1500年続く王朝で天皇はどんな役割をになってきたか?[特集:日本のそもそも]
日本の長い歴史の中で、天皇の地位と権威は常に受け継がれ、社会の中で重要な役割を果たしてきました。しかし、その役割は時代によって大きく異なります。天皇の歴史を4コマで整理し、日本を理解する一助としましょう。
4コマで天皇の役割




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天皇(てんのう)
日本の古代以降の君主の称号。天皇の固有名(諡号(しごう)など),代数,在位時期,陵,世系は,1870年(明治3)に追尊された弘文天皇などを含めて,「皇統譜」により定められている。天皇の語(和訓はスメラミコト)は中国の道教思想などから採用したもので,7世紀前期あるいは7世紀末に大王(おおきみ)にかわる称号として使用されるようになり,天皇の先祖とされる大王らにも天皇号が付与された。「古事記」「日本書紀」によれば天皇の始祖は紀元前7世紀の神武天皇とされるが,中国史料や金石文で存在が確認されるのは5世紀の大王からである。天皇の地位がどのような経過で確立されたかについては,邪馬台(やまたい)国の所在や前方後円墳の成立をめぐる問題ともからんで未解明の点が多い。ともあれ天皇が宗教的権威を背景に官人任免権,外交権,軍事指揮権を行使する国家統治の体制が律令制度として7〜8世紀を通じて確立された。天皇の権力は外戚たる摂関や退位した院がかわって行使することがあったが,統治の主体としての天皇の地位は維持されていった。12世紀末に鎌倉幕府がうまれ,以後,江戸幕府に至るまで武家支配がつづくと,外交権・軍事権は天皇の手を離れ,文官・武官の形式的任免権と改元の決定,暦の頒布など,限られた権限を行使する権威的な地位となった。皇位の継承をめぐって幕府の関与を招き両天皇の併立する時期もあった。19世紀に開国問題で国論がわかれると,天皇は幕府に反発する勢力に擁されて王政復古の名で近代国家を形成する中心となり,大日本帝国憲法で立憲君主制の頂点に位置づけられた。第2次大戦後,日本国憲法で天皇は日本国と国民統合の象徴と定められた。昭和天皇は皇統譜で124代とされているが,実在の疑われる天皇や両天皇併立時代を考えると,天皇の代数は不明というしかない。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
古くは倭(やまと)と称し,ほかに大八洲(おおやしま)・葦原中国(あしはらのなかつくに)・秋津島(あきづしま)の称もあった。しかし大宝公式令(くしきりょう)に,外国使臣に「明神御宇日本天皇」の語を用いると定め,702年(大宝2)の遣唐使が中国で「日本使臣」と称し,「旧唐書(くとうじょ)」東夷伝に,倭国と日本国の両伝を記しているように,8世紀初めには日本という国号が国際的に認知されていた。しかも「旧唐書」に,倭がその字を悪(にく)み,国が日の辺にあるをもって日本と改めたとあるのは,すでに隋への国書に「日出ずる処の天子」と記した思想と同じであるから,大宝令以前に「日本」と記した史料をすべて追記であるとは断定できない。国際的用語としての日本の号は,呉音でニッポン,また促音をともなわないニホンと音読されたが,国内ではヤマトとも訓読された。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
大化の改新(たいかのかいしん)7世紀半ばの一大政治改革。中国の隋唐的律令国家形成の過程で,645年(大化元)中大兄(なかのおおえ)皇子・中臣鎌足(なかとみのかまたり)が中心となって,蘇我氏本宗家の政権を倒壊させた乙巳(いっし)の変に続いて,おもに大化年間に行われた。改革の主体は,孝徳天皇・左大臣阿倍内麻呂・右大臣蘇我倉山田石川麻呂・内臣中臣鎌足らであったが,改革派の代表である中大兄皇子と国博士(くにはかせ)となった僧旻(みん)・高向玄理(たかむこのげんり)の役割が重視されている。内容は,地方人民支配に関するものと中央政府内部のものとに大別される。前者は,旧来の部民制を廃して公民制を創出することで,全国を国・評(こおり)(大宝令の郡)に区画し,さらに「五十戸一里制」によって人民を編成する。その開始は,「日本書紀」大化元年(645)8月条の造籍・班田を目的とする東国国司の派遣記事により確認でき,これが東国のみでなく全国的なものであったことも確認できる。その基本方針の決定は,646年元日の改新の詔,同年3月の皇太子奏および同年8月の品部(しなべ)廃止の詔に示されている。その成果としての全国的評制の成立は「常陸国風土記」などの史料により,「五十戸一里制」も飛鳥京跡出土の「白髪部五十戸」木簡により確認される。次に中央の改革は,改新の詔において,部民制の廃止にともない諸豪族に食封(じきふ)・布帛の支給が示され,さらに中央官制構築のため,647年に13階,649年2月に19階の冠位が制定されている。これは推古朝の冠位十二階が対象としなかった大臣など上層部と,職業部の伴造(とものみやつこ)層(百八十部)を含む全官人を包摂したものである。これをうけて,649年2月に高向玄理と僧旻により「八省百官」がおかれたが,これは将作大匠・刑部尚書などの唐直輸入の官名が示すように,なんらかの中国的官制の成立を意味するものと考えられる。これらの官名がその後の改革に継承されていないことから,このような性急な改革は必ずしも実を結ばなかったとみられるが,ある程度の中央官制の整備は認められよう。652年(白雉3)に完成した難波長柄豊碕(なにわのながらのとよさき)宮(前期難波宮)は,規模・構造の両面でのちの藤原宮に匹敵するもので,大化の改新の政治改革のいちおうの終結を示すものといえる。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
