なぜ人は楽器ケースの中に入ってはいけないのか?

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バイオリンとケース


 カルロス・ゴーン氏の国外脱出劇で「楽器ケース」の中に潜んでの大脱走が話題となりました。それを真似して楽器のケースに入ってみるという遊びがあちこちで発生しているようです。

 これに対して、楽器メーカーのヤマハ関係者が、「あえて理由は記さないけれど悲劇が起きてからでは遅いので」として牽制するSNSを発信し、大きな反響が出ているようです。

 さて、ここで改めて考えてみましょう。楽器のケースとはいかなるものか? 

 私たち音楽家にとって、楽器は自分自身を表現するための唯一最大のチャネルで、命と同様に大切なものです。

 プロを目指す場合、ヴァイオリン一つ、その弓1本が、普通に家1軒くらいの値段になる場合があります。

 チェリストが飛行機で移動する際は、隣の座席をチェロ君のためにリザーブし、2人連れで旅行することになります。当然、料金も2倍かかる。

 社会全般が日頃あまり考えることがないだろう「楽器」の、さらに周辺にある「ケース」の本質的な役割から、考えてみたいと思います。

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楽器の大敵、湿気と乾燥

 早い時期のゴーン報道で、すでに楽器ケースには空気穴が準備されており、それがなければ窒息、といったことが記されていました。

 コントラバスとかチェロ、あるいはヴァイオリン、ヴィオラなどに限らず、ハープでも、いや、そもそもピアノという楽器が「木造」であることに注意しましょう。

 木製の器具を長く使ううえで、一番重要な要素として「湿度管理」を挙げることができます。

 湿気が少なすぎても、乾燥して木の板は割れてしまいます。また湿気が多すぎると、楽器本来の鳴りが失われてしまう場合があります。

「音楽は世界の言葉」なんていうけれど、それはかなり浅い嘘であって、少なくともアコースティックの楽器については、その土地土地の気候風土が楽器にとっての最良のコンディションを決定しています。

 かつて武満徹さんという作曲家が、尺八と琵琶、管弦楽のための「ノヴェンバー・ステップス」(1967)という作品をニューヨーク・フィルハーモニックの委嘱で作曲したとき、その初演のため米国に赴いた筑前琵琶の鶴田錦史さんは、楽器の乾燥という災難に見舞われます。

 琵琶という楽器は、微妙な倍音が沢山響いて、初めてその音色、そして音楽が成立しますが、楽器が乾燥してしまうと全体のコンディションが崩れてしまう。

 しかし、ニューヨークを含め、米大陸の気候風土は、カラッと乾燥しており、およそ日本の高湿度とは似ても似つきません。

 そこで鶴田さんはどうしたか・・・。いろいろ試行錯誤をしたけれど 最初はうまくいかなかったそうです。

 最終的には、琵琶を「白菜」などの「野菜」で包むことで問題を解決しました。

 野菜もまた 生きています。湿気も含め、野菜は呼吸している。それを、木材というやはり「呼吸するもの」のキープに用いることで、琵琶のコンディションを復活させたという、なかなか示唆深い話だと思いました。

