いまなお昭和の雰囲気を残す中央線沿線の穴場スポットを、ご自身も中央線人間である作家・書評家の印南敦史さんがご紹介。喫茶店から食堂まで、沿線ならではの個性的なお店が続々と登場します。今回は西荻窪にある「坂本屋」です。

真っ赤な日よけ看板が目印


○並んでも食べたいカツ丼

西荻窪には、カツ丼の名店があります。マスコミでもよく紹介されているので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんね。西荻窪駅北口を出たら、西荻窪駅前交差点から通りの左側を青梅街道方向へ数分。桃井三小西交差点の角に見えてくる「坂本屋」というお店です。

正確には食堂なのですが、ハイクオリティなカツ丼についての評価がとても高いので、まるでカツ丼専門店のような扱いを受けてきたわけです。

ところでこのお店については、ずっと気になっていたことがありました。昨年末から、長らく閉まっていたのです。調べてみたらご主人がご病気だったらしく、もしかしたらもう食べられないのかな、などと余計なことを考えてしまったりもしていたのでした。

でも先日たまたま通りかかると、ひさしぶりにまた人の列が。どうやら再開した様子ですね。というわけで数日後、改めて訪ねてみることに。

到着したのは11時15分。11時30分の開店まではまだ少し時間がありますが、すでに3人並んでおりました。充分に予想できたことですので、その後ろに並んで待つことにしましょう。並ぶのはあまり好きではないのですが、ここは並ぶ価値があると思います。

この日の行列は短めかも


ところでふと見ると、店頭のガラスケースに「当分の間、カツ丼850円(税込)のみの営業をさせて頂きます」との表示が。体調を考慮してのことなのでしょう。でも大半のお客さんはカツ丼が目当てでしょうし、特に問題はないはず。むしろ、そこまでして店を開けてくださったことに、ただただ感謝です。

カツ丼のみでも問題なし


○夫婦の見事な連携プレイが織りなす味

さて、11時半を少し過ぎたころにご主人が外に出てきました。人数を告げ、順番に店内へ。先頭の2人組が奥のテーブル席に案内されたこともあり、「カウンターへどうぞ」と言われた僕はカウンターのいちばん手前の席を選ぶことができました。調理作業を拝見しやすいベスト・ポジションです。

きれいな厨房の片隅、つまり僕の目の前には、すでにカツ丼用の小鍋がたくさん用意されています。たしかにこうしておけば、作業を効率よく進めることができますね。

カツ丼を効率的にさばくための配慮が


店内にBGMなどはなく、会話をする人もいないので静か。小さめの声で奥様に指示を出すご主人の声がときおり聞こえてくる程度です。とはいえ、よくある頑固なラーメン屋みたいに無駄な緊張感はなし。余計な会話がないというだけのことで、心地よい静けさといった感じです。

それにしても、ご主人が淡々とカツを揚げ、奥様が小鍋でそれを煮て……という作業を眺めていると、ワクワク感がどんどん高まってきます。

夫婦の連携プレイで作業は着々と


カツを揚げようとする瞬間をキャッチ


「いま1組目の分が出たということは、あれが次の人の分だから、あっちが僕のかな?」などと、どうでもいいことを考えてしまったり(子どもか)。

でも、「あれが自分の分だろう」と推測しながら奥様の作業をチェックしていたら、「お待たせしました」と反対側からご主人の声がして、カツ丼とわかめの味噌汁、柴漬けの小皿が乗った四角いお盆が目の前に登場したのでビックリ。

これこれ! これですよ!


ということは、僕が自分のものだと思い込んでいたあれは別の人の分だったのですね。

なんてことはどうでもいいのですが、そうそう、これですよ! 半熟のたまごがトロリとかかった揚げたてのカツ。これぞ坂本屋のカツ丼です。

半熟たまごが芸術的


ひさしぶりに対面した時点で、すでに自分が軽い興奮状態にいることがわかります。でも、だからこそ落ち着いていただかないとね。

たまごと理想的なバランスで絡み合うカツは、やっぱり絶妙。適度にシャキシャキ感を残した玉ねぎ、そして視覚的なアクセントにもなったグリンピースも、すべてが主役級の存在感を見せつけてくれます。食べる人のカツ丼に対する期待感を裏切らず、"それ以上"に到達しているのです。

アクセントとしてのグリンピースの存在感


しかも重要なポイントは、食べるたび、さまざまな思いが頭をよぎること。単においしいだけではなく、食べ進める過程でいろいろなことを思い起こさせてくれるという、いわば"幸せなカツ丼"。

しかし、その幸せはやはり丼一杯分。どれだけゆっくり噛み締めても、やがて終わってしまいます。だから丼の底が見えてくると寂しい気分にもなってくるのですが、続きのお楽しみは次回ということで。

いずれにしても、これだけの満足感を与えてくれるのだから、850円は安いとしか言えません。

お会計のときは、ご主人が出てきてくださいました。カツを揚げながら大変だなぁ。話しかけられるような雰囲気ではなかったので「ごちそうさまでした」としか口に出せなかったけれど、いろいろ話を聞くのはヤボというものかもしれません。

やっぱりおいしかったし、それだけで充分です。

●坂本屋

住所:東京都杉並区西荻北3-31-16

営業時間:11:30〜15:00

定休日:月曜日・水曜日・金曜日・日曜日



○著者プロフィール : 印南敦史(いんなみ・あつし)

作家、書評家、フリーランスライター、編集者。1962年東京生まれ。音楽ライター、音楽雑誌編集長を経て独立。現在は書評家としても月間50本以上の書評を執筆中。『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)、『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(ダイヤモンド社)、『プロ書評家が教える 伝わる文章を書く技術』(KADOKAWA)ほか著書多数。