、自民党・公明党連立の安倍政権による危機管理体制である。

すでに本誌でもいくつか書いてきたように、東日本大震災・原発事故のその後の対策をずっと追っていったとき、この政権ほど、科学研究の成果や意見を無視し、政治的決定を政治的決定として純粋化した政権はないように思えるからである。

このことは、例えばその経済政策アベノミクスにしても同じ匂いがあるし、地方創生政策については別のかたちで筆者も論じてきた(『「都市の正義」が地方を壊す』PHP新書など)。

いやそれでもなお、そこには専門の研究者や専門家たちはいた。他の専門家の異論は排除していても、何らかの専門的知識に基づいた政策であったのは間違いない。

しかし、今回の新型コロナウイルスへの対応には、そうしたプロセスがみられない。
独断専行。

原発事故対応やアベノミクスを越えた、もっと次元の低いところで、いま官邸は重大な政策決定を行っている可能性があるのではないか。

〔PHOTO〕gettyimages

「悪夢のような政権」はどちらだろう

こうして、原発事故と新型コロナウイルスと、その政府の対応を対比してみると、原発事故においてすでに指摘されていた問題状況がそのまま引き継がれているばかりか、原発事故のときにさえ(あの混乱の中でさえ)きちんとできていたことが、今回は全くできていないということに気づき、驚く。

安倍政権は、民主党を「悪夢のような」とまでいって批判し、選挙に勝ってきた政権である。だが、はたして本当の「悪夢」はどちらがもたらすのだろうか。

というのも、今回の新型コロナウイルスでは、すでにいつでも非常事態宣言を発令しうる体制が整っているからである。このことをどう見るのかについて、ひきつづき続編で議論を展開したいと思う。

(つづく)