アメリカ・アイオワ州の養豚場の子豚たち。写真はイメージ(写真:ロイター/アフロ)

「豚が空を飛ぶ」とは、西洋でいう”ありえないこと”の例えだが、今、日本で飼われて消費されている国産の豚は、空を飛んでやって来た。

それもアメリカから、ちょうど60年前に、日米新安保条約が調印された直後に送られた、35頭の種豚からはじまっている。

当時の報道によると、ホワイトハウスを訪れた岸信介首相が、現在の日米同盟の基軸となる新安保条約に調印したのは1960年、現地時間の1月19日午後2時54分、日本時間20日午前4時54分のことだった。

そのわずか2時間40分後の午前7時40分。巨大な両翼にプロペラエンジン4機を搭載したジュラルミンの米空軍輸送機C-130ハーキュリーズが羽田(東京国際空港)に降り立っている。

日米政府関係者、報道陣150人が早朝から到着を待ちわびる中、日米の国旗の下をくぐってようやく輸送機から姿をみせたのは、まるまると肥った豚だった。その豚たちに和服女性が、花束がわりに手にした大根と人参を与えている。それから空港施設内で両国政府関係者による記念式典を行うほどの歓迎ぶりだった。

台風をきっかけに種豚がアイオワ州から贈られた

当日の全国紙夕刊は一斉に同じAP=共同配信の写真を一面トップに掲載していた。腕組みをするアイゼンハワー米大統領が見守る隣で新日米安全保障条約に毛筆で調印する岸信介首相の姿だった。その裏面にこんな短いベタ記事を見ることができる。

【アメリカから種豚 山梨県へ台風見舞いに】朝日新聞
【台風見舞いの種ブタ アイオワ州から羽田につく】読売新聞
【米国産ブタ、空からの来日 山梨県の復興にと“国賓待遇”!】毎日新聞
【米国から種豚の贈り物 山梨県へ】日本経済新聞


アイオワ州から60年前に贈られた豚たち(写真:筆者提供)

きっかけは、台風だった。この前年の1959年、日本は大型台風の当たり年だった。

中でも、和歌山県潮岬から本州に上陸した台風15号は、犠牲者5098人を出し、紀伊半島や東海地方を中心として全国各地に大きな傷跡を残していった。後世にいう「伊勢湾台風」である。この台風被害は山梨県にも及んだ。

その直前にも、やはり大型の台風7号が襲ったことで、被害は甚大を極めた。奇しくも、昨年の台風19号は、日本の各地に大きな被害をもたらし、今も復旧・復興が進んでいるが、そんな状況も60年前に重なる。

そんな台風被害の惨状を知って、戦後はじめて日米間で姉妹州県を結んでいたアイオワ州が山梨県へ、復興支援のために豚を送ったのだ。

輸送機の機体にも、英語と日本語でこうペイントされていた。

『SISTER STATES IOWA-YAMANASHI』

『姉妹県 アイオワ-山梨』

アイオワ州といえば、米国中西部の穀倉地帯「コーンベルト」の中心に位置していて、トウモロコシや大豆の生産が最も盛んな場所だ。さらには、これを飼料した豚肉の産地としても知られ、現在では全米で生産される4分の1を占めている。

そこから繁殖のきっかけとなる生きた豚を送る。

でも、どうやって?

普通に考えれば、海上輸送だ。しかし、アメリカ中西部に位置するアイオワ州から、西海岸に運び出すまでに時間がかかる。そこから、太平洋を渡る。洋上の長旅と暑さに豚が耐えられるだろうか。とても体力は持つまい。

今でこそ、空路で日本とアメリカは半日もかければたどり着ける。だが、当時はプロペラ機の時代だ。太平洋を渡るにも給油を繰り返す必要がある。生きた豚を日本へ、それも飛行機で運ぼうなどとは誰も考えなかった。

ところが、アメリカ空軍が全面のバックアップを申し出た。これによって前代未聞の輸送作戦が実行に移される。生きた豚の空輸は国家的なプロジェクトにまでなって、この日、アイオワ州から羽田空港に運ばれてきたのだ。

