イラスト:もちぎ

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支配的な母との関係や、自身のセクシュアリティについて書いた著書が話題のもちぎさん。50万人を超えるTwitterのフォロワーたちが見守る、自分を生きなおすまでの道のりについて聞きました(構成=古川美穂)

【漫画】「お前なんて大嫌いじゃ…」と母に言われて

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当時は母に虐待されている感覚はなかった

母とふたりで暮らしていた田舎の小さな団地を飛び出してから、10年以上が経ちます。家を出たきっかけは、高校3年生のときに、僕がゲイであること、そして売春をしているのが母にバレたこと。

「あんた、男に体売ってるやろ……。くそホモ! 恥さらし! 出て行け!」と罵詈雑言の限りを尽くされましたが、「なぜそんなことをしたのか」と聞かれることは一度もなかった。子どもの過ちを叱る“親”ではなく、徹底的に“自分”であり続け、感情をぶつけるだけなのだな、と冷静な気持ちになったことを覚えています。

話しても理解してもらえることはないだろうと思い、バイトや売春で貯めたお金、通帳と印鑑、携帯電話だけを持って、高校の卒業式を目前にゲイタウンがある東京へ原付バイクを走らせたのでした。

母は、僕が物心ついたころには、たまにパートに出るだけの、ご飯もろくに作ってくれない、ゲームセンターに通ってばかりいる人でした。11歳年の離れた姉から聞いた話では、僕が6歳のときに父が自殺してから経済的な不安を抱えるようになり、人が変わってしまったそうです。家計は生活保護に加え、姉が高校に通いながら週6のバイトをして支えてくれていました。

暴力こそなかったものの、僕はいつも母から怒られていました。今振り返ると、ずいぶん理不尽な怒られ方をされていたと思います。母のジュースを飲んだからとゴミ袋に入れられたり、化粧をする場所だからダイニングテーブルで食事をするなと言われたり、「タッキー(滝沢秀明さん)みたいな息子がよかったのに、あんたなんて産みたくなかった」と言われたり──。また、僕の些細な一言で怒り出し、突然包丁を突きつけられたこともあります。あのときはさすがに血の気が引きました。

不思議に思うかもしれませんが、当時は虐待されているという感覚はなく、親子喧嘩の延長のように思っていたのです。経済的なことや母との不和を除けば、姉は優しかったし、友達や学校の先生にも恵まれたことが心の支えになっていたから。特に中学時代の恩師は僕にきちんと向きあってくれて、この先生に出会っていなければ今の僕はなかったと思うほどです。

あとは、単純に親から逃げる方法がわからなかった。今みたいにインターネットが盛んではなかったから、情報もなかったですしね。それに母から、「不細工」だのなんだのとけなされてばかりいて自己肯定感が低かったこともあり、大人である母の言うことのほうが正しいと信じてしまっていたのだと思います。

「この町に僕しかいないんだろうな」

自分のセクシュアリティがゲイであることをはっきりと意識したのは、中学校の男性教師を好きになった14歳のとき。男性が好きだということには小さいころから気づいていたのですが、周りにゲイがいない環境だったので、それまで具体的に意識したことはありませんでした。

「たぶん男が好きな男なんて、この町に僕しかいないんだろうな」というような孤独感は常にありましたが、たまたま町も学校も風通しがよかったため、カミングアウトはしなかったものの、セクシュアリティを悲観することもなく過ごしていたのです。

当時の僕の頭を悩ませていたのは、お金のことでした。母は高校在学中に姉を身ごもったため、中卒となり学歴コンプレックスが強かった。そんな母に「中学を卒業したら働いて、家計を支えろ」と言われていたのです。

結局「お金は私が出すから高校に行け」と言ってくれた姉の後押しもあって進学することになったものの、「高校に行くなら、家にお金を入れるように」と母から提示された金額は、高校1年で月4万円、2年生からは5万円、夏休みには11万円でした。

