19世紀半ばのアヘン戦争に中国が敗れたことで、香港は植民地としての長い歴史を歩むことになりました。第2次世界大戦中は日本軍に占領されましたが、戦後は再び英国の植民地支配に戻ります。
英国と中国が交わした返還の期限は1997年。中国が香港での影響力を取り戻し、実際に返還されるまで約40年のストーリーを振り返ります。

4コマで香港返還


返還後は英国から派遣された香港総督に代わり、香港の選挙委員会が選出する行政長官が首長となった。

行政長官は、産業界などの代表や議員からなる
選挙委員(定数1200人)による投票で選ばれ、
中国政府から任命される。
普通選挙で選ばれる選挙委員は一部で、
民意が全面的に反映される仕組みではない。
参考書籍:中国史〈5〉清末~現在 (世界歴史大系)

関連用語

香港(ホンコン)

Xianggang/Hong Kong 中国南部の広東省と地続きの九竜半島と香港島および周辺の島々からなる地域。150余年にわたりイギリス領植民地となっていたが,1997年に中国に返還されて中国の特別行政区となった。イギリスは,南京条約(1842年)と北京条約(1860年)で清朝政府に香港島と九竜半島の先端部を割譲させ,さらに1898年新界と呼ばれる九竜半島のつけ根の部分と周辺の島々を99年間租借することによって香港を植民地とした。香港は,まず中国の産品を東南アジアや欧米に,また欧米の工業製品と東南アジアの産品を中国に再輸出する中継貿易港として発展した。第二次世界大戦中,一時日本の占領下に置かれたが,戦後は,工業化を進めて海外から原材料を買い,加工した香港製品を輸出する加工貿易港に転じた。また1970年代には国際金融センターとして発展した。香港が植民地にもかかわらず,このように発展することができたのはイギリス型の自由貿易や自由放任主義的な経済運営が行われたからだとみられている。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

周恩来(Zhou Enlai)(しゅうおんらい)

生没 1898.3.5〜1976.1.8 中国の近代政治家。江蘇省出身。1917年(大正6)来日し,早大などで学ぶ。帰国後,5・4運動に参加。20年渡仏。22年中国共産党に入党し,中共フランス支部を組織し,24年帰国。27年上海で武装蜂起を指導したが,蒋介石(しょうかいせき)の上海クーデタにより江西に逃亡。長征に参加後,西安事件では中共代表として折衝にあたり,蒋介石より第2次国共合作の同意を獲得。日中戦争中は武漢・重慶にあって国共合作に尽力。中華人民共和国成立後は国務院総理兼外交部長などの要職を歴任。54年のジュネーブ会談,周・ネルー会談,翌年のアジア・アフリカ会議で活躍。日米との国交回復にも尽力した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

臂平(とうしょうへい)

Deng Xiaoping 1904〜97 中国現代の政治指導者。四川省生まれ。フランスに留学し,革命運動に参加。帰国後に軍事活動に参加。1930年代初期に毛沢東の主張を支持したため,ソ連留学生派の指導者によって左遷されたが,毛沢東の政治指導権が確立すると,党内における地位は上昇。抗日戦争と国共内戦で,劉伯承(りゅうはくしょう)とコンビを組んで軍を率い,中国共産党の軍事的勝利に貢献。53年から西南地区の指導者から中央に転出し,財政部長,副総理,党中央秘書長を歴任し,56年に党中央総書記に昇格。文化大革命で劉少奇(りゅうしょうき)に次ぐ「実権派」として失脚。林彪(りんぴょう)事件後に党中央副主席などの要職に復活したが,文革路線を是正しようとしたため,毛沢東の反発を招き,3度目の失脚を喫した。毛沢東死去後に3度目の復活を果たし,78年末の第11期3中全会で最高実力者となる。以後,強い指導力を発揮し,改革・開放の時代を切り拓いた。97年に死去したが,改革路線は継続されている。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

サッチャー

Margaret Hilda Thatcher 1925〜 イギリスの首相(在任1979〜90)。中流階級の出身でオクスフォード大学に学び,1959年下院に初当選。75年女性で初めて保守党党首に選ばれ,79年の総選挙に勝って組閣。戦後の福祉国家体制を批判して自由主義経済政策への転換に政策の重点を置き,82年フォークランド戦争に勝って,翌年の総選挙に大勝し,第2次内閣をつくる。国民に自助努力を訴えて,労働組合に激しい攻撃を加え,「小さな政府」を目標にして,国有産業の民営化を進め,ロンドン株式市場を変革(ビッグ・バン)した。87年の総選挙にも勝って,第3次内閣を組閣したが,ヨーロッパ統合に懐疑的な立場をとり,またすべての住民に対する均等課税を企てたため,しだいに孤立し,90年の党首選挙で十分な支持が得られずに辞任した。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

天安門事件(てんあんもんじけん)

中国,北京の天安門広場で起こった事件で,厳密にいえば,第1次と第2次がある。 迷1次〕1976年4月,死去した周恩来(しゅうおんらい)首相の追悼のため天安門広場に集まった民衆の行動が抑えられ,人民を扇動したとして_小平(とうしょうへい)副首相が職務を解任された事件(別称四・五運動)。◆迷2次〕1989年6月4日民主化運動に結集した天安門広場の学生たちを戒厳軍が弾圧し,趙紫陽(ちょうしよう)党総書記が運動への甘い対応から解任された事件(別称六・四事件)。この事件は,87年に学生の民主化要求に寛容な姿勢を示して解任された胡耀邦(こようほう)元党総書記が89年4月に死去し,彼の名誉回復を求める学生のデモが契機となった。その後学生たちはハンストを含む過激な行動で当局に民主化を迫ったが,5月20日に北京の一部が戒厳令下に置かれ,6月4日に軍が広場に留まった学生を排除する際に流血の衝突が起こった。現在でもなお,6月4日未明に広場で何が起こったのか,死傷者は最終的に何人にのぼるのかなど,真相に不明な点が多い。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)