それでも不安はあった。実際には36頭が送り出されたが、給油地のグアムで1頭が死んでしまうなど、輸送はやはり過酷を極めた。

のちに日本の畜産の歴史を変えることになる、このビッグプロジェクトを「ホッグ・リフト(Hog Lift)」と呼んでいる。

アメリカの本当の狙い

この35頭の豚が、日本の養豚の礎となっていく。山梨県に送られたアイオワの豚たちは、9年後に最後の1頭が死んでしまうまでに、35頭から約50万頭に殖えたと試算される。その豚たちが全国に広がっていった。今では日本の豚のほとんどがこのアイオワ豚35頭のなんらかの遺伝子を持つとされている。

支援と友好の架け橋として空を飛んできた豚。感謝感激で日本は迎え入れた。ところが、アメリカの本当の狙いは、豚以外のところにある。

山梨県には、豚と一緒にアイオワ州から農業指導員が送られてきた。種豚の世話をみながらアメリカ式の養豚技術を伝授するためだ。そこに必要となる飼料としてのトウモロコシを、アイオワ州は豚とは別に海上輸送で1500トン贈呈している。豚はこうして育てるのだ、と教えるために。

そもそも、生きた豚を運ぶという前代未聞の空輸計画を全面的に支援したのが、全米トウモロコシ生産者協会(NCGA)だった。養豚業界ではないのだ。日本にアメリカ式の養豚業を植え付けることで、飼料としてのトウモロコシの市場を日本に求めたのだ。豚が必要とする飼料穀物ならば、暑い太平洋上も支障なく船で運べる。

当時の1950年代後半のアメリカは、第二次世界大戦中にはじまった食料増産体制の継続のあおりを受けて、穀物の生産余剰が続いている時期だった。戦後復興の欧州支援のはずが、もはや必要なくなってあふれていた。そのことは以前にも書いた(『日米安保60年で祖父の轍を踏む安倍首相の現在』)。

日米安全保障条約の改定に、経済協力事項が盛り込まれたことから、日本は戦後の高度経済成長をはじめた。工業を特化した日本は、生産性の高い工業製品をアメリカの市場に売る一方で、アメリカからは大量生産される安価な農産品を買い付ける。この対米輸出入型の貿易構造が功を奏したとされる。アメリカ側にしてみれば、余剰穀物の捌け口を日本に向けることができる。

しかも実際の調印時には、35頭の豚が空を飛んでいたのだ。いわば”豚の尖兵”による既成事実を着々と作り上げていたことになる。


あれから60年。海外依存を高めた日本の食料自給率は、2018年には37%にまで低下している。そのうち、豚肉の自給率も徐々に下降し、同年には48%になる。あとは輸入に頼ることになるが、そのうちの約3割は最大の輸入相手であるアメリカが占めていて、もっとも多い。

アメリカ産と言えば、すぐに牛肉を連想しがちだが、1990年代から対日輸出に重点を置いた豚肉の国際取引が急成長し、今ではアメリカが世界一の豚肉輸出国に成長した(その経緯は拙著『侵略する豚』に詳しい)。

その最大の取引相手国が日本である。

生きた豚を送って餌を買わせるつもりが、今ではチルドや真空パックといった保管、輸送技術の向上もあって、生産した豚がそのまま海を渡ることができるようになった。

日米新安保60年はもうひとつの歴史がある

おじいさんが調印した日米新安保条約で、欧州向けに売れ余ったアメリカ産のトウモロコシを日本が買うことになった。空輸された豚がその素地を開いてくれた。昨年の日米貿易協定にあわせて、その孫の安倍晋三首相は米中貿易戦争のあおりで中国が買わなくなったトウモロコシを日本が引き受けた。

そして日米貿易協定で関税の下がった豚肉がそのまま日本に流入してくる。アメリカが教えた養豚業が、今度は潰されると嘆く。自給率は確実に下がる。

日米新安保の60年とは、豚の侵略にまつわる、そうしたもうひとつの歴史を持つ。

そのことをほとんどの日本人が知らない。