男も女も、誰だって恋愛しながら生きていく。

だから愛するカレには、必ず元カノがいる。

あなたの知らない誰かと過ごした濃密な時間が、かつて存在したかもしれないのだ。

愛するカレは、どんな相手とどんな人生を歩んでいたのか――?

幸せ未来のため、相手の過去を知ることは、善か悪か。

あなたは、愛する相手の過去が、気になりますか?

◆これまでのあらすじ

29才の南美は、6才年上の恋人・数也がプロポーズを考えていると知り、幸せの絶頂にいた。だが同時に、彼の2度の結婚歴が気になり始める

二人の元妻たちと密会するが、その行動に気づいた数也から別れを告げられてしまう。

しかも数也には3度の結婚歴があると判明。最初の妻・平木真穂とは交通事故で死別していたのだ。

かつての恋人・拓郎の知らせで、数也の本心を知った南美は、彼を連れて真穂の遺族のもとへ向かうのだった。




世田谷区の閑静な住宅街はすっかり秋が深まり、昼過ぎでも、辺りは夕焼けのような柔らかいオレンジの陽に包まれている。

3代続く老舗の蕎麦屋には、のれんが掛かっていなかった。

ここは平木真穂の実家だ。事前に訪問することを告げると、今日は休業日とのことだった。

「来るのは何年ぶり?」

南美は、隣で緊張して固まっている数也に尋ねた。

「…12年ぶり」

「ははは、干支一周だね」

南美はあえて軽口を叩いてみせた。しかし数也は押し黙る。

無理もない。数也と学生結婚した真穂は、新婚一カ月のゴールデンウィークに、数也が運転する車の事故でこの世を去った。

そして数也は、真穂の父親が喪主を務めた葬儀に出ていない。それが12年前だ。

「いまさら、どんな顔して会えばいいんだろう…」

数也は声を落とした。

「大丈夫だよ、心配いらないよ」と南美は言った。

「数也さんの過去を知っていく中で、平木真穂さんのことも知って、私、この蕎麦屋さんに足を運んだの。そのとき、真穂さんのご両親とは話した」

真穂の両親は12年経った今も、数也に対する怒りを抑えられずにいた。娘を奪い、そして逃げるように姿を消した男を、許せるはずもない。

けれど南美が「数也さんを連れて店に行きます」と伝えたとき、ある約束をしてくれたのだ。

「怒鳴ったり殴ったりしないで、ちゃんと話をしてくれるって約束してくれた。だから、しっかり謝ろう?」

「怒鳴られたり、殴られたほうがマシだ…」

「何言ってるの」

いつになく弱気な数也を見て、南美は優しく声をかける。

「…俺って、サイテーだろ…?」

数也がボソッとつぶやいた。

「南美は俺のこと『理想の人』とか『完璧だ』とか言ってくれてたけど、実はこんなにだらしない人間なんだよ…」

たしかに、数也の虚像は完全に崩れ去っていた。南美も決別の想いを固めたからこそ、言えることもある。

「私の元カレを、だらしないまま世に放り出して、次に付き合う子に迷惑をかけたくないから」

明るく言い切って、南美は蕎麦屋の戸を開いた。

12年ぶりに会った真穂の両親に、数也は何を言うのか…?

