壇蜜を射止めた漫画家「清野とおる」の快活人生

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代表作『東京都北区赤羽』シリーズを描いた漫画家の清野とおるさん(39歳)。清野さんの漫画家になるまでの半生、フィクションから実録漫画へスタイルを変えたきっかけなどを伺った(筆者撮影)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむが神髄を紡ぐ連載の第72回。

実録漫画を描くようになったきっかけとは…

清野とおるさん(39歳)は実際にあった出来事を題材にした漫画を描く漫画家だ。


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代表作『東京都北区赤羽』シリーズは、清野さんが住んでいる赤羽で、実際に出会った強烈な個性を持つ人たちとの交遊が描かれる。

黎明期のウェブマガジンで地味に始まった漫画だったが、すぐに話題になった。

漫画の人気はもちろん、赤羽の知名度や人気をグッと引き上げた。

そして、2015年には『山田孝之の東京都北区赤羽』としてテレビドラマ化された。


2008年から続いてきた『東京都北区赤羽』シリーズだったが、2019年10月に発売された『ウヒョッ! 東京都北区赤羽』の6巻をもって完結した。

そして同日に『まあどうせいつか死ぬし ~清野とおる不条理ギャグ短編集~』(小学館クリエイティブ単行本) という作品集も発売された。

実はこちらは実録漫画ではなく、フィクションの漫画だ。

そしてこの取材を終えた後に思いもかけないニュースが入ってきた。清野さんがタレントの壇蜜さんと11月22日に結婚。都内の区役所に婚姻届を提出したのだ。妖艶な雰囲気をまとい、世の中年男性が憧れる存在を射止めた男として、清野さんへの注目が集まっている。

実は清野さんは『東京都北区赤羽』を描き始める前は、フィクションのギャグ漫画を描いていた。

この単行本に収録された漫画は、清野さんが誰からも認められない、漫画家として最もつらい時期に描かれた作品だという。

清野さんはどのような道を経て漫画家になったのか? そして現在の実録漫画のスタイルにたどり着いたのか?

清野さんが、新人時代に編集者と打ち合わせをしてつらい思いをしたという、神保町の喫茶店で話を聞いた。

清野さんは、東京都板橋区の住宅街で生まれ育った。

「特徴のない地味な街でした。でも小学生の僕にとってはそこが世界のすべてでした」


(筆者撮影)

清野さんはやんちゃな少年だったという。1980年代の少年がやったような遊び、例えばビックリマンチョコのシール集めなどは一通りやったし、駄菓子屋に売っていたかんしゃく玉や爆竹を歩道橋からまいて爆発させたりする、いたずらっ子な面もあった。友達もたくさんいた。

「勉強は一切しなかったですね。今思えば、その頃もっと勉強しておけばよかったと思います。母親は教師だったんですけど、特に勉強しろと強く言われたことはありませんでした。とにかく毎日遊んでばかりいました」

そんなやんちゃな清野少年だったが、遊ぶのはほとんど近所だけだった。いつも自宅から数百メートル圏内で遊んでいた。

将来住むことになる赤羽までは自転車で15分くらいの距離だったが、それでも遊びにいくことはほとんどなかった。

「小学生の頃は迷子になるのがこの世でいちばん怖かったんです。とにかく迷子になったら、餓死すると思い込んでました。人に頼るという発想もありませんでした。

今思うと、なんであんなに迷子が怖かったんだろう? と思いますけど」

漫画家である伯父に、描き方のイロハを教わる

そんな小学生時代、清野さんの実家には、父親の兄である伯父が同居していた。伯父は、両親が買ってくれないファミコン(ファミリーコンピュータ)を買ってくれるなど子供に理解のある人だったので、しょっちゅう部屋を訪れていた。

当時、伯父は漫画の仕事をしていたため、お願いして絵を描いてもらった。

「伯父には漫画の描き方のイロハも教えてもらいました。集中線の描き方や、定規の下に10円玉を貼って線を引くと、インクがにじまない、とかですね。子供の頃に、漫画のテクニックを学べたのはラッキーでしたね。

