インフォグラフィックで、もういちど読む山川世界史vol.10〜中世中国2「隋・唐」〜
中国の歴史は分裂と統一をくりかえしてきました。今回は南北朝の分裂を統一した隋、さらに領土を広げた唐のお話。巨大な帝国を支配するには、新しいシステムが必要でした。
まずは、専門用語なしのグラフィックで、隋・唐の歴史の全体像をつかんでください。続いて、「新 もういちど読む山川 世界史」から転載した原文を読むと、さらに詳しく理解できます。
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律令国家の成立〜『新 もういちど読む 山川世界史』より〜
律令体制の成立と動揺:隋・唐南北朝の分裂は,北朝からでた隋(581〜618年)の文帝楊堅〈位581〜604〉によって統一された(589年)。文帝は長安付近に新都(大興城)をきずき,官制を改め,貴族を地方官に任命することをやめ,試験による官吏の登用(科挙)をおこなうなど,皇帝権の強化をはかった。また均田制による財政の確立,府兵制による軍事力の強化をはかり,華北と江南を結ぶ大運河の建設に着手した。大運河は煬帝〈位604〜618〉のとき完成し,南北を結ぶ政治・経済・軍事上の大動脈として重要な役割をもつようになった。しかし,社会がまだ安定しないうちに,諸制度の改革や大規模な土木事業を進めたうえ,突厥など周辺諸国に遠征したことは,民衆の苦しみをまし,貴族の反感をも強めた。このため,煬帝が3回にわたる高句麗遠征に失敗すると,各地で反乱がおこり,隋はほろんだ(618年)。
隋にかわって帝位についたのは,山西で挙兵し,大興城(長安)を占領していた唐(618〜907年)の高祖李淵〈位618〜626〉である。唐の支配体制は,つぎの太宗李世民〈位626〜649〉の治世にかけて確立され,均田制,租(田税)・調(絹など)・庸(中央政府の労役)の税制,兵農一致の府兵制を基礎におく律令政治がおこなわれた。三省・六部の中央官制や律(刑法)・令(行政法など)の整備,科挙制の強化などは,この基礎のうえに成り立っていた。対外的には,突厥や西域諸国,東北の諸部族,ベトナム北部などをしたがえ,その地に都護府をおいて統治した。
唐の支配は7世紀末に動揺し,則天武后〈位690〜705〉が政権をにぎって帝位につき,周と号した。混乱は玄宗〈位712〜756〉初期の改革によっておさまったが,晩年には楊貴妃の一族を用いて政治をみだし,地方軍団の長官である節度使の安禄山・史思明による乱(安史の乱,755〜763年)を招いた。乱後の唐は,宦官の横暴,節度使の反抗,隣接諸民族の侵入などによってしだいにおとろえた。また増税などによって均田農民が没落し,貴族による大土地所有(荘園)が進み,律令体制の基礎もくずれはじめた。府兵制は募兵制にかわり,租・庸・調の税制は現有財産に課税する両税法となり,塩などの専売もおこなわれるようになった。こうしたなかで,9世紀末には塩の闇商人である黄巣や王仙芝を指導者とする農民反乱(875〜884年)もおこり,唐は節度使朱全忠にほろぼされた(907年)。
貴族文化の成熟一大帝国をきずいた唐では,国際色の豊かな貴族文化がうまれた。しかもそれは隣接する諸国に伝わり,その影響下にそれぞれ独自の文化をうみだしながら,唐を中心とする東アジア文化圏が成立した。詩は李白・杜甫・白居易(白楽天)らがあらわれ,唐詩とよばれるほど栄えたほか,書では顔真卿,画では山水画で著名な呉道玄らが活躍し,あたらしい書法や画法もうまれた。文章では古文の復興がとなえられたりしたが,儒学は訓詁の学にとどまった。
宗教では仏教・道教がますますさかんとなった。ことに仏教では,7世紀にインドにわたった玄奘や義浄が経典をもちかえることによって教理の研究が進み,多くの宗派もうまれた。また首都長安や広州・揚州などの港にはイランやアラブの商人などがさかんに往来し居住もしたので,西方のゾロアスター(祆)教・マニ教・ネストリウス派キリスト(景)教・イスラーム(回)教などが信仰された。工芸の発達も著しく,唐三彩などのすぐれた陶器がつくられた。
