幸せな夫・妻を演じる結婚生活は、まるで“ままごと”のようだ。

確かに、幸せなのだけれども…。

満たされぬ思いを誤魔化すために、人は自分にも愛する人にも嘘をつく。

嘘で人生を固めた先にまっているのは、破滅か、それとも…?

満たされない女と男の、4話完結のショートストーリー集。

1話〜4話は、『片想い』をお送りした。5話〜8話は、『運命の人』

今回は、大手商社に勤める塁(35)と史帆(34)の物語。




―昔はよかった。

これは僕が一番嫌いな言葉だ。そんなの、過ぎ去ったことに執着し、現実を直視しない人間が口にする戯言にすぎない。

僕は早稲田大学を卒業後、大手商社に入社した。2年のニューヨーク駐在を経験し、出世ルートも外れず、年収は右肩上がり。31歳で、美人CAと仲間内でも名高かった友香と結婚し、すぐに娘の愛莉が生まれた。

「お前って、何かツイているよな」

同僚にそんなことを言われたことがあった。似たようなセリフは、過去に何度も掛けられてきているのだが。まあ、はっきり言って、みんな僕の人生を羨ましいのだと思う。

でも僕の人生は、自分自身で掴み取ってきたものなのだ。

ルックスと頭脳に恵まれたというアドバンテージはあるものの、いつだって、適切なタイミングで最大限の努力をしてきた。

後悔したことなんて一度もない。

―だけど…。半年前のあの日。

数年振りに、“shiho”というIDからメッセージが着信したとき、妙な胸のざわつきを感じた。

―それから…

僕の人生の矛先が少しずつ、あらぬ方向へと進んでいる気がするのは、気のせいだろうか?


自分では完璧だと思っていた男の人生。とある出来事をきっかけに、歯車が狂いだす…?


「パパ、これみてー」

2歳になる娘が、最近はまっているという塗り絵の最新作を、自慢げに見せてきた。

「おう、よくできてるな〜、愛莉」

そう言って頭を撫でると、褒められたのが嬉しかったのか、愛莉は満面の笑顔で飛び跳ねる。そんな彼女は、親のひいき目抜きにも、妻に似た美人だ。

「愛莉、今日はパパが遊んでくれてよかったわね〜」

そう言って娘を見つめる友香も、すっかり母の顔をしている。

そんな光景を愛おしく思いながら、穏やかな時間が流れる。友香と娘の幸せは絶対に守り貫く、そう誓ったことに嘘はない。

この幸せは、何があっても壊さない、と。

―だけど…。

ジーンズのポケットのスマホが、ブブっと震える。直感で着信相手を察すると、無意識に胸が高鳴る。

そして、どこか冷静なもう一人の僕が、この状況に、時限爆弾にも似た脅威を感じる。




―水谷史帆

メッセージの着信相手である彼女は会社の同期で、言わば“元カノ”だ。

しかし、彼女をそんな風に称するのは、何故だか憚られる。史帆ももう、人妻となってしまったからだろうか。

―shiho:この前は、楽しかったね。今度、ランチでもいこー。

バスルームに行ったついでに、その端的なメッセージを確認する。

「あら、なんかいい事でもあったの?」

知らぬ間に、表情が緩んでいたのだろうか。リビングに戻ると、友香が僕の顔を覗き込んできた。

「いや、別に」

冷静に、そして手短に答える。

動揺する必要はないのだ。史帆とは何でもないんだから。

今はただの会社の同期にすぎない。会ったのだって、この半年で2回。メッセージもたまにしかやりとりしない。

この前だって、久々に開催された同期会に、史帆が何年かぶりに突然顔を出したから。会社の同期としてみんなで会っただけ。

―…ただ。

半年前、結婚してから初めて、史帆から「久しぶり」と短いメッセージを受け取ったとき、僕の中に封印していた感情が呼び戻されたような気がした。

普段はクールなビジネスマンを装っている僕だが、なんというか、その皮を一気に剥がされそうな、不思議な、そして危うい感覚がしたのだ。


塁が無意識に執着してしまっている“史帆“。その正体とは?


ーランチいいね。来週の水曜あたり、どう?

打ち込んでは消し、打ち込んでは消し、ようやく完成したこの一行。

こんなにも短いメッセージを書くのに、どれだけの時間を要しただろう。いや、短いからこそ、熟考が必要なのかもしれない。

自然に、さりげなく、しかし具体的に。

ふと、初めて史帆をデートに誘ったときも、こんな風に文章を考えあぐねていたなと、懐かしい感情が甦る。

「なに、ニヤニヤしてるのよ。パパなんか変だね〜」

そう言って友香が愛莉に語り掛け、愛莉が嬉しそうに、パパ変だよと言って走り回っている。どうやら、どんなに気を付けても、史帆のことを考えると無意識に顔が緩んでしまうらしい。

「いや、同期が結婚することになってね。全然モテなかったやつだからさ、LINEからも舞い上がってる様子が伝わってきて面白くてさ」

ニヤけていることを隠せないのなら、理由を偽ればいい。どこで習得したのか、それっぽい嘘がスラスラと飛び出る。

「あらそう?」

納得はしていなけど深くは突っ込まないでおくわ、とでも言うかのように、友香は僕を一瞥だけして、愛莉に視線を戻した。




もう10年以上前だが今でも鮮明に蘇る。

あれは入社式のときのことだった。

「隣いいですか?」

そう言って横に座ってきたのが史帆だった。

ふと、横に座った彼女の姿を見たとき、その華奢で、しかし凛とした佇まいに、釘付けになった。

多分、この瞬間、僕は史帆に恋をしたんだと思う。

あの時の不思議な感覚は、今でもよく覚えている。頭では、これが俗に言う一目惚れというやつか?なんて冷静に考えながらも、どうにも視線が外せない。

「どうかしました?」

史帆は他人行儀に、いや、この時はまだ他人なのだが、事務的な話をするように声を掛けてきた。

「あ、いや、別に」

これが、僕が初めて史帆と交わした言葉だった。

それから、すぐに僕からアプローチをして、付き合い始めたわけなのだが、そういう意味で、史帆は確かに特別な存在だということだけは、認めざるをえない。

この僕が、あそこまで熱烈にアタックしたのは、後にも先にも史帆だけなのだから。

そして、僕のプロポーズを断ったのも…。

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史帆が語る、塁への想い。プロポーズを断った本当の理由とは…?