「数也くん、ひさしぶりね」

真穂の母・久子は、おだやかな笑顔で二人を迎え入れた。数也はすぐに頭を下げる。

「ご無沙汰してしまい、大変、申し訳ございませんでした」

「……」

途端に久子は無言となった。

数也は頭を深々と下げたまま、その場から動こうとしない。このまま久子が何も言わなければ、そのうち土下座し始めるかもしれない。

「…とりあえず、そこ座ってて。今、お茶出すから」

久子はそう言って厨房へ消えた。厨房に真穂の父・徹雄の気配はない。

南美は、頭を下げたまま固まる数也を促し、二人で着席した。

南美と数也の間にも、しばらく無言が続く。わずかに視線を動かせば、数也は膝に置いた拳を震わせていた。数也にとってこの時間は、とてつもなく長く感じられるはずだ。

おそらく1階が店舗で、2階が住居なのだろう。奥の階段を降りてくる足音がして、南美はハッとする。

音の大きさで男性だと分かったからか、数也はすぐに席を立ち、また深々と頭を下げた。


「南美さん、どうも」

階段を降りてきたのはやはり徹雄だったが、わざと南美にだけ声をかけた。

「お義父さん、御無沙汰してしまい、大変申し訳ござ…」
「頭をあげなさい」

徹雄は、数也の言葉を途中で遮った。

「普通にしていなさい。座りなさい」

それでも数也は座らないので、徹雄が先に着席する。ちょうど同じタイミングで、久子が人数分のお茶を用意して厨房からやってきた。

久子が腰を下ろしても、なおも数也は頭を下げたまま動かない。徹雄は口調を強めて「いいから、座りなさい」と言った。

微動だにせず下を向いている数也を見かねて、久子も続ける。

「数也さん、座ってよ」

「…失礼します」

ようやく数也が席に着くと、徹雄は間を置かずに話し始めた。

「今日はそちらにいる南美さんが、数也くんのことを店に連れてくると言うから、会うことにした。だが正直、どんな話をしていいのか分からない。まずは数也くんから何か話してくれないか」

徹雄は淡々とした口調だった。だが、必死に感情を押し殺していることは明白だ。

「…長い間、こちらを避けるような行動を取ってしまい、本当に申し訳ございませんでした…」

それから数也は、慎重に言葉を選びながらも、心の底からの謝罪を述べた。それが偽りのない本心だということは、南美にはよく理解できた。

だが徹雄と久子にとっては、どうなのだろうか。二人とも、じっと数也を見据え、彼の言葉に耳を傾けている。

誰も知らなかった、数也の本音。妻を亡くした男が、初めて語る想いとは…。

「僕は、あの時まだ、子供でした…」

気づけば、数也の目に涙がたまっていた。

「事故後、お二人に何を言われるか分からなくて、それが怖くて…本当に怖くて…。お二人と会うことも、葬儀に行くことも、とにかく怖かったです」

数也は、絞り出すような声で話し続ける。

「それに、葬儀に行ったり、お二人に会ってしまうと…真穂を…真穂さんを失ったことを、あらためて認めてしまう気がして、何もできませんでした…」

徹雄はじっと数也を見つめたままだが、久子は目を伏せた。

「こんなこと言うのはダメだと分かっていますが…。死にたい、と何度も何度も思いました。真穂さんのぶんも生きなきゃって思うけど…その数秒後には『お前に生きる価値はない』『死んだほうが楽だ』って、もうひとりの自分が迫ってくるんです」

数也の頬には、涙がつたう。南美は、その様子を何も言えずに見守っていた。

「とにかく僕は、真穂さんに…真穂に会いたかった…。真穂にもう一度でいいから、会いたかった…」

数也の目から涙がどんどんあふれだす。普段は冷静な彼がこれほどまでに感情を表に出すことを、今まで見たことがなかった。隣に座る南美まで、胸が苦しくなってくる。

「家に帰れば、真穂はもういないんだ、って思うんです。友達に会っても、真穂はもういないんだ、って思うんです。仕事してたら少しは忘れます。でも帰り道になった瞬間、真穂はもういないんだ、って…。家に帰ってもいないし、駅で待ち合わせて一緒に帰ることもできない…」


「だからきっとお義父さんお義母さんと会っても、真穂がいないんだ、って思うだけだからって…怖くて、ずっと逃げていました」

南美はハンカチをそっと差し出すが、数也はそれに気づいていないのか、自らの掌で涙をぬぐう。

「お二人は、覚えてらっしゃらないかもしれませんが…僕は子供のころから車が好きでした。それで自動車メーカーに就職しました。だけど車は、真穂の命を奪った凶器です…。僕は死にたいって思うのと同じくらい、車のことも嫌いになろうとしました。でも、できませんでした…」

再び涙が頬をつたい、声が震え始める。

「死にたくても死ねなくて…車も嫌いになりたくてもなれなくて…。僕は、何も考えずに生きよう、そしてただ時間が過ぎるのを待とうってそう思いました。真穂のことを思い出してしまう人間関係は、一度忘れてみようと思ったんです…」

そこまで言うと、すいません、と数也は一度話を中断して、大きな咳払いとともに涙を完全にぬぐいさる。場にいる全員が、彼の言葉の続きを待っていた。

フーッと息を吐いてから、数也は話を再開する。

「そして、なんとか普通の生活を取り戻して、人並みに恋愛をして、結婚もしました。2回しました。どちらの人のことも、ちゃんと愛していました。でも真穂さんのことだけは話すことができませんでした」