僕が高校に入学したころ、姉はすでに町を出ていましたが、仕送りは続けてくれていました。僕も入学と同時にアルバイトを始めましたが、田舎の高校生のバイト代なんてたかが知れています。初の給料は3万円に満たない金額でしたが、当時の僕にとってはものすごく大金に思えて、好きな本が買えると胸を弾ませていたのです。

でも母は、僕から2万5000円を取ると、「来月からもうちょい、ちゃんと働き。高校を卒業したら、姉ちゃんみたいに仕送りするんやで。あんたは男やから、毎月13万くらい入れなあかんで。せんかったら親不孝や」と一言。

母ちゃんをいつまで支えなければならないのか、僕の自由は母ちゃんが亡くなるまで訪れないんだろうか。家を出て母から離れよう、そこから始めよう。いつか大学にも行ってみたい。そのためにはお金を貯めなければ、と焦燥感にかられたのを覚えています。

お金を貯めるために16歳で売春に踏みきって

稼ぐ手段として、なぜゲイの売春を選んだかというと、姉が置いていったマンガの、女子高生が男性に体を売って多額の現金を手にするというシーンを思い出したから、というだけで深い理由はありません。

初めての売春は16歳のとき。迷いはありましたが、18歳と年齢を偽り、バイトを終えた深夜に指定された隣町の駐車場に向かい、5000円で買われました。「お金のためや」と割り切っていましたが、毎日少しずつ心が死んでいくようで……。学校の勉強をすることで心の均衡を保っていたような気がします。

『あたいと他の愛』もちぎ・著(文藝春秋)

そんな日々を過ごしていたある日、お客さんから、東京にある新宿二丁目のゲイタウンについて教えてもらったことがありました。いつかそこに行きたい。子どもを買うような大人ではなく、ちゃんとしたゲイの人に会いたい。仲間に会いたい。そういう思いが募るようになりました。

また同じころ、別のお客さんから「毎月そんなに家にお金入れてたら残らへんし、普通、そんな家ないよ」と言われて。徐々に「あ、うちは普通やないんや」と気づくようにもなりました。

売春で稼いだお金は、姉が置いていった原付のシートの中に隠して貯めていたのですが、自分のものとして貯まっていくことがすごく嬉しかった。正直に言うと、30万円ぐらい貯まったときに、就職するために運転免許を取る費用にしようかと考えたこともありました。まだ心のどこかで、家を出ることに躊躇いがあったのだと思います。

だからあの日、ゲイであること、売春をしていることが母にバレたのは結果的によかった。高校卒業の直前で家を出ることになってしまったけれど、それがなかったら、今でもあの家にいたかもしれませんから。

家を出たことよりも言い返したことが革命だった

田舎を飛び出して東京に着くと、ゲイ風俗の店で働き始めました。仕事は大変でしたが、楽しいことのほうが多かった気がします。店にはいろいろな事情を持った人たちが集まっていたけれど、同じ秘密を共有している者特有の仲間意識があって。みんな何らかの形でここに居場所を求めている。一種の学校のような雰囲気がありました。

僕はもともとおせっかい焼きなので、同僚や後輩の相談にものったりして。実家にいたころと比べると、この世界に入って「自分として生きている」という実感がありました。お店では稼いだ額が数値化されるので、「自分でもこんなに稼げるんや」と、少しずつ自信を取り戻していくのを感じましたね。何よりも、ゲイである自分を隠さずにいられることが心地よかった。

そんな充実した生活を送るなかで、「人の役に立つ仕事がしたい。そのためにも大学に行きたい」という気持ちが頭をもたげてくるようになりました。働きながら死に物狂いで受験勉強をしていたら、わが家の事情を知っている店長から、「いつまでもお母さんのせいにするな。自分のためだけに大学を目指せ」と言われたんです。

「人の役に立つ仕事がしたい」と言いながら、どこかで、高校へ行くことさえ反対した母への意趣返しみたいな気持ちがあった。それを店長は見逃さなかったのだと思います。「母親の言葉に囚われている時点で、お前は親から抜け出せていない。マザコンはもうやめろ」と。本当にそのとおりでした。

