2020年の新年、香港は大規模なデモで幕を開けました。自由と民主主義をめぐる大きなうねりは、日本の私たちにとっても対岸の火事ではありません。

今まさに世界の覇権を握ろうとしている中国とはどんな国か、一国二制度とはどんな仕組みか、そもそも自由とは何なのか。香港発のニュースを私たち自身の社会を考える糧とするため、本特集では「そもそも」を整理していきます。

特集のプロローグでは、150年にわたり別々の道を歩いてきた中国と香港の歴史を、年表に整理してくらべます。



ビジュアル年表

関連用語

清(しん)

Qing 1616〜1912 中国の最後の王朝。満洲人が支配し,12代297年続いた。第1代の太祖ヌルハチは,南満洲の建州女直(じょちょく)の出身で,満洲族を統一し,1616年即位して後金(こうきん)国と号した。ついで明軍を破り,瀋陽(しんよう)を都としたが,その子太宗ホンタイジは朝鮮,内モンゴルを従え,36年国号を清と改めた。次に順治帝が即位すると,44年たまたま明が李自成(りじせい)の内乱で滅んだのに乗じて,中国内地に進出し,北京に遷都した。これより清は中国王朝となり,明の残存勢力や三藩(さんぱん)の乱,台湾の鄭氏(ていし)を平定した。当時は康熙(こうき)帝の時代で,その後,雍正(ようせい)帝をへて乾隆(けんりゅう)帝の末年の18世紀末まで100余年間,康熙・乾隆時代と呼ばれる全盛期を現出した。この期間に清の領土は東アジアの大半に及び,内治は充実し,人口は増加し,商工業は繁栄した。学問の奨励とともに大編纂事業が行われ,考証学が発達した。清は満洲人に対しては初めから八旗制度で統制したが,中国支配においては中国の伝統文化を尊重し,明の制度をだいたい継承し,漢人を登用した。しかし文字の獄や禁書が行われ,政治批判を厳禁した。18世紀末になると清は衰え始め,白蓮(びゃくれん)教徒の乱など反乱がしばしば起こり,19世紀半ばに太平天国の乱が発生した。一方その頃から欧米列強の外圧が加わり,アヘン戦争,アロー戦争が起こり,ロシアに黒竜江地方を奪われた。その後,同治中興(どうちちゅうこう)となり洋務運動が起こったが,19世紀末,日清戦争で敗北すると,列強の帝国主義勢力が侵入し,義和団事件が発生し,8カ国の連合軍が北京を占領した。その頃光緒帝,康有為(こうゆうい)らにより行われた変法運動が,西太后(せいたいこう)らの反対で失敗した(戊戌(ぼじゅつ)の政変)が,他方孫文らの革命運動が盛んとなり,1912年宣統帝が退位して清は滅んだ。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

香港(ホンコン)

Xianggang/Hong Kong 中国南部の広東省と地続きの九竜半島と香港島および周辺の島々からなる地域。150余年にわたりイギリス領植民地となっていたが,1997年に中国に返還されて中国の特別行政区となった。イギリスは,南京条約(1842年)と北京条約(1860年)で清朝政府に香港島と九竜半島の先端部を割譲させ,さらに1898年新界と呼ばれる九竜半島のつけ根の部分と周辺の島々を99年間租借することによって香港を植民地とした。香港は,まず中国の産品を東南アジアや欧米に,また欧米の工業製品と東南アジアの産品を中国に再輸出する中継貿易港として発展した。第二次世界大戦中,一時日本の占領下に置かれたが,戦後は,工業化を進めて海外から原材料を買い,加工した香港製品を輸出する加工貿易港に転じた。また1970年代には国際金融センターとして発展した。香港が植民地にもかかわらず,このように発展することができたのはイギリス型の自由貿易や自由放任主義的な経済運営が行われたからだとみられている。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく)