自分でもその原因はわかっていたんです、と数也は続けた。

「お義父さん、お義母さんと、こうして会うこともなく、謝罪することもないままに過ごしていたからです」

「…だから、こうして来たってこと?」

久子が重い口を開いた。しかし徹雄は、まだ押し黙っている。

「僕と会うことで、お義父さんお義母さんにまた深い悲しみを与えてしまっているかもしれません…。本当にすみません…。謝罪に来ることができなかったのは、そういう気持ちもありました」

「でも来てくれた」

久子は、少しだけ優しい表情でそう言った。

「正直、僕ひとりでは来ることはなかったと思います」

「南美さんのおかげ?」

「…はい、恥ずかしながら…そうです…」

「それには賛同する」

突然、徹雄が口を開いた。

「南美さんには前にも伝えたが、交際中の男性の元妻たちに会うどころか、元妻の両親に会いに来るなんて前代未聞だ。しかも相手は亡くなった元妻の両親だぞ?」

すみません、と南美はあの時のように謝った。

「だが嫌いじゃない」

徹雄もまた、あの時と同じ言葉を告げた。だが次の瞬間、徹雄の口調は一変し、射るような目で数也の方を見た。

「しかし、あなたの言い分は気に食わない。私たちは怒っているんだ。いまさらあなたの言い訳を聞かされても、心は動かない。怒りが静まることはない」

南美がちらりと横にいる数也を見ると、伏せた目の焦点が合っていなかった。頭が真っ白になっていることが、手に取るように分かる。

「付き合っていた女性に連れられてここに来たことも、情けなく思う。それでも男か、と怒鳴りたい」

お父さん、と久子がくぎを刺す。

「わかってる。怒鳴りはしない。南美さんと約束したからな」

南美は、約束を守ろうとしてくれる徹雄に、少し頭を下げる。

「今から感情的にならないように事実だけを話す。だから顔をあげなさい。こちらを見なさい」

数也はすぐに顔を上げ、徹雄をしっかりと見た。

「私たちは怒っている。だが、あなたを恨んだことはない」

「えっ…」

「もう一度言う、恨んだことはない」

そしてついに、数也の"怪しい行動"の謎が解ける。クアラルンプール出張の真実とは。

「あの交通事故に関しては、私たちも悔しくて何度も調べたが、ただただ不運な事故だった。数也くんに非はない。だから恨んではいない」

それに…、と徹雄は付け加えた。

「短い人生だったが、数也くんと過ごした最後の4年間、真穂は本当に幸せだったと思う。事故で死ぬその瞬間まで幸せだったはずだ。だから、あなたには感謝こそすれ、恨んだためしは一度もない」


徹雄をまっすぐに見つめる数也の目が、ふたたび濡れていく。

「あなたは『あの時の自分は子供だった』というが、人間に、子供も大人もない。みんな誰もが悩み、迷いながら、選択を間違いながら生きていく。そういう意味で、あなたの言葉を借りるなら、人間全員が子供だ。

私も妻も子供だ。だから、あなたに怒っている。とはいえ、こちらから会いに行くこともできた。なのに行かなかった。その理由は、あなたと同じだ。数也くんと会えば、一人娘の真穂の不在をどうしても感じてしまう。それが怖かった」

徹雄の隣では、久子がハンカチで目元を抑えている。

「12年の時が流れても、こうしてここに来てくれた勇気に免じて、伝えたい。私たちは数也くんと悲しみを共有したかった。真穂がいないことを再認識したっていい。とにかく数也くんと一緒に泣いて、抱き合って、悲しみたかった」

徹雄も目に涙をためていた。数也はもはや徹雄の顔を見据えることができず、体を大きく震わせて泣いた。

「なぜ、一緒に悲しんでくれなかったんだ!」

徹雄の声が大きくなると同時に、数也は嗚咽を漏らし始めた。

「たとえ真穂が亡くなっても、数也くんは私たちの家族だ。我が家の息子だ。家族というものは、悲しみも、喜びも、共有するものだと思う」

「すいません…すいません…」

数也は呻くような声で謝罪を繰り返している。だが、徹雄はさらに続ける。

「死にたくなるのは当然だ。怖くたっていい。悩むだろうし、迷うだろう。でも、それをどうして、たったひとりで解決できると思うんだ。そんなことができる人間はこの世にいない。全員が子供なんだ。子供だから誰かと一緒にいたいと思うんだ。それが家族だ」