マザコンは、「母親が好き」ということだけではない。母親に囚われていることも含むんです。距離が離れて、お金のつながりもなくなったけれど、母への恨みが心にある限りは抜け出せないということ。悔しくて号泣してしまいましたが、厳しくもありがたい指摘だったな、と思っています。

無事に大学に合格し、学生生活が始まったある日、母から電話がかかってきました。東京に出て2年目、それまで電話に出ることはなかったのですが、思い切って出てみたら、お金を無心する内容でした。思わず、「忘れたん? あたいゲイやで。あんたみたいなオンナ、大っ嫌いよ」と大げさなおネエ口調で言い返し、返事も聞かず電話を切りました。

今考えると、子どもっぽいやり方だったかもしれません。でも、自分の人生を歩き始めたことを示すには、これしかなかった。「もう引き返されへん」と覚悟ができたし、僕にとっては、家を出たことよりも、正面から母に言い返したことのほうが革命だった。それまでは、結局いつも僕が負けるという形でしたから。母親より自分自身を優先するには、一度は自分の意見をハッキリ伝えるということが必要だったんです。

イチかバチか、自分を縛っているものから距離を置く

今の日本って、失敗できない社会ですよね。進学や就職、結婚もそう。離婚も失敗として扱われます。でも、就職先や結婚生活が合わなかったら、現状を変えようと踏み出す勇気を持ってもいい。つらい状況に耐える現状維持だけでは、事態は悪くなるだけ。それを僕は身をもって知りました。

だからイチかバチか、自分を縛っているものから距離を置く。もしそれによって状況が一時的に悪くなるとしても、今後よくなる可能性があるのなら、そちらに賭けてみるのもありではないかと思うんです。

僕は今、東京を離れて地方で隠居生活を送っています。大学を卒業して一般企業に就職したのですが、ゲイであることを知られ、自主退職に追い込まれてしまいました。それからしばらくは自分を偽らずに済むゲイバーで働いていたのですが、大都市で稼がなければならない理由もなくなったので、その仕事もやめ、自分の経験をマンガや文章で発表して暮らしています。

ゲイ風俗で働いていた経験を、生活のため、大学に行くための手段だったということで終わらせたくなかったから。そしてやるからには、好奇の目で見られがちなゲイ風俗の世界を単に面白おかしく描くのではなく、自分自身のことも説得力を持たせて発信したかったのです。そのためには母の話に触れることは避けられませんでした。

東京に出てから「毒親」という言葉を知り、インターネットや本を読み漁ったこともあります。でも、母を「毒親」の一言で済ませてしまうのはやめよう、という結論に達しました。父が亡くなり、さまざまな苦労をしてきた母は、「完全な加害者」というわけではなかったのかな、と。

2月13日発売のもちぎさん3冊目の本『ゲイバーのもちぎさん』もちぎ・著(講談社)

母とのことは年月を経て自分の中では消化できていると思っていたのですが、いざ世に出すとなるとトラウマを呼び起こしてしまいそうで、すごく悩みました。でも、ずっと心に溜め込み続けているのもしんどい。

僕は「セクシュアリティは人生だ」と思っているんです。「ゲイとかになる子どもって、家庭に問題があるんだろう」と誤解されがちだけど、決してそうではない。だからこそ自分の人生について発表したかった。だから批判も覚悟で、思いきってSNSに投稿したところ、想像以上の反響がありまして。その投稿がまとまって、2冊の本を出版することもできました。

実は、「もちぎ」として過去のことを振り返る表現活動は、あと1年半ぐらいで一区切りつけるつもりです。その間に母と再会して対話しようと考えています。どんな結末になろうと、それはちゃんと作品という形で、皆さんにお伝えするつもりです。

家賃の安い田舎でゆっくりモノを考えたり、やりたいことを探したりしている日々ですが、現在は執筆活動ですっかり忙しくなりました。「もちぎ」の活動が一段落したら、地方のゲイタウンでバーを始めてみようかな、という小さな野心もある今日このごろです。