周辺諸国の自立北アジアでは,6世紀なかごろにトルコ系の突厥(552〜744年)が柔然をほろぼして勢力をのばし,中央アジアを支配する大国家をたてた。しかし,同世紀末にはモンゴル高原の東突厥と中央アジアの西突厥とに分裂し,7世紀に唐の征討をうけておとろえた。かわって8世紀にはウイグル(744〜840年)が強力となったが,9世紀にほろんだ。突厥もウイグルも独自の文字をもつ騎馬民族の国家であった。
西方のチベットでは,7世紀に吐蕃がおこり,インドや唐と交流してチベット仏教(ラマ教)をうみ,独自のチベット文字もつくった。また雲南では,8世紀に南詔(?〜902年)が独立したが,10世紀からは大理国(937〜1254年)が栄えた。
朝鮮では,漢の武帝が前2世紀末に衛氏の朝鮮をほろぼして4郡をおいてから漢文化が広がった。4世紀には高句麗(前1世紀ころ〜668年),新羅(4世紀なかば〜935年)・百済(4世紀なかば〜660年)などが分立したが,7世紀後半に新羅が唐と協力して百済・高句麗をほろぼし,ついで唐の勢力をしりぞけて統一を実現した。新羅は唐の制度を採用し,高度の仏教文化をうんだ。また中国東北には高句麗がほろんだのち渤海(698〜926年)がおこり,唐や日本とも通交して栄えた。
日本と大陸との交渉は古く,漢代の歴史書に倭の名でみえ,『魏志倭人伝』には3世紀ころの邪馬台国の記事がみえる。4世紀以後は大和政権による統一が進み,5世紀には東晋や南朝の宋に使者を派遣している。7世紀の初めから遣隋使・遣唐使を送るようになり,留学生や留学僧の往来もはじまり,中国の制度や文化をとりいれ,645年に大化の改新をおこなって律令国家へと進んでいった。
関連用語
隋(ずい)
Sui 581〜618 南北朝に分裂していた中国を統一した王朝。北周の功臣楊忠(ようちゅう)が隋国公に封じられ,子の楊堅(ようけん)(文帝)は娘を皇后に入れ,その子の静帝が即位すると実権を握り,反対者を鎮圧して隋王となり,禅譲の形式で国を建て,旧長安の傍に大興城を築いて都とした。589年陳を併せて中国を統一し,科挙をはじめ,郷官(きょうかん)(豪族を地方官吏に任ずる制)を廃するなど,帝権の強化を図った。文帝の次子晋王楊広(煬帝(ようだい))は,皇太子勇ほか兄弟を廃し,父を殺して即位し,大運河を開き,吐谷渾(とよくこん),林邑(りんゆう),流求(台湾)などを討った。しかし3度の高句麗遠征に失敗し,農民・豪族の反乱を招き,江都(揚州)で殺された。これよりさき唐国公李淵(りえん)は長安を占領して煬帝の孫,楊侑(ようゆう)を立てたが,煬帝の死を聞いてみずから帝位についた。また,洛陽では同じく孫の楊_(ようとう)が即位したが,王世充(おうせいじゅう)に殺された。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
楊堅(ようけん)Yang Jian 541〜604(在位581〜604) 隋の建国者。諡は文帝,廟号は高祖。北周の外戚で,静帝の禅譲を得て即位し,陳を討って中国を統一した。均田制,府兵制を整備し,科挙を創設し,豪族を地方官に任ずる郷官(きょうかん)の制を廃止するなど,帝権を強化した。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
煬帝(ようだい)Yangdi 569〜618(在位604〜618) 隋の第2代皇帝。姓名は楊広,別名は英。文帝楊堅(ようけん)の次子。父の即位で晋王となり,討陳軍の指揮をとり,兄の皇太子勇を失脚させ,父を殺して位を奪った。大運河を開き,長城を修築し,吐谷渾(とよくこん)を討って西域への道を開いた。さらに林邑(りんゆう),流求(台湾)を討ち,赤土国を入貢させたが,3度の高句麗遠征に失敗し,農民,豪族の反乱を招いて江都(揚州)の離宮で兵士に殺された。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
