物質的な豊かさに恵まれているのに、幸福度がそれほど高いと感じられないのはなぜでしょうか(写真:坂本禎久)

私が子どもの頃、コンビニエンスストアなどはまだ周囲に見当たりませんでした。当時は24時間やっているお店などどこにもなかったし、正月になるとどの店も閉まっていて、買い物も満足にできない状態でした。

それに比べると今はちょっとした街中なら200メートルおきぐらいにコンビニがあり、24時間年中無休で営業しています。これだけのサービスが日本全国あまねく行き渡っている時代というのは、過去どの時代にもなかったことは確かでしょう。そんな飽和した成熟社会を生きている私たちの生活水準、生活の便利度は、かつての王侯貴族と変わらないか、それ以上だと評する人もいます。

考えれば考えるほど、実に便利な時代、豊かな時代に私たちは暮らしているのです。そんな豊かさに囲まれているのに、幸福度はそれほど高いとは感じられません。これはいったいなぜなのでしょうか? 拙著『メンタルの強化書』をもとに解説します。

常に不安感、孤独感に襲われている

チェコスロバキア共和国の初代大統領でトマーシュ・マサリクという人物がいます。この人は有名な社会学者、哲学者でもありました。マサリクは自殺を社会学的に研究した草分けでした。

それまで自殺の原因は貧困とされていた中で、マサリクはプロテスタント地域とカトリック地域の自殺率を調べました。すると、プロテスタント地域のほうが豊かなはずなのに自殺率が高いことを発見します。

マサリクは、自殺は貧困や病気という客観的な要因によって起こるのではなく、時代の変わり目で価値観が変動する時期に心の中に湧き起こる「不安」など、心理的な要因によって自殺するのではないか、という仮説を立てて検証しました。

今でこそ心理学や社会学が発達して、「自殺」と「不安」の関係は当然のこととされていますが、当時、自殺の動機がそのような漠然とした心理的なものであるとは誰も考えませんでした。

「不安」という心理は、私たちが考える以上に影響が大きいものです。芥川龍之介は「漠然とした不安」から自殺しましたが、中世的な神の世界から離れた近代人にとって、孤独と不安は常に付きまとう影のような存在になりました。

どんなに物質的な豊かさに囲まれていたとしても、「孤独感」や「不安感」に常に襲われている状態では、人間は幸福を感じることは難しいでしょう。幸福感は、不安感との兼ね合いで大きく左右されます。「今のままで老後は大丈夫なのか?」という将来に対する不安感、周りは豊かだけれど、自分はそれに比べてお金がないとか、学歴やキャリアがないという劣等コンプレックス……。

こうした不安は、幸福感を相殺する原因であると同時に、さまざまな行動のモチベーションにもなります。不安から解放されようとして、人はさまざまな行動に走るのです。

不安を解消する一番の方法はお金

書店に足を運ぶと、相変わらず自己啓発本やハウツー本がたくさん並び、人気が高いようです。中でも根強い人気なのはお金に関するもの。「損をしない株式投資」だとか「老後資金の作り方」といった本がたくさん並んでいます。

不安を解消するいちばんの方法がお金です。資本主義の世の中、とくに現在のような高度消費社会において、まず何より頼りになるのがお金だということ。つまり、資本主義経済においては、お金が最も価値と影響力を持つ──現代は「拝金教」だと言うのはまさにそのことです。このようなお金に対するあくなき追求の裏に、「孤独」と「不安」があるということを、私たちはあらためて認識しておくべきだと思います。

お金を稼ごうと頑張るのは豊かになりたい、幸福になりたいという欲望や願望があると同時に、コインの裏表のように「孤独に対する恐れ」や「不安」があるのです。

問題は、現在の資本主義社会、高度消費社会の中で、不安をあおり、恐怖心を抱かせることで商品を売りつけようとするやからが後を絶たないことです。例えば雑誌のマネー特集などでどんなことを言っているか? 「預金するだけでは引き落とし手数料だけで損をする!」とか、「低金利時代は投資をせずに何もしないことのリスクのほうが高い」など、投資をしないといかにも乗り遅れ、損をしてしまうようなことを書き立てます。

誰もがこれからは投資をする時代のように感じ、何かしないといけないという不安感、焦りを覚えます。そして、不安を解消し、安心を得るために金融商品を買う。マスメディアを中心にした、膨大なコマーシャリズムの蔓延によって、私たちは日々脅され、不安をかき立てられている状態と言ってよいのです。