中華人民共和国は,1949年10月1日に建国が宣言された。中国共産党が45年8月の日中戦争終結後に本格化した全国政権をめぐる国民党との内戦に勝利して,中華民国に代わって建国された。建国準備段階では,「中華人民共和国」だけでなく,「中華人民民主共和国」や「中華人民民主国」が国名として提案されるとともに,国名の略称として国民党が政権を担ってきた「中華民国」を使用してもよいとの意見もあった。しかし,新中国が「労働者階級が指導し,労農同盟を基礎とする」国家であり,その政治体制である「人民民主独裁」を代行する共産党の指導を徹底するために,「中華人民共和国」が正式に採用され,「中華民国」の使用が禁止された。中華人民共和国は建国以来,一貫して中国共産党が唯一の政権党として統治している。共産党は一方で1840年のアヘン戦争以来の近代中国がめざしてきた失地回復の愛国主義を実現する新中国の国家建設を目標とするとともに,他方で過去の革命遺産の保持と共産主義社会の実現を目標に掲げ,中華人民共和国は両者の間で動揺し続けてきた。1966年から76年の文化大革命は,まさにこうした動揺の象徴であり,今では「悲惨な内乱」と否定されるのである。78年以来,中華人民共和国は革命から「現代化」建設への劇的な路線転換を図り,経済発展を「一つの中心」として最重要課題にし,そのために改革・開放政策を実施してきた。従来の統制・計画経済を「硬直した社会主義」と否定し,共産党指導の堅持を除けば,資本主義そのものといってよい「社会主義市場経済体制」の全面確立をめざしている。その延長線上で,2050年前後の「中華民族の偉大な復興」の実現が繰り返し語られるのである。「中華人民共和国」はその意味では,国民党の創始者である孫文が1912年に建国した「中華民国」の継承国家であるといってよい。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

アヘン戦争(アヘンせんそう)

清末,イギリスのアヘン密輸に端を発した,イギリスの中国に対する最初の侵略戦争。17世紀末に外国貿易が開始されて以来,茶,生糸(きいと)などの輸出によって中国へは多額の銀が流入し続けた。この銀の流入が中国の経済繁栄を支える一要因になっていたが,18世紀末頃からインド産アヘンの輸入が盛んになるにしたがって,銀の流入が減少した。1830年代以後は毎年大量の銀が中国から流出したから,国内経済は深刻な不況に陥り,国家財政も危機に瀕した。清朝は1796年にアヘンの輸入および吸飲を禁止して以来,頻繁に禁令を繰り返したが,広東の地方官や,軍隊の保護または黙認のもとに密輸は半ば公然と行われていた。そこで清朝は,実行力に富み熱心な禁煙論者であった林則徐(りんそくじょ)を起用して欽差(きんさ)大臣に任じ,広東に派遣してアヘン密輸の取締りを命じた。林は1839年3月,イギリス領事および英米のアヘン商人を商館に監禁して,所有アヘンの引渡しを強要し,2万余箱を没収して廃棄し,アヘン厳禁の方針を明示した。この処置を不当としたイギリスは,この機会に中国との間の外交貿易上の懸案を一挙に解決すべく,翌40年遠征軍を派遣した。イギリス全権エリオットは天津に迫って清朝に要求をつきつけたのち,広東で交渉を行い,ついに武力行使にまで至ったが,結局条約の締結に失敗して帰国した。後任の全権ヘンリ・ポティンジャーは,41年7月から厦門(アモイ),舟山(しゅうざん),寧波(ニンポー)を占領し,翌42年に乍浦(チャップー),上海,鎮江(ちんこう)を攻め落として南京に迫ったので,清朝はついに屈服し8月29日南京条約に調印した。この条約によって,外交関係の改善,開港場の追加,アヘン賠償金の支払いなどに関するイギリスの要求は全面的に承認された。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

南京条約(ナンキンじょうやく)

江寧(こうねい)条約ともいう。アヘン戦争の結果,イギリスと清国との間で締結された修好通商条約。1842年8月29日,南京でイギリス全権ポティンジャーと,清国全権耆英(きえい),伊里布(イリフ)によって調印された。この条約で清国は広州,福州,厦門(アモイ),寧波(ニンポー),上海の五つの港の開港,香港の割譲,1839年に林則徐(りんそくじょ)が没収したアヘンの原価600万両の補償,特許商人(公行(こうこう))制度の廃止,イギリス側の軍事費1200万両の賠償,両国の国交は対等を原則とすることなどを認めた。43年6月,本条約が批准されると,これにもとづいて五口(港)通商章程(6月26日調印),虎門寨(こもんさい)追加条約(10月8日調印)が追加され,領事裁判権,最恵国待遇条款・関税・通過税に関する協定など,清国に不利な条項が一層明確に規定され,清国と列国との不平等条約の発端になった。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

