妊娠中の旅行について事例を交えながらそのリスクについて解説します(写真:hirost/PIXTA)

大きいお腹を抱えて、リゾートで微笑む幸せそうな笑顔――。SNSで「マタ旅」と検索すると、妊娠中の旅行を楽しむ写真の数々がヒットする。

妊娠中に旅行する「マタニティ旅行=マタ旅」という言葉が徐々に広がり出しておよそ10年。「子どもが生まれたら、しばらく自由に旅行に行けないから」「妊娠の記念に」と、マタニティライフのハイライト的に出かける人が後を絶たない。当初は芸能人らから火がつき、近年SNSの発達により、さらにブームが広がった。

DeNAトラベル (現・エアトリ)の2017年12月の調査によると、妊娠経験がある人でマタ旅を経験した人は65%にのぼった。旅行した理由の1位は「体調が安定していた」。次に「事前の準備をしっかりすれば問題ないと思った」「子どもが生まれたら行けないと思った」が続いている。

「夫婦最後の時間を過ごせる」「食べ物などさまざまな制限があるなかで、ストレス発散できる」という前向きな意見もある一方で、旅先で入院したり、早産になったり、トラブルが多いことはご存じだろうか?

マタ旅は虐待と同じ

「妊娠中の旅行は絶対にやめてほしい」ときっぱり言うのは聖路加国際病院・女性総合診療部医長の山中美智子先生だ。

「妊娠16週目以降から安定期という言葉を使われていますが、妊娠に安定期はありません。流産の可能性が低くなる時期というだけのことで、22週以降でも1000出産に3人前後は死産になってしまうし、亡くならないまでも、37週目前に生まれてしまう早産は5〜6%で起こります。

子どもが生まれたら、すぐには外出させず、少しずつ外気浴(家の窓を開けるなど外の空気に触れさせること)から始めるのに、お腹の中にいるときは旅行に連れて行く。医師の私から見ると、(生まれてくる赤ちゃんを危険にさらす)マタ旅は虐待だとすら思う」

「妊娠5カ月で旅行を解禁した」という通信会社で働く足立里美さん(仮名)は、もともと旅行が好きで、一般的に“安定期”と呼ばれる5カ月を過ぎるのを待って、国内旅行、海外旅行と妊娠中に計4回飛行機で旅をした。

当時のことを振り返ってもらうと、「妊娠中に旅行したらいけないとか、何かあったらどうしようとか気にする人はいますが、私からしたら気にしすぎ。なんでそこまで気にするのかわからない。もし何かあっても、クレジットカードに旅行保険がついているから大丈夫」と言う。

一般的に海外旅行保険は、早産や流産後の処置など妊娠に関する治療について免責対象のため、何かあっても保険ではカバーされない。「……それなら、何かあったら自己責任でどうにかするかな?」と、新しく知った事実にも即答したが、それは多くのマタ旅経験者と同じく、母子ともに無事だったからだろう。

「自分は大丈夫」と思う人が大多数だと思うが、もしも妊娠中に海外で何かあった場合、どうなるのか――。今から15年前に日本で初めて妊娠中(妊娠22週未満)の女性を対象にした特約を海外旅行保険に付けて発売したAIG損保に、保険を導入した背景と実際に多い事例について話を聞いた。

保険請求は年間30〜40件、流産・切迫流産が多い

AIG損保が妊婦向けの商品を作ったのは、マタ旅を推奨するためではない。商品開発の背景について、個人傷害・医療保険部 旅行保険課シニアマネージャー青木浩一氏は、

「婚約後に妊娠して、そのまま式を挙げ、新婚旅行に旅立つ人は少なからずいます。今さら結婚式の予定は変更できないし、子どもを産んだら旅行に行きづらくなる。そんな旅行直前に妊娠が発覚した10週以内の人などを想定し、22週目までを保障しています。ただ、『さぁこれでどうぞ行ってらっしゃい』というわけではない。今後も偶発性のない22週以降を保障する商品を作る予定はありません」と言う。