 楽器ケースというのは、外部の湿度が影響してインストゥルメントが失調しないよう、基本的に「気密」に作られている場合が少なくありません。

 これは、やはり木材で作られている「木管楽器」も同様ですし、金管楽器など金属性の楽器も「錆び」ますから、気密は十分に配慮されるべき性質です。

 フルートのように、今日では金属でできている「木管楽器」もありますが、いずれも湿度管理は重要です。

 しかし、西欧の伝統楽器で一番気を遣うのは、子供の頃チェロを弾いていた個人として、木材と並行して実はもう一つの部材であるように感じます。

 それは「生きもの」に由来する部品です。

 例えば弦楽器は、ガットつまり羊の腸を材料とする弦を張っていますが、湿気を吸い過ぎるとぼよぼよになってしまいますし、乾燥しすぎると縮んで切れてしまいます。

「管楽器にはそんなものはついていないだろう」などと思われるかもしれませんが、さにあらず。

 例えば、フルートなど「キー」指孔を充てる部分には、合成繊維などがなかった時代から、生物由来の部材が使われています。

 木管楽器のキーシステムの、穴をふさぐ「蓋」に当たる部分はタンポと呼ばれますが、何と伝統的には「魚の腸」が使われます。

 韓国料理屋で出てくる「チャンジャ」という魚の内臓の塩辛がありますが、ああいうものを丁寧に洗って処理し、管楽器の穴の気密を保つのに使っているのです。

 湿度管理がめちゃくちゃになると、こういうものが一発でダメになります。金管楽器も随所にグリースなど有機材料が用いられ、こちらは「酸化」が大敵ということになります。

 演奏中はもちろん、私たちの呼気を使って吹奏しますが・・・でも実はこれも「呼気」で、酸素を代謝した後の、二酸化炭素がちの排気で演奏しているという事実は、あまり注目されることがありません。

 使っていないときは、気密を保って酸化しないように注意する方がメンテナンス的に重要ですから、楽器ケースは充分注意して作られている。

 窒息の危険は、第一に分かるところですが、それに加えてもう一つ大きなポイントがあります。

もう一つの側面、振動と衝撃

 楽器が嫌う第一として、メンテナンス上の敵である湿度や酸素などを最初に記しました。

 楽器によっては「乾燥材」「酸化防止剤」などの袋をケースの中に入れている場合もあり、こんなところに人間が入ってはいけません。

 しかし、それと同じくらい当たり前のことですが、楽器が嫌うものに「振動」や「衝撃」があります。

 すべての楽器は精密に調整されたシステムです。それをガタガタと振動させれば、当然ながら狂ってしまいます。

 弦は緩み、管楽器のキーシステムはうまく作動せず、金管のバルブはおかしくなってしまう。

 そうしないためには、外部からもたらされる衝撃を吸収し、中にある楽器が、ちょうど母胎内の赤ちゃんのように、クッションに守られて安全であることが必要です。

 みだりに蓋が開いたりするといけないから、3つ以上の鍵と留め金で入念に閉められるようにも作られている。

 これを逆に考えると、中の楽器が勝手に踊ってしまったりするといけませんから、ぴたっとはまって不用意に動かず、しかも振動に対しては防振的に反応するよう楽器ケースというものは作られている。

 どういうことか。まず、一度中に入ると、身動きが取れなくなる可能性があります。

 次に、外から閉められると、まずもって中からは開けることができません。

 さらに、中で暴れたり外に助けをもとめようとしても、それが極力伝わらないように作られている。

 そして、極めつけとして、気密で脱酸素剤などが入っている場合すら少なくない。人が入れば普通に死にます。

 楽器は「生きている」といいますが、それはインストゥルメントとして生きているのであって、木材の呼吸は生命体の代謝ではなく、かつて生物であったものの物性にほかなりません。

 楽器ケースの中に人間を入れると、比較的容易に「かつて生物であったもの」になるように、入念に設計されている。実は精密機器であるということが分かると思います。

 大型の楽器ケースの中には、間違っても入らないようにしましょう。でないと、死にます。

 かつ、窒息の苦しみは、通り一遍ではないことが知られています。楽器ケースを作っている企業としては、あまりこういう生々しいことには触れたくないと思われますが・・・。

 ポップスで用いる、エレクトロニクスを用いる楽器の場合は、気密性はあまり厳密でない場合もありますが、防振や衝撃対策は、それこそ電子機器ですから、きちんと設計されています。

 一度中に入って、間違って施錠されてしまったりすると、内側から開けることはまずもって不可能。

 西欧中世には「鉄の処女」という棺桶型の拷問具がありましたが、ほとんどそれと変わりません。

 ゴーン氏の会見でも、そのことには触れられていました。命を他人に預けたわけで、彼の脱出を非難するのは簡単ですが、65歳の男性があのような冒険に身を投じたことそのものは、大した胆力と言うべきことかとも個人的には思っています。

 しかし、それはグリーンベレーが準備した「専用の手品の箱」だったからできたわけで、普通の人が不用意に入れば楽器ケースはそのまま棺桶にしかなりません。

(つづく)

筆者:伊東 乾