アロー戦争(アローせんそう)

清末1856〜60年にわたるイギリス,フランスの中国に対する侵略戦争。南京条約によって清英間の外交・貿易関係は大いに拡大され,イギリスの貿易額は飛躍的な増加を示したが,中国への輸出が激増したのはもっぱらアヘンであって,工業製品の輸出はイギリスの期待に反してふるわなかった。この不振を改善するために,イギリスは北方および長江流域の開放に期待をかけた。また外交方式についても,北京政府と直接交渉する方式を確立する必要が痛感された。そこでアメリカと清国が結んだ望厦(ぼうか)条約の「12年後に条約を改定しうる」という規定を援用し,米仏と協同して1854年に清国に条約改定を提案した。だが,咸豊(かんぽう)帝の即位以来,排外政策を強化していた清国はこれに応じようとしなかったので,イギリスは目的達成のためには武力行使もやむなしとする意見がしだいに有力になった。56年10月,アロー号事件が起こると,イギリスはこれを好機として清国の非を鳴らし,たちまち広州攻撃を強行し,さらに米仏と協同して清国に条約改定を迫ったが,拒絶された。そこでイギリスとフランス(56年2月,広西においてフランス人宣教師シャプドレーヌが,清国官憲に殺害された事件を開戦の口実にした)は協同して遠征軍を送り,58年1月に広州を占領した。北上して5月に大沽(タークー)から天津に進撃したので,清朝は天津条約を結び,外国公使の北京駐在,長江の開放,開港場の追加,内地旅行の自由,キリスト教の信仰および布教の自由などを認めて講和した。アメリカは戦争には参加しなかったが,英仏と同様の条約を結んだ。だが,清国政府内部にはこの条約に反対する意見が強く,59年2月,天津条約の批准交換のため入京しようとした英仏全権の艦隊を大沽で撃退した。そのため英仏両国は翌年再び遠征軍を送り,天津,北京を占領して清朝を屈服させ,10月北京条約を結び,天津条約の批准交換を完了した。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

辛亥革命(しんがいかくめい)

清朝を倒し,中華民国を樹立した共和主義革命。1911年(辛亥)10月10日の武昌蜂起が発端になったので辛亥革命という。日清戦争,義和団事件による外国の侵略と,内乱によって動揺した支配体制を再建するため,清朝はみずから新政運動を起こし,立憲君主制の採用をはじめとする諸制度の改革に着手した。09年には地方議会(諮議局(しぎきょく))を設置し,翌年には国会(資政院)を開設した。これまで地方で新政運動を推進してきた郷紳(きょうしん)層や民族資本家などを中心とする立憲派は,諮議局によって勢力を結集し,清朝に対抗する傾向を強めた。また孫文,黄興(こうこう)などの革命派は,新軍や会党に対する工作を進めていた。清朝が外国から借款を得るために,11年5月川漢(せんかん),粤漢(えつかん)両鉄道の建設を外国借款団に委ねると,湖南,湖北,広東,四川で,これに対する反対運動が起こった。四川の暴動についで,武昌で革命派が蜂起し,新軍の旅団長黎元洪(れいげんこう)を擁して独立した。これに呼応して各省の革命派が蜂起し,1カ月のうちにほとんどの省が独立した。各省代表は南京に集まり,12年1月,孫文を臨時大総統に臨時政府をつくり,中華民国を成立させた。清朝は袁世凱(えんせいがい)を起用して革命の弾圧を図ったが,袁世凱は革命政府と通じて清帝を退位させ(2月12日),孫文に代わって中華民国大総統に就任した。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

中国共産党(ちゅうごくきょうさんとう)

中国の政党。1921年7月に上海で結成。24年1月,党員が個人的に国民党に加入する方式で第1次国共合作を実現。27年蒋介石(しょうかいせき)の反共クーデタによる合作分裂後,南昌暴動・秋収蜂起などの武装蜂起に失敗,農村根拠地建設に方向を転じた。35年1月の遵義(じゅんぎ)会議以降,毛沢東(もうたくとう)が党の指導権を掌握。日中戦争期には一致抗日の第2次国共合作を推進。延安整風運動をへて,45年第7回代表大会において,毛沢東思想が指導的地位を確立した。第2次大戦後,土地革命を展開し,国民党政府を台湾に駆逐し,49年中華人民共和国を設立。その後三反五反運動・反右派闘争・文化大革命などの政治運動を展開,78年以降経済建設に政策の中心を移している。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

