イラスト:クボ桂汰

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憧れはあったけどできなかった。腹は立っていたけど言えなかった。でも、もうこわいものなしの年齢だから、と一歩踏み出して見えた景色は……下枝さん(仮名)は定年退職を機に新しい世界に飛び込んでみたのだが(「読者体験手記」より)

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消極的な私が娘にも秘密のバイト

2年前の夏、私は北海道の旭川駅に降り立った。ひとり旅すらしたことのない私が、単独で飛行機に乗り、埼玉からここまで来るなんて。我ながら、ずいぶん無謀なことをしたものだと思う。

その4ヵ月前、私は長年勤めたスーパーのレジ業務を定年退職した。3人の娘たちはすでに結婚して家を出ている。これといった趣味もない私は、することのない毎日が続くうち、自分のこれまでの人生を振り返り、急に暗い気持ちになってしまった。

思えばすべてに消極的に生きてきたように思う。このまま何をするでもなく、人生の残り時間を過ごすのか。これまでに、自分から何かに挑戦したことがあっただろうか。こんな自分を変えたい。体は健康だ。今こそ、その時ではないか。

求人サイトに「北海道 住み込み 高齢者」と打ち込み、検索する。そうして目に留まった「ホテルA」に応募した。どうせ働くなら、いっそ、見知らぬ遠い土地に住み込んでしまおうと思ったのだ。幸いにも私は採用され、夫も、「まぁ、やってみればいいんじゃない?」と、思いのほか軽く賛成してくれた。

旭川駅からホテル最寄りの停留所までのバスは、すでに最終便が出た後で、タクシーに頼るしかない。しばらく乗ると、町を抜けて山間へ。北海道には旅行で何度か来たことがあり、憧れの気持ちがあってこの土地を選んだが、道はますます暗くなり、対向車にも会わない。寂しさから、引き返したくなってくる。

ふいに、スマホが鳴った。見ると、次女からだ。実は娘たちには住み込みで働くことを話していなかった。どうせ「無理だから、やめなよ」と反対されると思ったからだ。まさか、北海道にいることがばれたかと焦ったが、私の送った宅配便が届いたというお礼の電話で、ホッと胸をなでおろす。

「ホテルA」に到着した時には午後7時半をまわっていた。駅から1時間半ほどかかっただろうか。出迎えてくれた男性従業員から、事務的な説明を受け、「明朝は6時15分に事務所に来るように」と指示される。ひとり意気込んでここまで来たのに、あまりのそっけない対応に拍子抜けしてしまった。こんな温かみのない山奥のホテルに、本当に宿泊客などいるのだろうか。不安に思いながら、寮の部屋へ向かった。

慣れない環境からホームシックに

翌日は、仕事の時間が気になり早く目が覚めた。厨房の方たちに挨拶をし、指導役の従業員から指示を受ける。

私の主な仕事は、宿泊客の朝・夕食の準備、配膳、片付けなど。未経験の仕事なので、戸惑うことばかりだ。ほかの従業員は20代、30代の女性が中心で、みな声も態度も大きく、自信に満ち溢れている。あたふたしている私は「使えないオバサン」と思われていただろう。

そんななかで唯一の救いになったのは、一緒に働く同い年の林田さんという女性の存在だった。なんでも親切に教えてくれる。このようなところに住み込んで働いているのだから、何か事情を抱えているのかもしれない。お互い距離を保ちつつ、ほどよい関係が続いた。

午前の仕事が終わると、午後4時までは休憩時間になる。部屋で特にすることもない私の楽しみが、散歩だった。寮から10分ほど上り坂を歩いたところにロープウェイ乗り場があり、観光客でにぎわっている。山頂まで行けば、景色は申し分ない。湧き水で淹れたおいしいコーヒーを飲みながら、物思いにふける。

日を重ねるにつれ、仕事には慣れていった。一方で、この土地特有の寂しさにはいつまでも慣れない。バスの本数が圧倒的に少なく、帰りの時間を考えると、たまの休日でも外出は難しい。ちょっと歩けばコンビニやスーパーがある暮らしが当たり前だった私には、ここでの生活は思った以上に厳しいものだった。

そんな私の思いを、林田さんは聞いてくれた。子どもはいるが頼りたくないこと、だから元気なうちは働きたいこと。そんな思いが共通した。

私のホームシックは1ヵ月で限界に。もともと3ヵ月勤務の予定だったのだが、ちょうどこの頃、母が体調を崩したこともあり、私は埼玉へ帰ることにした。短期間ではあったが、仲間たちと別れる寂しさ、仕事を投げ出す情けなさなど、いろんな感情が混ざり合い、涙が出た。

家に戻ってから、実は北海道でバイトをしていた、と娘たちに話すと、とても心配され、怒られた。期間はひと月と短かったものの、この経験が私の可能性を広げてくれたのは確かだ。翌年の夏には、熱海でのリゾートバイトに挑戦。今度は2ヵ月の契約期間を全うできた。

いま、私は知人の紹介で寺の事務を手伝っている。御朱印を書くなど、こちらも初めて経験することばかりだが、充実した楽しい日々だ。一度は定年退職を経た身だが、体が自由に動くうちは、家でじっとしているより働きたい。そして、身ひとつで知らない土地に住み込み、知らない人たちと触れ合ったことで、今度はひとり旅に挑戦する勇気もわいてきたところだ。
 

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