科挙(かきょ)隋に始まり清末1905年までの約1300年間,中国の歴代王朝で続けられた官吏登用試験制度。その起源は三国魏から始まる九品中正(きゅうひんちゅうせい)制に求められるが,貴族制度と妥協し門閥偏重に陥る傾向があったので,598年中正官を廃止し,みずからの能力に応じて官吏を志願する道を平等に開くことになった。科挙制は隋唐では不徹底であったが,宋代には地方州の解試(かいし),中央の省試(しょうし),さらに皇帝みずからが臨席する殿試(でんし)の3段階の試験制度が整い,朱子学が科挙に採用されて体制が完成した。明清では科挙のほかに学校制度が合体し,さらに一層の発展をみた。皇帝に代わって徳治政治を代行する官吏は儒教的教養を備えていなければならず,その能力を判定するのがこの制度の目的であったため,この制度には知識が古典に偏重し実務に向かない伝統主義的官僚を輩出する欠点が内在していた。それゆえ清末になり近代改革に適合する人材養成の必要が生じると,しだいにその存在意義を失うことになった。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
府兵制(ふへいせい)西魏に始まり隋唐で整備された兵農一致の制度。もと軍府に属する兵の意味で,北魏では鮮卑(せんぴ)の兵を主力としたが,西魏の宇文泰(うぶんたい)は漢人農民を徴集して「二十四軍」を編成し,中央の十二衛に上番させた。これらは特別の兵籍にのせられていたが,隋代に兵籍,民籍の区別を廃し,徴集母体を一般民戸に及ぼし,唐はこれを受け継いだ。唐では全国に折衝府(せっしょうふ)を置き,丁男中から府兵を選んで課役を免じ,農閑期に訓練し,兵士は兵器を自弁して,1年ないし1年半に1〜2回,衛士(えいし)として国都に上番し,在役年齢中に3年間,防人として辺境の守備にあたった。この制度は均田制崩壊による農民の没落,外民族の活動激化に伴う募兵制の発達により衰え,749年廃止された。府兵制は変形しながら朝鮮,日本でも行われた。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
均田制(きんでんせい)北魏の孝文帝の485年から唐の半ば(8世紀)まで行われ,国家による土地の還授を原則とした制度。北魏で与えられる土地は,次表のとおりである。 男夫婦人奴婢丁牛露田正田40畝20畝良民に同じ30畝倍田40畝20畝30畝桑 田20畝 麻 田10畝5畝 露田は穀物を植える土地。絹産地では桑田,麻産地では麻田が与えられ,露田・麻田は還授されるが,桑田は世襲される。北斉では倍田をやめて露田は男夫80畝(ぽ),婦人40畝とし,桑田・麻田とも男夫20畝を世襲とし,隋はこれを世業田(せいぎょうでん),唐で永業田(えいぎょうでん)と呼んだ。露田を口分田(くぶんでん)と呼ぶのは唐からである。隋の煬帝(ようだい)のとき婦人,奴婢(ぬひ)への給田を廃した。したがって唐では丁男(およそ21〜59歳)へ口分田80畝,永業田20畝を給することになった。そのほか老男,身障者,寡婦(かふ),丁男のいない戸主,工商,僧道,特殊身分への給田がある。官吏には北魏のとき地方官へ公田を給し,東魏,北斉では京官へも公田を給したが,隋では職分田,公廨田(こうかいでん),官人永業田が整備され,唐に伝えられた。土地の還授がどの程度実行されたか問題であるが,唐代のトゥルファンで実施されたことは明らかである。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
唐(とう)Tang 618〜907 中国の統一王朝。隋末の乱に突厥(とっけつ)防衛のため山西太原にいた唐国公李淵(りえん)(高祖)は,長安を占領して煬帝(ようだい)の孫の恭帝を立て,煬帝が江都(揚州)で殺されると,禅譲によって即位した。その創業を助けた次子李世民(りせいみん)(太宗)は,皇太子建成(けんせい),弟元吉(げんきつ)を殺してあとを継ぎ,628年全国を統一し,均田制,租庸調,府兵制に基礎を置く律令政治を整え,唐朝支配の基礎を固めた。また太宗とその子高宗は,突厥,鉄勒(てつろく),西域諸国,百済,高句麗などを討って領土を広めた。しかし高宗の末頃より均田制の動揺がみえ,皇后の則天武后は中小官僚,新興地主の支持で政権を奪い,一時周朝(武周)を建てた。武后死後復位した中宗の皇后韋后(いこう)も夫を殺して政権を握ろうとしたが,のちの玄宗がクーデタを起こして父の睿宗(えいそう)を位につけ,ついでみずから即位した。