このような慢性的な不安感の中で、しだいに精神がすり減り、うつ病や自律神経失調症など、心の病に陥っていく。資本主義社会が成熟するほど、心を病む人が増えるというのは、そんな構図もあると考えます。

最近、本屋でもよく見かけるのが「教養」をテーマにした本です。私自身、「教養」という言葉をタイトルに使っている著作がいくつかあります。

だからこそ残念なのですが、どうも最近、「教養を身につけなければこれからの時代は生きていけない」というような強迫的ニュアンスで語られていることが多いように感じます。私はこの状況を、「脅迫としての教養」という言葉で表現しているのですが、ついに教養そのものも、現代の商業主義の中で、「脅し」の材料になり果ててしまったようです。

本来、教養は精神的なゆとりの中で育まれるものだと考えます。不安を解消するために身につけるものではありません。教養はそれを身につけようとして得るものではなく、結果として身につくものだと考えます。「脅迫としての教養」は教養そのものが目的ではなく、将来のポジションを得るため、より高い収入を得るため、といった別のところに目的がある。教養を1つの手段として見ているわけです。

そのような「脅迫としての教養」は、今やさまざまなところで垣間見えます。その1つが講座ビジネスです。これからは語学、英語が話せないとビジネスで生き残れないとか、編集力が大事だとか、そうかと言えば国語力が大事だとか……。

実際、私も著作でこれからのビジネスパーソンは数学と国語ができなければならないと書いていることもあり、大きく間違ってはいないのです。しかしそれを強調することで、不安に陥らせ、そこから結構なお金がかかる講座を受講させるのは問題です。

さらに問題なのは、料金設定です。一般の大学の公開講座だと、3〜5回のもので数千円くらいが平均でしょう。それが例えば、数万円から10万円を超えるようなものであれば、しっかりと内容を考慮して果たしてそれだけの金額に見合うものかどうかを判断しなければなりません。

前のめりな生き方はメンタルを病む危険が

情報感度の高い人ほど、世の中の動きに乗り遅れると大変なことになると危惧し、知らないうちに流行やコマーシャリズムに乗せられてしまいます。

本当は他者の思惑に乗せられているのですが、そういう人に限って自分で選択した行動だと思い込んでいる節があります。そして何でも先取りしている自分に満足していたりします。主体性があるようでない。能動的に活動しているようで、実は受動的。

私はこれを「前のめりな生き方」と称しているのですが、情報社会の中で何かに突き動かされるようにして前に前にと進んでいく。常に前傾姿勢で進み、倒れる前に足が出る感じ。そのままどんどん加速して、脇目もふらずに突き進んでいくイメージです。

そういう人はどうなるか? スピードが加速度的に上がっていき、最後は次の足が出るのが間に合わず倒れてしまうか、あるいは何か障害物にぶつかってしまう。つまり挫折したり、メンタルを病み、自滅してしまう。そんな人が少なくないように思います。

私は、「立ち止まることができる力こそ教養である」と考えます。前のめりに突き進むのではなく、周囲の人たちが、社会が前のめりになって1つの方向に突き進んでいる時、「ちょっと待てよ」とか「あれ? おかしいぞ」と立ち止まることができるか?

このようなことも、「前のめり」になっているとよくわからないと思います。テレビ番組などで有名な評論家が、「これからは自己責任の時代であり、努力しない人は社会から落ちこぼれても仕方がない」などと解説していると、なるほど社会の流れに振り落とされないようにとがむしゃらに頑張ってしまう。

少し不真面目に、斜に構えてものを見る

しかし、世の中で言われていることが本当に正しいかどうかはわかりません。むしろいろんな思惑の中で、ある一部の人間たちにとって都合のいい論理が先行していることも多いのです。


言葉は悪いのですが、少し不真面目に、斜に構えてものを見るくらいでちょうどよいかもしれません。ただし、本当に斜に構えてしまうと、斜めから物事を見続けているうちに、見方が歪んでしまうということもあるでしょう。

そこで「人よりも半歩遅れて進む」という考え方をお勧めします。詳しくは拙著『メンタルの強化書』に書きましたが、世の中の流れと一緒になって、前のめりに進むのではなく、あえて「半歩遅れて」物事を見るのです。

少し引いて物事を見ることができますから、全体像がよりはっきりとわかります。そうやって少し時間を稼いで判断する。テンポの速い時代はそれくらいがちょうどいいのです。「前のめり」でがむしゃらに頑張っても、気がつくと誰かの思惑に都合よく踊らされている可能性もあります。そして知らずのうちに心身ともに疲弊してしまうのです。