正月にはさまざまなしきたりがある。そのひとつの「除夜の鐘」は、各寺が大晦日の夜に人間の煩悩の数とされる108回だけ鐘を撞くものだ。古くからあるしきたりのようだが、全国で撞かれるようになったのは昭和以降。きっかけはNHKのラジオ放送だった。宗教学者の島田裕巳氏が解説する――。

※本稿は、島田裕巳『神社で拍手を打つな!』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

写真=iStock.com/Arrlxx
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■年越しそば、紅白、初日の出、お雑煮……

現代では、大晦日には、年越しそばを食べながら、NHKの「紅白歌合戦」を見る、それに続けて、「ゆく年くる年」も見る。「ゆく年くる年」では、必ずどこかの寺の除夜の鐘が取り上げられる。その音を聞いて、耳をすましてみると、近くの寺でも除夜の鐘が撞(つ)かれている。

除夜の鐘を聞いたのを合図に、初詣に出かける人もいる。もちろん、年が明けてから、初詣をする人たちも多い。正月三箇日のあいだ、神社や寺院は、多くの初詣客を迎える。

元旦、早く起きた人は、初日の出を拝む。しっかりと拝むには、しかるべき場所に出かけていかなければならない。最近では、飛行機から初日の出を拝むイベントも行われるようになってきた。逆に、大晦日は遅くまで起きていたので、起きるのも遅くなったという人たちもいる。

どちらにしても、元旦には、雑煮やお節料理を食べ、屠蘇(とそ)を酌み交わす。普通の酒を飲む人もいる。屠蘇気分で初詣に出かけたりもする。元日には、格別やることがない。年始回りというしきたりもあるが、最近では、昔ほど盛んではなくなっている。多くの人が初詣に出かけるのも、ほかにやることがないということも大きい。

二日になれば、朝からテレビをつけ、ずっと箱根駅伝の中継を見ている人もいる。駅伝は、途中でハプニングが起こることがあり、それが密かな楽しみだったりもする。皆、正月には毎年同じようなことをしている。初詣に行く先も、恒例の神社仏閣が決まっていたりする。

■箱根駅伝の中継が始まったのは1987年

このように、正月にはさまざまなしきたりがあり、私たちはそれを毎年くり返している。そこには、さほど大きな変化はない。だから、私たちは、そうしたしきたりが相当に昔から続けられてきたものだと考えてしまいがちである。

だが、江戸時代と比べれば、それもかなり変化している。では、江戸時代になかったしきたりは、いったいいつからはじまったものなのだろうか。ふと考えてみると、はじまりが分かっていないものが少なくない。

テレビの中継となれば、いつからそれがはじまったかは、すぐに分かる。紅白歌合戦は最初ラジオの番組だった。はじまったのは1951年からで、テレビでも放送されるようになるのは53年からである。ただし、53年の時点では、ほとんどの家庭にテレビは普及していなかったので、大半はラジオでそれを聴いていた。

箱根駅伝が民放でテレビ中継されるようになったのは、1987年からである。どちらの番組にも関心がない、見ないという人もいるだろうが、一方で、紅白も箱根駅伝もない大晦日から正月の過ごし方は考えられないと思う人もいるだろう。それだけ、この二つの番組は正月行事のなかに深く組み込まれてしまっている。

では、ほかのしきたりはどうなのだろうか。

■意外なほど新しい「除夜の鐘」

まず、しきたりとして意外なほど新しいのが除夜の鐘である。

除夜の鐘は、大晦日の夜に各寺で撞かれるもので、回数はほとんどの寺で108回と決まっている。108は、仏教において人間の煩悩の数とされている。煩悩とは、こころの汚れを意味する。108の由来については諸説あるが、一般の人たちは、煩悩の数だけ鐘を撞くことで、煩悩を払うことになると受けとっている。その点で、除夜の鐘は古くからそれぞれの寺で撞かれていたかのように思えてくるだろう。

ところが、除夜の鐘が俳句の季語として定着するのは昭和の時代に入ってからである。1933年に刊行された山本三生編『俳諧歳時記』と翌年の高浜虚子編『新歳時記』からだとされる。

ただ、それまで除夜の鐘が句に詠まれなかったわけではない。宝暦年間(1751〜64年)の古川柳に、「百八のかね算用や寝られぬ夜」がある。算用とは金を支払うことを意味する。

また、江戸時代後期に陸奥(むつ)白石(宮城県)の千手院の住職だった岩間乙二(おつに)に、「どう聞いてみても恋なし除夜の鐘」の句がある。江戸時代には、除夜の鐘は一部で俳句に詠まれていた。ところが、季語として定着するのは、昭和の時代、1930年代になってからである。

■「除夜の鐘はつきません」と鐘撞きは言った

ということは、除夜の鐘はすでに江戸時代から撞かれていたが、近代に入ると、一時中断されてしまったということだろうか。それを裏づける記事がある。それは、1924年の大晦日に新聞に出た二つの記事である。

『東京朝日新聞』の記事では、寛永寺と浅草寺の鐘撞きの老人にインタビューしており、二人は永年それをつとめてきたとされる。

寛永寺の老鐘撞きは、「時の鐘を撞いてゐるんだから特別に除夜の鐘ナンか撞いて居られやしませんやね」と答えている。浅草寺の老鐘撞きも、「除夜の鐘はつきません、時の鐘をついてゐますから」と答えている。