日本では、妊娠22週までにお腹の赤ちゃんに何かあった場合は流産、22週目からは早産となるため、母体にとっても、お腹の赤ちゃんにとっても大きな意味の違いがある。

妊婦さんの保険金の請求件数は年間30〜40件、月に3件程度発生していることになる。妊娠中に海外へ渡航する人数は調査がなく、多いか少ないか判断をしにくい。だが、同社の対象保険に加入している妊娠22週未満の人が月3件程度請求するという数は決して少ないとは言えないのではないだろうか。

また、旅先での妊婦のトラブルで多いのは、出血や流産。同社によると、病院に行った妊婦さんのうち約5割(直近4年程のデータ)が流産もしくは切迫流産だったという。

「飛行機の気圧や環境の変化によるためか、到着直後かその翌日に出血したと連絡してくる人が圧倒的だ。データを見ると残念ながら流産される方が多い」と言うのは、同社海外旅行保険サービスセンター長の武田紀子氏。

若い人はとくに、添乗員がいるツアーで渡航する人は少ない。ハワイは日本人も多く安心だと思っていても、何かあったとき、大丈夫な街ではなくなるのがマタ旅だ。

ほとんどの人は病院まではどうにかたどり着けるが、緊急救命室(ER)に行っても、そこは生死をさまよう人の診察が優先されるため、腹痛や不安な気持ち抑えながら長時間待つことになる。同社によると新婚旅行の定番ハワイは、1回の通院で10万〜20万円、1泊2日の流産の手術で200万〜250万円程度だという。

退院しても、ホテルで安静にしていなければならずベッドから動けない。近くのコンビニに行くことですら許されない場合もある。当然、予定していた観光やアクティビティーは全部キャンセルだ。

飛行機に乗っていいかどうか搭乗許可も得なければ帰国することもできず、予定されていた帰国日までに許可が下りなければ、チケットを取り直さなければいけない。医師がビジネスクラスなど座席クラスを指定する場合もあるそうだ。

また、「ただでさえ、海外旅行では転ぶ人が多く、ケガをする人が少なくない。日本に比べ舗装されていない道が多いことや、慣れない土地で景色を見たり、地図を見たり、同時にたくさんのことをする必要があることも原因なのでは」(青木氏)と言うように、健康な人でもケガをしやすい状況なのに、お腹の大きな妊婦ならなおさら転倒の確率は上がる。

海外旅行先で何かあれば、たとえ英語など現地の言葉ができたとしても、そこは外国。いつも診てくれている病院や先生はいない。不安と戦いつつ、高額な治療費を請求される。母子ともに健康に帰ってこられればいいが、大切な命を落とすこともありうるのだ。

旅先で人工流産を選んだ夫婦

一方、日本への訪日外国人旅行者は年々増加している中で、日本で緊急出産したり、流産する外国人妊婦も急増しているようだ。

聖路加国際病院にも25週で破水し、帝王切開となった東南アジアの女性がいたという。赤ちゃんは4カ月にわたって新生児集中治療室(NICU)へ入院となり、かかった費用は1000万円以上。父母と上の子ども2人+お腹の赤ちゃんでの旅行だったが、お母さんだけが残って父子は帰国した。

その間の在留資格、生まれた子の国籍問題、しかもイスラム教徒だったため、ハラール食への対応など、課題は山積み。大使館と連携を取りながらの4カ月だった。

幸いにもこの母子は無事帰国できたが、悲しい結末を迎えることもある。

ある日搬送されたのは、妊娠21週の欧米人。子宮口が開き、胎胞が出てきていた。このような場合、通常は入院して子宮口を縛る手術をする。しかし、それでも早産の危険があるし、長期入院が必要な場合がある。長時間のフライトに耐えられる確約はないので、もちろん飛行機に乗って帰ることもできない。

結局、入院期間や費用、体調などを考え、この人は人工流産を選ぶことになった。生き延びられるかもしれなかった命を、旅先で失ってしまった。

「お産は必ずハッピーに終えられるわけではない。これは日本人妊婦が同じように海外に行っても起こりうること。後悔するようなことはしてほしくない」と数々の症例を見てきた山中先生は切に訴える。