倭の五王(わのごおう)「宋書」倭国伝にみえる5世紀頃の5人の倭王で,讃(さん)・珍(ちん)(「梁書」は彌(み))・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)をいう。宋・斉・梁などの中国南朝に遣使朝貢し,日本列島と朝鮮南部の地域における軍事権の行使を意味する号を自称し,その承認を求めた。朝鮮南部の百済(くだら)・新羅(しらぎ)・任那(みまな)(加耶・加羅)に対する倭国の政治的・軍事的関与について,中国皇帝の保証を得るとともに,倭国内部における大王権力の強化をも意図したものであろう。応神以下の天皇に比定されるが,議論のわかれる王もある。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
天智天皇(てんちてんのう)生没 626〜671.12.3 在位668.1.3〜671.12.3 「てんじ」とも。系譜上の第38代天皇。葛城皇子・天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇と称する。舒明天皇の長子。母は宝皇女(皇極天皇)。異母兄の古人大兄(ふるひとのおおえ)皇子に対し,中大兄(なかのおおえ)皇子と通称される。中臣鎌足(なかとみのかまたり)とともに蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子の政権打倒を図り,645年(大化元)これに成功した。事件後に即位した孝徳天皇のもとで大化の改新の諸政策を推進したが,653年(白雉4)天皇と対立し,皇極太上天皇・皇后間人(はしひと)皇女らと難波から飛鳥に戻った。孝徳の死後,斉明天皇が重祚(ちょうそ)すると皇太子として活躍。661年(斉明7)百済救援軍を率いた天皇が筑紫朝倉宮で没すると,皇太子のままで天皇としての政務を行った(称制)。663年(天智2),白村江(はくそんこう)で唐・新羅の連合軍に大敗すると,西日本の防御体制を強化した。また氏族政策(甲子の宣(かっしのせん)),冠位制の改定を行い,667年近江大津宮に遷都し,翌年即位した。670年には庚午年籍(こうごねんじゃく)を作って人民支配の基礎を固めた。近江令を制定したとも伝えられる。没後翌年の672年には,その子大友皇子と,天智の弟である大海人(おおあま)皇子(天武天皇)の間に壬申の乱がおこった。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう)明治中期〜昭和前期の日本国家の基本となった憲法。通称は明治憲法。ヨーロッパで憲法調査にあたった伊藤博文を中心に,おもにプロイセンやドイツ諸邦の憲法を範に起草。枢密院の審議をへて1889年(明治22)2月11日に欽定憲法として発布され,90年11月29日に帝国議会の開会とともに発効した。全76条。この憲法によれば,天皇は国の元首として統治権を総攬(そうらん)し,法律の裁可,議会の召集,衆議院の解散,陸海軍の統帥・編制,宣戦・講和,条約の締結,文武官の任免,緊急勅令の発布など広範な大権を有し(第4〜16条),憲法の条規により統治権を行使することとされた(第4条)。国務大臣は天皇を輔弼(ほひつ)し責任を負うとしているが,国民・議会への責任は明文化されていない。国民は公務への就任や請願の権利,法律によらない逮捕の否認,言論・出版・集会・結社・信教の自由や所有権の不可侵などを制約つきながら認められた。帝国議会は衆議院・貴族院の二院制で立法や予算議定などの権限をもった。大日本帝国憲法の発布により天皇を中心とする国家体制が確立されるとともに,国民の国政に参与する途も開かれ,日本はアジアにおける唯一の立憲国家となった。この憲法には君権主義と立憲主義の原理が併存し,解釈の幅は大きく,大正期には立憲主義的理解が深まったが,1930年代後半以降,軍部の台頭で立憲主義的要素は骨抜きとなった。第2次大戦の敗戦により実質的機能は失われ,47年(昭和22)5月3日,日本国憲法にかわった。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
日本国憲法(にほんこくけんぽう)1946年(昭和21)11月3日公布,翌年5月3日施行された現行憲法。形式上は,大日本帝国憲法第73条の改正手続きにもとづき,枢密院への諮詢(しじゅん),第90帝国議会での議決により成立した。大日本帝国憲法が民主的改革に障害であるとみたマッカーサーは,GHQの方針を牽制しうる極東委員会成立前に新憲法を制定しようと考えていた。46年1月幣原(しではら)内閣の国務相松本烝治(じょうじ)を委員長とする憲法問題調査委員会が草案を起草したが,国民主権・非軍事化の点で不十分だとしてGHQは拒絶,2月以後民政局ベースの起草が開始された。民間の憲法草案も発表され,憲法研究会の草案のみが国民主権を明示していたこともあり,総司令部に影響を与えたといわれる。同年3月6日,政府はGHQ案にもとづく「憲法改正草案要綱」を発表,多少の修正をへて日本国憲法案を得た。日本国憲法は11章103条からなり,国民主権,戦力不保持と交戦権の否認を含む徹底した平和主義,基本的人権の尊重,地方自治の保障などを内容とする。また議院内閣制をとり,司法権の独立も保障している。第9条の戦争放棄の条文と自衛隊との整合性をめぐる論議や,占領軍の押しつけ憲法であるから改憲せよとの論議もあるが,おおむね戦後日本の社会に定着している。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)