玄宗は均田制を立て直し,大運河によって江南の新財源を求め,辺境に節度使を置いて国力を充実し,文化史上でも詩人の李白(りはく),杜甫(とほ),絵の呉道玄,李思訓(りしくん),王維(おうい),書の顔真卿(がんしんけい)らを輩出した。しかし末年に安史の乱が起こって繁栄は終わり,節度使が内地にも置かれて民政を兼ね,しばしば反乱を起こした。また均田制の崩壊も決定的となって,塩専売や茶税,両税法がしかれた。これらの財政措置の結果,一時憲宗期の中興があり,白居易(はくきょい)の詩や韓愈(かんゆ),柳宗元の古文復興もこの頃行われたが,以後中央では宦官(かんがん)の専権や官僚の党争が続いた。地方では,農民の没落が進んで黄巣(こうそう)の乱を起こし,乱軍からいったん投降した朱全忠(しゅぜんちゅう)が昭宗,哀帝を擁し,禅譲の形式で国を奪い,後梁(こうりょう)王朝を建て,唐は20代約300年で滅んだ。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
李淵(りえん)Li Yuan 565〜635(在位618〜626) 唐の初代皇帝。廟号は高祖。隴西(ろうせい)(甘粛省)の李氏の出と称するが,胡族出身という説もある。隋の太原留守(長官代理)となり,隋末の乱に次子李世民(太宗)のすすめで挙兵し,長安を陥れ唐朝を建てた。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
太宗〔唐〕(たいそう)Taizong 598〜649(在位626〜649) 唐の第2代皇帝。姓名は李世民(りせいみん)。高祖(李淵(りえん))の第2子。隋末の乱に父にすすめて挙兵し,父の即位後尚書令,中書令を兼ねた。またその功をねたんだ皇太子建成(けんせい),弟元吉(げんきつ)を殺し,父の譲位を受けた。ついで天下の統一を完成し,突厥(とっけつ),西域諸国などを征服し,律令政治を整備し,唐朝の基礎を定めた。房玄齢(ぼうげんれい),杜如晦(とじょかい),李靖(りせい),李勣(りせき)らの名臣,名将を用い,その治世は貞観(じょうがん)の治と呼ばれる。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
則天武后(そくてんぶこう)Zetianwuhou 624/628〜705(在位690〜705) 唐の高宗の皇后で,一時天下を奪った女傑。初め太宗の後宮にあり,太宗死後尼となっていたのを高宗に召され,皇后王氏を失脚させて655年皇后となり,反対派を除き,高宗が病むと独裁権力を握った。683年高宗死後子の中宗,睿宗(えいそう)を廃立し,李敬業(りけいぎょう)の反乱があってから,密告政治によって反対派の弾圧を強化し,690年国号を周(690〜705,通称武周)と称して即位した。武后の革命は唐初の大貴族に不満だった中小官僚,新興地主の支持で成功し,新興階級の政治への登場を促した。また仏教を保護し,多くの著述を行った。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
募兵制(ぼへいせい)唐代後期,均田制の崩壊に伴い兵農一致による徴兵が困難になった府兵制に代わって新たに採用された傭兵制度。723年,府兵の首都への警備も弱体化したため,傭兵を募集した。749年,府兵制を維持する官庁である折衝府の廃止に伴い,府兵制は全面的に廃止され,この制度に切り替えられた。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
楊貴妃(ようきひ)Yang Guifei 719〜756 唐の玄宗の皇后。蒲州(ほしゅう)永楽(山東省ぜい城(じょう)県)の人。初め玄宗の皇子寿王瑁(まい)の妃であったが,晩年の玄宗に見出され,いったん女道士とされたのち,744年宮中に入り,翌年貴妃(女官の位)となった。玄宗の寵愛を一身に受け,3人の姉は韓国,_(かく)国,秦国の夫人,一族の楊国忠(ようこくちゅう)は宰相となり,盛唐宮廷の栄華と退廃の中心となった。安史の乱で逃亡の途中,長安の西の馬嵬(ばかい)駅で楊国忠とともに殺された。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)