「彼女を見る目が変わった…」。秘書の女と一晩過ごした男の、胸の内とは
世の中は、弱肉強食の世界だ。
特に、この東京で生きる男たちにとっては。
皆、クールな顔をしながら、心に渦巻くどす黒い感情を押さえつけるのに必死だ。
弁護士としてのキャリアを着実に重ねる氷室徹(34歳)は、パートナー目前。年収は2,000万を超える。圧倒的な勝ち組と言えるだろう。
しかし、順風満帆に見えた彼の人生は、ある同級生との再会を機に狂い始めていく。
◆これまでのあらすじ
「そんな怖い顔して、どうかされましたか?」
朝8時。氷室がしかめ面で自分の携帯をいじっていると、昨晩から一緒にいる宮瀬は、隣で不思議そうに尋ねた。
仕事用の携帯ならまだしも、私用の携帯を見るのにそんなに顔をしかめる必要があるのか、とでも言いたいのだろう。
「ちょっと、野暮用でね」
具体的には、妻からの着信とメッセージに辟易しながらも、ひとつひとつを確認し、それらすべてをカバーした内容の返答を考え、入力していたのだ。
オフィスに向かう途中、不意に宮瀬が足を止める。
「コーヒーでも飲んでいきましょうか?」
それは、氷室がいつも出勤前に足を運んでいるコーヒーショップの目の前だった。
−俺がここのコーヒーが好きなこと、覚えていたのか。
どこかの海外ドラマのように、秘書が自分のコーヒーの好みを把握していて、毎日自分の出勤時には用意されている…。そんな光景に少しは憧れていたことはあったが、実現するなど考えたこともなかった。
常に完璧な仕事をする宮瀬は、ボスである自分が好きなコーヒーショップの名前をあくまで“仕事”として覚えていたのか、それとも…。
勝手な妄想が氷室の頭の中に広がっていく。
「今日はブラックコーヒーの気分ですか?それともカフェラテ?」
「…じゃあ、ブラックで」
彼女は、氷室が気分によってブラックコーヒーとカフェラテを変えていることを把握しているらしい。
宮瀬は氷室のことをよく観察しているというのに、氷室は宮瀬のことなど何も知らない。
−よくよく考えてみたら、仕事周りの人間との関わり方なんて、昇進に関係なければどうでも良いと思ってたな。
そんなことを考えながらオフィスに入ると、氷室をある人物が出迎えた。
宮瀬のおかげか、事務所内の噂は一段落…。そして氷室に再びチャンスが舞い込む!?
捨てる神あれば…
「よっ、氷室!」
そこには、さわやかな朝一番のオフィスに似つかわしくない、異様に元気な大男がいた。
「ああ、稲垣か。今日はアポイントの日だったな」
いつもなら宮瀬が先に出勤していて、彼女が会議室に客を通していてくれるのだが、彼女は今日、氷室の隣にいる。正確には、昨晩からだが。
「ご案内して」
「はい、先生。稲垣様、どうぞこちらに」
宮瀬は氷室の目配せを受けるや否や、そう返事して稲垣を会議室まで連れていく。
これまで、ただの優秀な秘書としか考えていなかったが、“昨日の一件”から、何とも言えない情のようなものが湧いているのに氷室は若干の気まずさを感じていた。
−そんなこと考えている場合じゃない。仕事に集中しよう。
オフィスに向かう途中でパン、と自分の頬を叩く。
すれ違う後輩のアソシエイトが何事かと振り返るが、何も言わずに通り過ぎていく。その表情に、昨日のようなよそよそしさは見当たらなかった。
稲垣は、筑波大学附属高校時代の同級生であった。氷室と同じく早稲田大学の法学部に進み、弁護士の資格は取らずに大手重工業の総合職として入社した。
入社してすぐは営業の配属だったらしいが、本人の希望と適性が認められ、入社5年後に法務部に配属されてからはずっとその辣腕を振るっているらしい。
目の前で快活にしゃべる旧友は高校時代からの付き合いで、非常によく知っている。少なくとも堀越よりは。
−だめだ…。
堀越との一件があってからというもの、彼のことが脈絡なく頭の中にちらつくようになってしまった。
慌てて他のことを考えようとしたが、稲垣が話し始めたのは、なんと、今何かと話題の機械学習と…それにまつわるニューラルネットワークの話題。
否が応でも堀越の顔が頭に浮かび上がってくる。最悪だ。
しかし、その氷室を急激に現実に引き戻したのも、稲垣の言葉だった。
「そういえば、今日は新しい報告もあるんだ」
高校時代の旧友が運んで来た朗報。それは一体…?
吹いてきた追い風
「なんだよ。お前の結婚報告じゃないだろうな?」
氷室が軽口をたたくと、稲垣も乗ってくる。
「違うよ。その話になる度に、お前に先を越されたのはなぜか、自問自答してるけどな」
そうじゃないんだ、と襟を正して彼は続けた。
「前に言っていた技術、思うよりもかなり早く形になりそうなんだ 。近いうちに正式に依頼することになりそうだ」
その言葉に、氷室の胸は高鳴った。
「本当か!?」
正直、実現可能性の低い案件だと思っていたからだ。
「ああ。この間話していたマッピングツールな。技術者が頑張ってくれて、他の会社に先駆けてできそうなんだ。中でもカギになったのが…」
そういって、稲垣は話を次に進めようとするが、その単語が出てこないらしかった。
「けい、けい…」
マッピングツール、ときて『けい』から始まるといえばこれしかないだろう、と氷室は助け舟を出してやることにした。
「形態素解析だろ。日本語は欧米諸国の言語と比較して単語ごとに区切られていないから難しいとされてる」
稲垣は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。氷室は肩をすくめて言った。
「なんだよ。俺だって流行技術の勉強くらいするさ」
堀越の案件での失敗を踏まえて、氷室は情報技術に関しての書籍を読み漁っていたのだ。
−俺は、同じ轍は踏まない。
それは氷室の意地でもあった。そして今回は非常にうまくいった、と確信したのだった。
面談もつつがなく終わり、稲垣を玄関まで送り届けた際、「こう言ったらなんだけど」と言って彼は足を止める。
「お前、変わったな。もちろん、いい意味だよ。社には“詳しい弁護士がいる”って自信持って言えるよ。ありがとうな」
おそらく、先ほどの会議室でのことを言っているのだろう。
そう、これまでは“自分は法律のことさえ分かっていればいい”と思っていた。しかし、クライアントの評価軸はその1つとは限らない。
氷室は、自分の中にこれまでにないほどのやる気が湧いてきたのを感じた。
堀越とのことで絶望を感じ、“自分は間違っているのはないか”とすら思っていた。
しかし、こうやって今日、新しい仕事が舞い込んできた。しかも今度は、大手企業相手の案件だ。
−俺は正しかったんだ。
身に覚えのないいじめなんかで、自分を陥れようとしてくる堀越に気を取られていたことを、心底後悔する。
−あいつに構うなんて、時間の無駄だったな。
堀越のことなど、さっさと忘れよう。
氷室は、新しい案件に取り組むべく、胸を張って自分のオフィスのドアを開けた。
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仕事で運が向き始めた氷室。順調に見えたが…?