女には少なからず人生に一度、“大人の男”に恋する瞬間がある。

特に20代前半、社会人になりたての頃。

だが場合によっては、その先にはとんでもない闇が待っている場合も…なくはないのだ。

◆これまでのあらすじ

大阪に帰省し、圭太との別れを決意した咲希は東京に戻り、別れを告げようと圭太の家に向かった。

しかし、そこで圭太の彼女であり咲希の上司・梨江子と遭遇

その場で、圭太は梨江子と咲希の両方を失った。




「私は、もうこんなことはしません。また明日、会社で」

そう圭太に告げたのは、昨夜のこと。

梨江子が突然現れたこともあり、圭太とはきちんと話はしないまま勢いに任せて家を後にしてしまっていた。

圭太は理解しただろうかー。

咲希はエレベーターに乗り、オフィスへと向かう。入社してからまだ4ヶ月しか経っていないが、随分と長い時間が経過したような感覚があった。

圭太と出会い関係を持ち、悠と別れ、梨江子を裏切り…。そしてついに圭太とも別れた。咲希はどこか人ごとのようにこの4ヶ月の出来事を回想した。

「もう男の人なんて信用しない」

咲希は、そんな思考には陥りたくなかった。

圭太の家に行ったことも、悠と別れたことも、梨江子が圭太の彼女と知った上で関係を続けたことも、昨日別れを告げたことも、すべて咲希が自分で決断したことだ。

誰のせいにもできないー。

特に、梨江子を傷つけたという事実を思うと、咲希の心はきつく締めつけられた。



朝から圭太とは何度かすれ違ったが、目が合うことは一度もなかった。その日の圭太は、周りの人が心配するくらい苛立っているようだった。

そんな圭太の姿を咲希はどこか冷めた目で見ていた。つい1週間前まであれほど恋焦がれていた男なのに、つくづく人間の感情というのは不思議だなと感じる。

梨江子は、朝から引き継ぎ業務で慌ただしそうに過ごしていた。罪悪感を感じていた咲希は、梨江子の忙しそうな様子に心のどこかでホッとしてしまう。

「ちょっと休憩しない?」

だから、話しかけられた時は声がひっくり返ってしまった。明らかに動揺している咲希の様子に、梨江子は苦笑していた。


突然梨江子に呼び出された咲希。梨江子の思いとは?


「あ、あの、圭太さんのことは本当にごめんなさい。私、知ってたのに…」

休憩室で咲希は口を開いた。改めて事実を口にすると後悔の念が一層強くなる。

「…ううん。私も咲希ちゃんのこと試すようなことしてしまったし。実は、圭太と別れる口実みたいなものをずっと探してたの。結果的に咲希ちゃんを利用したみたいな形になってしまったよね」

「……」

「咲希ちゃんくらいの年齢の女の子からしたら、圭太はすごく大人で素敵に見えるよね。そもそも年上っていうだけでなんだかカッコよく見えちゃう」

その言葉は、まるで圭太が魅力的な男性のように思えてくるものだった。だが梨江子は、こう続けた。

「でも、ただ年上の人がオトナな男ってわけじゃない。知らない世界を見せてくれる人がオトナという訳でもない。仕事もできて顔もかっこよくて、一見するとオトナに見えるかもしれないけど、あんないい加減な男はただのダメ男。

…なんて偉そうに言いながらも、私もちょっとは好きって思ってたんだけどね」

そう言う梨江子の鋭い眼差しの奥には、切ない表情が混じっていた。

「今回は災難だったけど、次は良い男の人に巡り会えるといいね。お互いに」

梨江子の優しい言葉に、咲希の罪悪感は少しばかり薄まるような気がした。

今回は運が悪かったー。次こそはー。

咲希が心の中でそうつぶやいていた時に、梨江子は言った。

「あ、今男運なかったなんて思ってない?」

「…図星です」

「違うよ。男運がなかったんじゃなくて、ただ男を見る目がなかっただけ。これからたくさんの人に出会って、いろんな経験をして、見る目を養って、本当に自分にとって大切な人を自分で見抜くんだよ」