時の鐘は、テレビや映画の時代劇、あるいは歌舞伎などによく登場するが、決まった時刻に寺の鐘を撞き、時刻を知らせるものである。時計が普及していない時代には、皆、この時の鐘に頼った。

もう一つは『東京日日新聞』の記事で、作家で画家の淡島寒月にインタビューしたものである。寒月は、江戸時代には除夜の鐘が盛んだったが、「現在の東京では除夜の鐘をついて生々しい人間生活の無常を知らしめそこに反省をうながす寺院が稀になつた」と述べている。寒月の見解では、江戸時代には除夜の鐘は盛んに撞かれていたことになる(二つの記事については、平山昇『鉄道が変えた社寺参詣―初詣は鉄道とともに生まれ育った』交通新聞社新書から引用した)。

■鎌倉時代までは、禅寺で毎日鳴らしていた

産経新聞取材班『祝祭日の研究―「祝い」を忘れた日本人へ』(角川oneテーマ21)では、除夜の鐘について、「この習慣そのものは中国から伝わってきたが、鎌倉時代のころまでは、禅寺で毎日鳴らされていたという。それがやがて大晦日から元旦にかけて欠かせない行事となった」と説明されている。

禅寺は、雲水が修行するための場であり、朝の起床からはじまって、すべてのことを開始する際には、各種の鳴物が用いられる。鐘、太鼓、木魚などである。修行中、雲水のあいだでことばを交わすことはない。食事なども修行と位置づけられており、魚の形をした空洞の「梆(ほう)」を叩くことが、曹洞宗では昼食を開始する合図になっている。

禅寺での修行のやり方を定めたものが「清規(しんぎ)」である。中国の元の時代に作られた『勅修百丈清規』には、「慢十八声、緊十八声、三緊三慢共一百八声」とある。慢はゆるく鐘を撞くことで、緊は強く撞くことを意味する。それを組み合わせると合計108回になるというのである。

■「ゆく年くる年」の前身となったラジオ番組

除夜の鐘は、そうした禅寺でのやり方が元になっているようだ。だが、それはあくまで禅寺がやっていたことで、他の宗派にまでは広がっていなかった。鐘撞きが証言している寛永寺は天台宗の寺で、浅草寺も当時は天台宗だった(現在では、独立して聖観音宗になっている)。

除夜の鐘が各宗派に広がったのは、ラジオの力によるものだった。

「ジモコロ」というインターネットのサイトでは、2016年12月29日に、「【公式】完全解剖―NHK『ゆく年くる年』61年の歴史を裏の裏まで教えます」という記事が掲載されている。この記事では、NHKの「ゆく年くる年」の担当者がインタビューに答えているが、この番組のはじまりについては、「『ゆく年くる年』には前身となる番組がありまして、最初は『除夜の鐘』というタイトルで、ラジオとして始まりました」と述べている。「除夜の鐘」という番組があったのだ。この番組がはじまったのは、1927年のことだった。記事では、当時の放送風景が写真入りで紹介されている。

その写真には、中央に、かなり大きな鉢の形をした銅製の「磬子(けいす)」が写っている。磬子の向かって右側に立つNHKの職員と思しき人物は、それを打つための「棓(ばい)」を手に持ち、左に立つ、やはり職員と思われる人物は手に持った時計を見つめている。磬子を鳴らす時間が来るのを待っている光景らしい。

■生中継をきっかけに、全国の寺院が取り入れた

写真の説明としては、「1927年の『除夜の鐘』放送風景。当時は近所の寺から借りてきた鐘をスタジオに持ち込んで108回叩く、というラジオ番組だった」とある。最初は、スタジオで磬子を打ち、それを除夜の鐘としたのである。寺で除夜の鐘を撞くときには、磬子は使わない。「撞木(しゅもく)」と呼ばれる棒が用いられる。

島田裕巳『神社で拍手を打つな!』(中公新書ラクレ)

「除夜の鐘」の番組は、1929年には、一箇所だけだが実況中継になり、32年には、各地からリレー中継するようになったという。

僧侶向けの専門誌に『月刊住職』というものがあるが、その編集長で、自らも高野山真言宗の僧侶である矢澤澄道(ちょうどう)は、除夜の鐘について、「由来には諸説がありますが、昭和2年にNHKラジオの『除夜の鐘(現:行く年来る年)』の番組で、上野・寛永寺に頼んで除夜の鐘として生中継し、これが契機となって全国の寺院が取り入れたことに間違いはありません」と述べている(『デイリー新潮』2018年12月30日)。

初回の番組で使われた磬子は、上野の寛永寺から借りたものだったのだろうか。写真に写った磬子は、相当に立派なもので、有力な寺院の持ち物であるように見える。

重要なことは、除夜の鐘を撞くしきたりが、ラジオ放送をきっかけとして広がったとされている点である。メディアが取り上げたがために、しきたりが生まれたり、広がったりと、さまざまに変化していくことがあるわけである。

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島田 裕巳(しまだ・ひろみ)
宗教学者
1953年東京都生まれ。宗教学者、作家。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任。自身の評論活動から一時「オウムシンパ」との批判を受け、以後、オウム事件の解明に取り組んできた。2001年に『オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』を刊行し話題に。『戒名』『個室』『創価学会』『神社崩壊』『0葬』など著書多数。
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(宗教学者 島田 裕巳)