中国国民党(ちゅうごくこくみんとう)

1919年孫文の指導下に中華革命党を改組,改称してできた政党。五・四運動以後国民党は新三民主義を提唱し,中国共産党,ソ連,コミンテルンに接近していった。24年国共合作が成立した。孫文が死去したのち,汪兆銘(おうちょうめい)らが党の指導にあたったが,やがて蒋介石(しょうかいせき)と共産党との対立が激化した。27年には武漢と南京に二つの対立する国民政府ができ,国共合作は崩壊した。党内で指導権を獲得した蒋介石は28年北伐を完成,軍閥支配を終わらせ,ひとまず全国を統一して国民政府を樹立した。31年満洲事変が勃発すると,国民党は日本に対して「一面抵抗,一面交渉」の態度で臨むとともに,「安内攘外」政策によって共産党を弾圧した。しかし,抗日の気運が高まるなかで36年西安事件が勃発,37年の盧溝橋(ろこうきょう)事件をとおして国民党は再度共産党と合作した。国民党は戦争初期において日本軍と戦いつつも,やがて共産党弾圧を強化した。日本と協力した汪兆銘の南京政府を斥けて45年抗日戦争に勝利したものの,以後国民党は共産党との内戦に敗れ,49年台湾へ撤退した。台湾で蒋介石は一党独裁を確立したが,80年代末より蒋経国(しょうけいこく),李登輝(りとうき)の時代に,国民党・台湾の政治が民主化されることになった。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

辛亥革命(しんがいかくめい)

清朝を倒し,中華民国を樹立した共和主義革命。1911年(辛亥)10月10日の武昌蜂起が発端になったので辛亥革命という。日清戦争,義和団事件による外国の侵略と,内乱によって動揺した支配体制を再建するため,清朝はみずから新政運動を起こし,立憲君主制の採用をはじめとする諸制度の改革に着手した。09年には地方議会(諮議局(しぎきょく))を設置し,翌年には国会(資政院)を開設した。これまで地方で新政運動を推進してきた郷紳(きょうしん)層や民族資本家などを中心とする立憲派は,諮議局によって勢力を結集し,清朝に対抗する傾向を強めた。また孫文,黄興(こうこう)などの革命派は,新軍や会党に対する工作を進めていた。清朝が外国から借款を得るために,11年5月川漢(せんかん),粤漢(えつかん)両鉄道の建設を外国借款団に委ねると,湖南,湖北,広東,四川で,これに対する反対運動が起こった。四川の暴動についで,武昌で革命派が蜂起し,新軍の旅団長黎元洪(れいげんこう)を擁して独立した。これに呼応して各省の革命派が蜂起し,1カ月のうちにほとんどの省が独立した。各省代表は南京に集まり,12年1月,孫文を臨時大総統に臨時政府をつくり,中華民国を成立させた。清朝は袁世凱(えんせいがい)を起用して革命の弾圧を図ったが,袁世凱は革命政府と通じて清帝を退位させ(2月12日),孫文に代わって中華民国大総統に就任した。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

中華民国(ちゅうかみんこく)

辛亥(しんがい)革命後の1912年から49年まで中国大陸に存在した国名。民国の歴史は,北洋軍閥支配時代と国民党時代に区分できる。北伐軍は国共合作などにより,28年末までにほぼ全国を統一。主席・陸海空軍総司令に就任した蒋介石(しょうかいせき)は31年5月に国民党による一党独裁制を定めた。数度の危機にみまわれたが,蒋の国民政府は道路建設,ドイツ人軍事顧問による軍の近代化,幣制改革・関税改革・紡績業育成に成功した。しかしこの蓄積は日中戦争によって壊滅的な打撃をうけた。第2次大戦後,中国共産党は蒋政権との内戦に勝利,49年中華人民共和国を樹立。蒋らは台湾に拠り,ひき続き中華民国を称した。日本とは1972年の中華人民共和国との国交正常化により,国交は断絶したが,民間レベルでは交流がある。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)

日中戦争(にっちゅうせんそう)