「見た目とか、肩書きとかそんな上っ面の、誰かと替えのきくものじゃなくて、自分の心が柔らかく穏やかでいさせてくれる人をね」

梨江子の言葉は、咲希の心にスッと入っていった。

その瞬間、完全に圭太への気持ちを断ち切れていることに気づく。

圭太の異動を知ったのは、その日の午後だった。9月から圭太は大阪支社へ異動となった。




梨江子が退社し、圭太が大阪支社へと異動となった9月は瞬く間に過ぎ、10月も終わろうとしていた頃。

咲希は同期に誘われて、食事会に来ていた。

最近はこうした誘いにもなるべく顔を出し、毎回それなりに楽しい時間を過ごすのだが、咲希が魅力的だと思えるような男性にはなかなか出会えなかった。

「ねえ、このあと二次会の途中で抜けて、俺の家に来ない?」

二軒目の場所へ向かっている途中咲希に話しかけてきたのは、ベンチャー企業を経営しているというマサキという男だった。

「え、マサキくんの家?どうして?」

咲希は不信感をこれでもかというほど顔に浮かべて言った。

「咲希ちゃんのこと二人きりでもっと知りたいなって思って」

咲希の冷たい表情にたじろぎながらも、マサキは必死で口説いてくる。


圭太の一件で痛い目にあった咲希の、マサキの誘いに対する答えは?


「私は行かないよ」

ニッコリと微笑みながらも、きっぱりと断った。

今の咲希ならもう、圭太のときのような、巧妙な誘いもうまくかわすことができる。

だが自分のことを本当に知ろうとしてくれる人はいないのではないか、梨江子の言うような“自分の心が柔らかく穏やかでいられるような人”には出会えないのではないか、と思ってしまう。

しかしそんな風に考えているうちは、理想的な相手には巡り会えないものだった。




時間の経過とともにそんな気持ちは薄れていき、いつの間にか咲希は仕事に没頭する毎日を送っていた。

そして年が明け、3月―。

もうすぐ入社して1年が経とうとしていた。咲希は4月から新入社員のOJTの担当になることを告げられていた。1年前からは想像もつかなかった成長ぶりに、社内のメンバーはもちろんのこと、取引先の担当者も驚いてくれている。

相良渉(さがらわたる)もその内の一人だった。

渉は、咲希が入社してすぐ、まだ名刺の渡し方もぎこちなかった頃、梨江子に連れられて訪問した取引先の担当者だ。

そして夏休み前、咲希のミスでクレームの電話がかかってきて、圭太に対応してもらった会社の人でもある。そんな取引先にも、咲希は一人で訪問できるまでになっていた。

しかしクレームの電話以来、咲希が一人で訪問するのは初めてのことで、案内された会議室で一人緊張していた。

「高宮さん、久しぶりだね。お待たせしました」

通された部屋はやけに広く感じ、座っているべきか立っているべきか分からず、意味もなくバッグの中を整頓していた時に、渉はやって来た。

咲希は慌てて立ち上がり、挨拶をする。

クレームの電話をかけて来たのは渉ではなかったが、やはり咲希は緊張していた。それでもなんとか契約の更新を一通り済ませ、咲希と渉は会議室を出た。

「それにしても高宮さんの成長ぶりには驚かされたよ」

「ありがとうございます。自分ではよくわからないですが…」

咲希の発言に、“自分ではわからないよね”と渉は声を出して笑った。

「初めてうちに来た時の新人感はもうすっかりなくなってるよ」

渉はまっすぐに咲希を見つめて言う。その言葉は一つ一つが丁寧で、咲希の耳に心地よく届いた。

「そんな昔のこと覚えていてくださってるなんて…」

まっすぐに褒められ、咲希は少し照れなら言った。

「そりゃあね。一生懸命頑張っている姿は、ちゃんと見てくれている人がいるものだよ。だから、高宮さんは高宮さんらしくまっすぐそのまま頑張って。何か困ったことがあれば、クライアントだとか気負わずにいつでも相談しに来ていいから」

渉の言葉に、心が柔らかく、穏やかになっていく。しかし咲希はまだその気持ちの変化に気がつかないでいた。

また、桜の季節がやって来る。これからどんな新しい出来事が待っているのだろう。

咲希は、まだ知らない未来に胸を膨らませ、1年前は知らなかった感情を抱えながら、明るい一歩を踏み出した。

さっと吹いた風は、まだ冬の寒さを包んでいた。

―Fin.