気づけば南美も、込み上げてくるものを抑えられなくなっていた。どうしようもなく涙があふれだす。

「私はね、真穂の父としてだけでなく、数也くんの父としても、数也くんと一緒にいたかったんだ。それができなくて怒っている」

そう言うと、堪えきれなくなった感情を隠すように、徹雄は顔を覆った。

それから四人ともしばらく泣いていたが、おもむろに久子が「今日は、もうこのぐらいにしときましょうか」と言った。

「数也くん、今日を境にまたここにおいで。お互いの誤解は、ゆっくり解いていきましょう」

「ありがとうございます。ですが…」

口ごもる数也を、いいんだ、と徹雄が遮る。

「休業日とはいえ、色々とやることもある。次はまた蕎麦を食べにくると約束しなさい。それで今日はもう解散だ」

「…わかりました」

観念したように数也は頷き、姿勢を正してあらたまる。

「そしたら最後に、これだけはお伝えさせてください。お義父さんがおっしゃったとおり、自分も自分なりに、悩んで迷いながら決めたことがあります。それは会社のことです」

「…仕事が、どうした?」

「新卒以来、働いていた会社を辞めることにしました」

南美は驚いて、俯いていた顔を上げる。それは南美にとっても、全くの初耳だったのだ。

「外資の車メーカーだったよな。なぜだ?」

「マレーシアに支社を持つ、別の車メーカーに転職することになりました。そのメーカーは自動運転技術に関して、世界をリードしているメーカーです」

マレーシア。その言葉が、南美の心のどこかに引っかかる。

「さっきも言いましたが、僕は車のことが嫌いになれませんでした。でも少しでも、真穂のような悲劇が起きないように、少しでも世界から事故が減るように、自動運転技術の会社でがんばりたいと思っています」

「そうか。素晴らしいことじゃないか」

徹雄ははっきりと言った。

「交通事故を起こし、愛する家族を失くした者にしか分からない想いがあります。僕はその想いを胸に、この世から交通事故が消えるよう働きます」

数也は“ある頼み”を南美に告げて…。

真穂の実家を後にした南美と数也は、柔らかい日差しの中を目的もなく歩き続け、いつしか小さな川沿いに出た。

―がんばりなさい。

徹雄も久子も、数也にそう言った。

南美にも予想できなかった思いがけない言葉だ。数也なら、余計にそうだろう。

「…なあ、南美」

川のすぐ隣を歩いていた数也が、不意に名前を呼んだ。

「本当に、ありがとう」

「…いいの。別に」

短い言葉の中に数也の本音が詰まっている、そんな口ぶりだった。2年も付き合っている南美には、それがよく分かるのだ。

「何か話してくれないか?」

「えっ、私が話すの?」

「感極まったせいで頭が動かなくて、でも無言で歩き続けるのも、どうかと思って」

南美は「変な人」と呟いて、肩をすくめた。

「もう自分を隠すことはやめたんだ」

「そっか…じゃ、せっかくだから聞くね」

さっきから心に引っかかっていた、あのことを尋ねる。

「マレーシアのことなんだけど。前に一緒にクアラルンプールに行ったけど、もしかしてあれって…」

「そう。あれは実は、会社の出張じゃなくて、会社に休みをもらって、転職の面接のために行ったんだ」

「…そうだったんだ」

数也のその一言で、ずっと長い間抱えてきた不安が一気に吹き飛んでいく。

謎はきれいに解けた。ずいぶんと遠回りしたけれど。

もともと南美が数也のことを探り始めたのは、数也がクアラルンプール出張にかこつけて現地に住む元妻・福原ほのかと密会するのでは、と疑ったからだ。

おまけに数也は、クアラルプール行きを「会社の出張」と言いつつ、実際のところは有給休暇を申し入れていたから、余計に怪しくなった。

南美がほのか本人と会った際に、数也のクアラルンプール行きの理由が元妻との密会ではないと判明したものの、謎は残っていた。

それが今、この期に及んで解けてしまった。

隣を見ると、数也は困ったような笑みを浮かべている。

―勘弁してよ。困っちゃうのは、こっちだけど。

南美は苦笑するしかなかった。

「それで南美に頼みがあるんだ」

そう言うと、数也は立ち止まった。

南美はそれに気づかず少しだけ先を歩いてしまってから、数也を振り返る。


陽光が背後から差し込み逆光となって、数也がどんな表情かは見えなかった。眩しい光を避けるようにして、南美は顔の前に手をかざす。

「頼みって、なに?」

そう尋ねると、数也は言葉を選びながら切り出した。

「頼み、というか、願いというか…」

「うん」

「マレーシアに、ついてこないか?」

その瞬間、南美の時が止まった。▶Next:12月1日 日曜更新予定
次週最終回。数也の“願い”は、南美の人生を狂わせる…?