押収覚醒剤(写真提供=瀬戸晴海氏)

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 国連の推計によれば全世界における麻薬の不正取引額は、実に50兆円――。薬物産業はすでに世界規模の「ビジネス」として確立され、日毎に拡大し続けているのが実情だ。それに伴い薬物犯罪も国際化、シンジケート化し、手口は巧妙・複雑化している。約40年の長きに亘り、薬物犯罪と対峙し続けてきた瀬戸晴海・元厚生労働省麻薬取締部部長が、知られざる「薬物捜査」の最前線を明かす。(以下、『マトリ』より抜粋、引用)

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 その日、二十数人の捜査員が待ち構える福岡県内の工場に運び込まれたのは、車体を黄色く塗装された大型の重機だった。目を引くのは、普通乗用車の2倍はあろうかという後輪タイヤ。そして、前輪部分にはめ込まれた巨大な鉄製のローラーである。捜査員達が視線を送るこの重機は、道路の舗装に用いられる「ロードローラー」だ。

押収覚醒剤(写真提供=瀬戸晴海氏)

 ここに至るまでの捜査期間は優に1年を超え、投入された捜査員は延べ1500人に上る。捜査の総括指揮を執ったのは、当時、九州厚生局麻薬取締部部長だった私である。国際的な密輸組織を相手に、麻薬取締部が総力を挙げて挑んだ捜査が実を結ぶか――。すべてはこの重機の捜索に懸かっていた。

 海外旅行客が土産物の菓子や置物のなかに違法薬物を詰め込む。または、スーツケースやトランクを二重底にして忍ばせる。そんな密輸の手口を耳にしたことのある読者は少なくなかろう。だが、この「事件」で密輸のカモフラージュに用いられたのは、総重量10トン近い、頑強なロードローラーそのもの。この重機のなかに、大量の覚醒剤が隠匿されているというのである。

実際に密輸に用いられたロードローラー(写真提供=瀬戸晴海氏)

 我々は、オランダで商船に荷積みされた重機が、博多港で水揚げされるまでの輸送プロセスを、完全に捕捉していた。また、厚い鉄板で覆われたローラーの内部に薬物が隠匿されている可能性が高いとの情報も得ていた。

 だが、ローラーの表面を丹念に確認した捜査員の表情は冴えない。

「ありませんね。少なくとも、外からは全く分からない……」

 ローラー内部に隠しているとすれば、当然ながら薬物を挿入するための「穴」が必要なはずだ。しかし、ローラーの表面には、無理やり穴を空けたような形跡は見当たらなかった。

「俺たちは、猟犬だ!」本邦初! 元麻薬取締部部長がすべてを明かす。 『マトリ―厚労省麻薬取締官―』瀬戸晴海[著]新潮社

 無論、この程度の事態が想定できなかったわけではない。すぐさまローラーだけを重機本体から取り外し、あらかじめ呼び寄せていた作業員にローラー表面の一部を切除してもらうことになった。

 電動カッターが厚さ24ミリの鉄板に接するや、激しく火の粉が飛び散る。作業員がローラー表面に正方形の穴を空けるまでには4時間を要した。その間、捜査員たちは固唾を呑んで作業を見守り続けた。

 捜査の過程でどれほど精度の高い情報を得ていようと、また、捜査対象がこちらの思惑通りに動いてくれようと、実際に「ブツ」を見るまで決して油断はできない。「マトリ」であれば、誰もがそのことを骨身に沁みて理解している。

 まもなく、作業員が正方形に焼き切った鉄板をバールで剥がした。それに合わせて捜査員がローラー内部の空洞に、幾筋もの懐中電灯の光を差し込む。次の瞬間、暗闇のなかに無数の白い塊が浮かび上がった。透明なビニール袋に小分けされ、山積みとなっていたのは、紛れもなく大量の覚醒剤だった。

「おぉ!」

「すごい……」

 現場は色めき立った。長期に亘る捜査が報われたことへの安堵に加え、続々と運び出されるあまりにも大量の覚醒剤に、ベテラン捜査員でさえも驚きを隠せなかった。

 2012年12月8日、我々がロードローラー内部から発見し、押収したのは220袋、実に108キロに及ぶ覚醒剤である。

 この年に全国の捜査機関が空港や港湾で押収した覚醒剤の総量は約467キロなので、その4分の1近い量を一度に押さえたことになる。末端価格は87億円を下らない。この密輸を水際で阻止できなければ、大量の覚醒剤が日本中にばら撒かれ、暴力団の私腹を肥やしたことになる。(中略)

「マトリ」の実態とは

 読者のなかにも「麻薬取締部」という名称を耳にされたことのある方は少なくないはずだ。とはいえ、麻薬取締部がどのような組織なのか、その実態について知る人は稀だと思う。

 一般に、犯罪捜査を担う組織として真っ先に思い浮かぶのは「警察」であろう。だが、麻薬取締部は警察組織に属しているわけではない。所管官庁は、警察庁ではなく厚生労働省である。麻薬取締部、正式名称「厚生労働省地方厚生局麻薬取締部」は、麻薬等薬物の取締り(ここで言う取締りとは、捜査・行政の両方を含む)に特化した組織なのだ。

 ハリウッド映画にも度々登場する米国の麻薬取締局=DEA(Drug Enforcement Administration)をご存知だろうか。映画「レオン」でジャン・レノ演じる殺し屋の主人公と敵対するのは、DEA捜査官役のゲイリー・オールドマンだ。また、アカデミー賞4部門を制覇した「トラフィック」にも、重要な役割でDEA捜査官が登場する。規模や権限、また、活動のフィールドは全く比較にならないが、DEAの日本版が麻薬取締部と理解して頂ければいい。事実、私も短期間ではあるが、アメリカ国防総省の向かい側に位置するDEA本部や、米軍クアンティコ海兵隊基地に設けられたDEAの訓練施設「アカデミー」で学んだ経験がある。

 日本における麻薬取締部は、札幌・仙台・東京・名古屋・大阪・広島・高松・福岡の8カ所に所在する。さらに、沖縄(那覇)に支所を、横浜・神戸・小倉に分室を置いている。

 そこで任務に従事するのが「麻薬取締官」である。麻薬取締官は「麻薬捜査官」と「麻薬行政官」という二つの顔をもった「麻薬等薬物取締りの専門家」だ。巷では「麻薬Gメン」「マトリ」と呼ばれ、各麻薬取締部に配属されている。(中略)

 麻薬取締部は「小さな組織」であり、その総員は概ね300名。他の捜査機関とは比べ物にならないほど小規模である。それどころか、「300名」は小さな警察署の署員数と大差ない。おそらく世界で最も小さな捜査機関であろう。それでも、麻薬取締官は日夜、全国津々浦々に鋭い観察眼を光らせている。

 加えて、今後の薬物捜査は絶対に「世界」を知らなければならない。違法薬物は世界共通の敵。海外機関が主催する捜査専科研修にも参加させ、スキルの向上と人脈の構築を進めさせている。というのも、世界の麻薬(ここでは規制薬物全般のことを指す)市場が拡大の一途を辿り、同時に、密売組織のシンジケート化が急速に進んでいるからだ。

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瀬戸晴海(せとはるうみ)
元厚生労働省麻薬取締部部長。1956年、福岡県生まれ。明治薬科大学薬学部卒。80年に厚生省麻薬取締官事務所(当時)に採用。九州部長などを歴任し、2014年に関東信越厚生局麻薬取締部部長に就任。18年3月に退官。

デイリー新潮編集部

2020年2月14日 掲載