「すべての物語はわれわれの終わりから始まる。われわれが物語を考え出すのは、自分が死ぬからだ」

 アイルランド生まれのジャーナリスト、マーク・オコネルは『トランスヒューマニズム 人間強化の欲望から不死の夢まで』(作品社)をこう書き出した。オコネルは本書で、テクノロジーのちからで肉体の(あるいは動物としての)制約から「人間」を解放しようとするトランスヒューマニストたちを取材している。その意図は原題“To Be a Machine : Adventures Among Cyborgs, Utopians, Hackers, and the Futurists Solving the Modest Problem of Death (マシンになる―死という“ささやかな問題”を解決しようとするサイボーグ、ユートピアン、ハッカー、フューチャリストたちをめぐる冒険)”によく表われている。

 オコネルによれば、「物語が語られるようになってこのかた、語られるのは、人間の生身の体から抜け出し、今の動物の形をした自分とは別の何かになりたいという欲求をめぐる話」だった。人類最古の物語であるシュメールのギルガメシュ叙事詩では、友人の死に狼狽したギルガメシュが、自分にも同じ運命が待ち受けていることを受け容れることができず、死からの救済を求めて世界の果てまで旅をする。

 人類は5000年ちかく、おそらくはそれ以上にわたって「不死」を夢見てきたが、これまで誰一人として「動物」としての運命から逃れることはできなかった。だが強大なテクノロジーを手にしたいま、「人間」の限界を超えて死を克服できると考えるひとたちが登場した。これがトランスヒューマニスト、すなわち「超人」だ。

より現実的な不死の戦略は平均寿命を老化よりも早いスピードで延ばしていく「長寿化」

 オコネルはトランスヒューマニズム(超人思想)の世界観を、「われわれの心(マインド)と身は技術的に古くなっていて、そのフォーマットは時代遅れで全面的に解体修理を必要とするという考え方」だという。

 不死を手に入れる方法のなかでトランスヒューマニストの期待を集めているのが、(脳以外の)身体を機械(バイオテクノロジーでつくられた人工内臓などを含む)に置き換えていく「サイボーグ化」と、脳のデータを超高性能のコンピュータにアップロードする「全脳エミュレーション」だ。

 サイバネティクスは「機械と生物を統合する制御と通信の理論の分野全体」で、サイボーグは「サイバティクス有機体Cybernetic Organism」のことだ。

 サイバネティクスでは、「生き物も機械も、情報という観点から見れば同じ理論で説明できる」と考える。そこでは脳は、コンピュータより少々複雑ではあるものの、入力と出力のフィードバックループにすぎない。自己とは、「自己の活動を伝え、それによってさらに生成されるデータを伝える、読み取り可能な事実と統計的数字の集合」なのだ。

 より現実的な不死の戦略としては、平均寿命を老化よりも早いスピードで延ばしていく「長寿化」がある。ロケット工学では、地球の引力を振り切って圏外に脱出できる速さを「地球脱出速度」という。それと同様に、長寿研究の進歩によって、1年経過するごとに平均寿命を1年以上延ばすことができれば、私たちは永遠に生きることができる。これが「寿命脱出速度」だ。

 もちろん、動物としての肉体を維持したまま何百年、何千年と生きつづけるのは非現実的だ。だからトランスヒューマニストは、長寿化で時間稼ぎをしているあいだにテクノロジーが加速度的に進歩し、とてつもないイノベーションが起きて、機械と生命が一体になる「サイボーグ」の未来が到来することを夢見ている。この転換点は「シンギュラリティ(技術的特異点)」「オメガポイント」と呼ばれている。

2045年には機械(AI)が人間の知能を越えるシンギュラリティが到来すると予言

「シンギュラリティSingularity」という言葉が最初に登場したのは、1958年、物理学者のスタニスワフ・ウラムによるフォン・ノイマンへの追悼文とされる。アインシュタインと並ぶ20世紀が生んだ超天才で、コンピュータの原型を考案し(ノイマン型コンピュータ)、ゲーム理論を創始し、マンハッタン計画で原爆製造に大きな役割を果たした物理学者ノイマンと、ウラムは「どんどん加速する技術の進歩と人間の生活様式は、この種族の歴史の中で、それを超えると、われわれが今知っている人間のあり方が続きようがなくなるという、ある本質的なシンギュラリティに近づきつつあるように見えた」と話したのだという。

 よく知られているように、未来学者のレイ・カーツワイルは、2045年には機械(AI)が人間の知能を越えて社会が根本的に変容するシンギュラリティが到来すると予言する。トランスヒューマニストであるカーツワイルにとって死は「技術的問題」であり、「技術(テクノロジー)」によって解決できる課題にすぎない。

「われわれの生物学的身体バージョン1.0はひ弱で、無数の故障モードに陥るし、もちろん煩瑣なメンテナンスの儀式も必要だ。人間の知能はときとして創造性や表現力の高みに昇ることができる一方で、人間の思考の大部分はどうでもいいささいなもので、限界の中に閉じ込められている」とカーツワイルは嘆く。近視になれば眼鏡をかけるように、身体に不具合があれば、それをより高機能なデバイス(機械)に置き換えていくのはきわめて自然なことなのだ。

 オコネルが指摘するように、「トランスヒューマニズムそのものの根本には、自分が間違った素材に閉じ込められていて、われわれのこの世にある姿という材質に制約されているという感覚」がある。

 だとすれば、やるべきは寿命脱出速度を目指して技術の進歩を「加速させる」こと以外にない。だからこれは、「加速主義」とも呼ばれる。

 カーツワイルは、進化を遺伝的変異と自然淘汰のランダムな出来事ではなく、「秩序が増すパターンを生み出す過程」というシステムだと考えている。「進化はマシンの完璧な秩序と管理に向かって前進する」のだ。

 いうまでもなくこれは、ユダヤ=キリスト教的な一神教の物語(世界は神の意志に従って前進する)の新たなヴァ―ジョンだ。「テクノ至福千年信者(ミレミアン)」のカーツワイルは、堕落した境遇(コンディション)からテクノロジーによって脱し、非肉体化する人類の未来を思い描く。楽園追放以前のまったき状態、すなわち神との一体化は、GOD(一神教の神)ではなくTEC(技術)にとって代わられるのだ。――こうしたヴィジョンをユヴァル・ノア・ハラリは「ホモ・デウス」と名づけた。

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