マタ旅で人気の沖縄県では、2017年3月に沖縄を旅行中の台湾人妊婦が7カ月で緊急出産した。コミュニティーに寄付を呼びかけ、結果、無事出産も、支払いもできた。このとき、支払い以上の寄付金が集まったため、「今後同じようなことが起こった人のために」と県に寄付し、沖縄県外国人観光客医療費問題対策協議会が設立された。

沖縄県観光振興課・外間みか氏は日本人、外国人問わず、「沖縄に旅行に来てほしいが、妊娠中は何かあったときが大変。リスクも考えてきてほしい」とマタ旅について慎重になるように呼びかける。

マタ旅は海外旅行だけではなく、国内でも同様に危険だ。

「東京近郊にある巨大テーマパークからの産科緊急受診に対する検討」と題し、順天堂大学医学部附属浦安病院の産婦人科の先生たちが、妊婦の緊急搬送についての事例を発表してから10年。今なおネット上では「妊婦でも安心ディズニーランドの回り方」などの情報が氾濫している。

妊婦は優遇されるなどの都市伝説も出回っているが、東京ディズニーリゾートを運営するオリエンタルランド広報部によると「アトラクションによって妊娠中は乗れないものもあり、優先的に並ばずに乗れるということもない」とのこと。長時間広い敷地を歩き回り、長蛇の列に並ぶことで体に負荷がかかることは容易に想像できる。

聖路加国際病院の山中先生は「妊婦さんたちから事前に旅行に行っていいかと聞かれることも多いですが、遠くに行くことを好ましくないと止めると大体嫌な顔をされる」と苦笑いする。

高原旅行で感染症のため赤ちゃん死亡

旅先は環境が違うし、食べ物も違う。国内だろうと感染症も起こる。

人間の体は異物が入ったときに排除しようとするが、妊娠中は本来異物のはずの赤ちゃんをお腹の中に受け容れるため、母体の免疫状態が普段よりも弱くなっている。そのため、インフルエンザも重症化しやすく、加熱処理されていない乳製品や食肉加工品や魚介類加工品などにいるリステリア菌に感染しやすくなる。

ある妊婦さんが国内の高原に旅行中、牧場でしぼりたての牛乳を飲んで発熱し、その後、病院に行ったところ、生乳が原因の感染症でお腹の赤ちゃんが感染症で亡くなっていたという悲しい事例もあった。

「みんな『自分は大丈夫』だと思っているけれど、起きてしまったときの代償はあまりに大きい。賛成はしないが、どこかに行くなら、母子手帳と保険証は必携で、近くの病院も必ず調べておいてほしい」(山中先生)

国内旅行なら新幹線で帰れば大丈夫と思うかもしれないが、出血をしてお腹が痛くて不安な中、何時間も電車に乗って帰ることがはたしてできるだろうか。もし早産になり、NICUに入ることになったら、見知らぬ土地で何カ月も入院することになる。早く地元に帰りたくても、保育器にいる赤ちゃんの搬送手段を整えなければ地元に帰ることもできない。

その点、帰省の場合は、もし何かあっても滞在拠点となる場所や人がいるので、その点の心配はいらないため、マタ旅とは別ものとして考えてもよいとのこと。帰省時には、長時間同じ体勢でいる車での移動よりは、飛行機や新幹線での短時間移動がおすすめという。ただ、飛行機は気圧の変動でお腹が張ることがあるので、注意は必要だろう。

日本は世界トップクラスの周産期医療の実績がある。それでも、不用意にお腹の赤ちゃんを危険にさらしていいわけではない。

「たった10カ月の間に顕微鏡でやっと見えるくらいの受精卵から3000gまでお腹の中で育つ、その奇跡の過程を守ってほしい」と山中先生。

旅行する人の多くは無事に帰ってきているだろう。それでも、旅行は赤ちゃんが生まれてから、初めての家族旅行まで待つのはどうだろうか。