史実なのはあの痴情事件だけ?話盛りすぎな幕末の大岡越前エピソード集「大岡政談」

写真拡大 (全3枚)

「名奉行」「庶民の味方」として時代劇でもおなじみの大岡越前(おおおかえちぜん)。「越前」は官名に当たり、実名は大岡忠相(おおおか ただすけ)といい、江戸時代中期に活躍した幕臣ですが、後に活躍認められて、西大平藩の初代藩主となります。

町奉行から寺社奉行を得て大名になったという、江戸時代を通して唯一ひとりの異色の経歴の持ち主です。

大岡忠相(wikipedia)より

彼が活躍した町奉行時代のエピソードは、幕末から明治期にかけて「大岡政談」としてまとめられているのですが、その裁可の一つに次のような話が残されています。

あるとき、子どもの親権を争う生みの母と育ての母に対し、大岡は両者にその両腕を引かせて勝った方を実母と認めると宣言。両者は当然必死に子の上を引き合います。ところが、痛がる子どもの泣き声に思わず育ての母は手を離してしまいます。負けてしまったと悲しむ育ての親でしたが、大岡は手を離してしまった母親に子を想う心を感じ取り親権を認めました。

一見人情味あふれる話ですが、これは後の講釈師によってつくられた架空の話。

「大岡政談」に描かれた大岡は、その公明正大な人柄から人気を集めましたが、実話として確実なものは一件しかないそうです。それが世にいう「白子屋お熊事件」。

これは、「白子屋」という材木問屋の中で起きた痴情事件で、政略結婚のため好きでもなかった相手と結婚させられた嫁の「お熊」が、浮気相手に本気に熱を入れ、実の母親と下女をも巻き込んで殺害しようとした事件。

被害者の訴えで、企みが明らかになると、主犯のお熊は市中引き回しの上、獄門磔という当時としては最も厳しい罰が与えられたほか、次々と関係者が処罰されました。

事件の発生から処罰まで、よほど当時の人々の興味を惹きつけたのでしょう。後にお熊は、人形浄瑠璃や歌舞伎のヒロインにもなります。

「大岡越前守 坂東彦三郎」豊原国周 画

晩年には徳川吉宗の葬儀の諸事も手配した大岡は、病気を理由に一切の幕府の役職から離れ、1651(宝暦元)年12月19日、病気によりなくなってしまいます。

実際の大岡は「大岡政談」に書かれるような英雄的な存在ではなかったのかもしれません。実際、大岡自身が記した日記を読んでも、真面目で几帳面な性格の持ち主だったようです。

ですが、その努力型の真面目な人物だったからこそ、彼が町奉行から大名にまで出世できた秘訣なのかもしれません。

参考

大石学『大岡忠相』(2006 吉川弘文館人物叢書)「大岡政談 白子屋お熊」『砂村陰亡丸の余苦在話』