1937年7月の盧溝橋(ろこうきょう)事件から45年8月の日本の敗戦まで,日中間で戦われた戦争。中国では中日戦争,抗日戦争などという。日本ではかつて戦争当初を北支事変,上海事変以後を支那事変と称し,41年12月以後は大東亜戦争の一部としていた。戦争として規定していないが,日中戦争と呼ぶのが適当であろう。満洲事変以来の日本の対中侵略はしだいに中国人の抵抗を強め,盧溝橋事件を引き起こした。日本軍は華北から兵火を華中,華南へと拡大したが,国民政府を屈服させることができなかった。その間,共産党軍は国民党軍の放棄した地域に進出していった。38年武漢作戦から太平洋戦争が始まるまでは,戦局はほとんど膠着し,長期化の様相を示した。共産党は解放区を確立,拡大していき,国民党は対日作戦より共産党対策を重視し,しばしば共産党軍との武力衝突を起こした。一方,国民党の一部は日本側に降って南京政府を樹立した。太平洋戦争勃発後,情勢は著しく変化した。一時苦境に陥った共産党は延安整風運動によって強化され,国共関係は好転のきざしがなかった。しかし,日本軍の占領地の経済,政治は混乱し,連合国の中国大陸利用作戦も進んだ。日本は大陸打通(だつう)作戦を行って戦局の挽回を図ったがついに成功せず,敗戦を迎えることとなった。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

プロレタリア文化大革命(プロレタリアぶんかだいかくめい)

1966年から76年までに中国で展開された政治権力闘争。文革はその略称。大躍進運動の挫折後に,劉少奇(りゅうしょうき)らの実務型指導者は主導権を持ち,政策の調整を断行したが,毛沢東はそれを「修正主義」「資本主義の復活」と受けとめ,66年5月に文化大革命を発動し,実権派から政治権力を奪い,政治の流れを社会主義の道へ取り戻そうとした。69年の9全大会までは文革の第1段階で,毛沢東は江青(こうせい)夫人らの左派グループと林彪(りんぴょう)らの軍人グループを支持基盤とし,大衆を動員して中央と地方の実権派を失脚させた。9全大会から71年までは文革の第2段階で,毛沢東は林彪グループの台頭と権力への野心に対し,警戒心を強め,牽制と反撃に出た。林彪は71年9月に毛沢東の暗殺を試みたが,失敗した。林彪はソ連への亡命途中に飛行機の墜落で命を落とし,側近たちが粛清された。その後,76年9月までが文革の第3段階で,毛沢東は林彪事件後,古参指導者の部分的な復活を認めた。しかし,政治路線や権力の主導権をめぐって,古参指導者と「四人組」との政治対立が繰り広げられた。76年9月,毛沢東が死去。党中央副主席の華国鋒(かこくほう)と葉剣英らの軍指導者は協力し,「四人組」を逮捕し,文革を終結させた。80年,党中央は歴史決議を採択し,長期にわたって中国社会に混乱をもたらし,国家建設を挫折させ,人民に損害を与えたものとして,文革路線を徹底的に否定する方針を打ち出した。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)

天安門事件(てんあんもんじけん)

中国,北京の天安門広場で起こった事件で,厳密にいえば,第1次と第2次がある。・〔第1次〕1976年4月,死去した周恩来(しゅうおんらい)首相の追悼のため天安門広場に集まった民衆の行動が抑えられ,人民を扇動したとして_小平(とうしょうへい)副首相が職務を解任された事件(別称四・五運動)。・〔第2次〕1989年6月4日民主化運動に結集した天安門広場の学生たちを戒厳軍が弾圧し,趙紫陽(ちょうしよう)党総書記が運動への甘い対応から解任された事件(別称六・四事件)。この事件は,87年に学生の民主化要求に寛容な姿勢を示して解任された胡耀邦(こようほう)元党総書記が89年4月に死去し,彼の名誉回復を求める学生のデモが契機となった。その後学生たちはハンストを含む過激な行動で当局に民主化を迫ったが,5月20日に北京の一部が戒厳令下に置かれ,6月4日に軍が広場に留まった学生を排除する際に流血の衝突が起こった。現在でもなお,6月4日未明に広場で何が起こったのか,死傷者は最終的に何人にのぼるのかなど,真相に不明な点が多い。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)