ちなみに伯父は今も元気です」

そうして中学校に進学したが、やっぱり勉強はしなかった。

「中学になっても、まだ物心がついてなかったんだと思います。それくらい本能のままに生きてましたね。

流されるまま、赤羽にある男子校に進学しました。今はずいぶんかしこい学校になったようですが、僕が行ってた頃はそうでもなかったですね。その段階でやっと『もっと勉強しておけばよかった……』と後悔しました」

清野さんは高校の入学式の日の光景を鮮明に覚えている。

1人に1つずつロッカーが配られ、その中に教科書を入れて自分の机の上に置いた。

クラス全員の前に、灰色の無機質な四角いロッカーが並べられている。

「僕にはロッカーが墓石に見えたんですよね。全員が初対面だから会話もなくシーンとしている。とんでもなく苦痛な時間でした。

『ああ、なんでもいいから早く時間よ流れてくれ!!』

って祈りました。

そうして時間が流れて未来人になった僕から見ると、当時は絶望してましたけど、今振り返ると面白……いや、どう考えてもつまらなかったですね(笑)」

漫画の投稿を始め、デビューすることができた高校時代

そんな高校時代、清野さんは『VOW(バウ)』(宝島社)に投稿していた。

『VOW』とは雑誌『宝島』(宝島社)で連載していた読者投稿コーナーで、街で見つけた変なもの、新聞などの誤植などを取り上げる、面白コーナーだった。

「『VOW』にはとても影響を受けてますね。僕の名前が初めて世に出たのが『VOW』でした。雑誌『宝島』のコーナーに載りましたし、単行本にも掲載されました。

投稿すればこうやって認められるんだって理解しました」

そうして高校時代から漫画の投稿を始めた。ただ最初は、漫画家になろうという強い意思があったわけではなかったという。

「『ヤングマガジン』(講談社)の新人賞に送りました。この時は完全にお金目的でしたね。賞金が欲しかっただけです」

処女作は『猿』というタイトルの作品だった。

中学校に猿が転校してくる。ただ、猿か人間なのか判別が微妙な存在で、クラスメイトはどう接していいかわからなくて戸惑う、というシュールなギャグ漫画だった。

「今思うと、なんでそんな漫画描いたのか全然わかりません。ただとにかく1番下の賞を取ることができて無事賞金をいただき、担当編集者がつきました」

そして1998年『ヤングマガジン増刊青BUTA』(講談社)にて『アニキの季節』が掲載された。

高校3年生で漫画家としてデビューすることができた。

「当時は1人で漫画を描いていました。SNSもない時代ですし、誰ともつながっていませんでした。ただ噂話で、知り合いの知り合いが同い年で漫画家を目指しているという話を耳にしました」

清野さんは高校時代はスーパーでアルバイトをしていた。同じスーパーで働くおばちゃんの友人が、漫画家の押切蓮介さんのお母さんだった。

押切蓮介さんは現在『ピコピコ少年』『ハイスコアガール』など、たくさんの人気作品を持つ漫画家だ。

清野さんは当時、同じ年齢で漫画を描いている人がいると知って、接触を図ろうと思った。

「パートのおばちゃん経由で押切くんの電話番号が回ってきて、公衆電話からかけました。かなり緊張しましたね」

電話で話をしたところ数分で打ち解けあうことができ、すぐに友達になった。

休日には2人で神保町の古本屋巡りをして、マクドナルドでご飯を食べて帰ってきた。

「陰鬱な『まんが道』みたいな感じでしたね(笑)。2人共、満賀道雄(藤子不二雄Aがモデルのキャラクター)みたいな感じでした」

ひたすら漫画を描いた大学時代。連載が始まるも…

高校卒業後は、大学に進学することにした。

「単純に猶予期間が欲しかったんです。大学の間にちゃんとした漫画家になれたらいいなと思いました。もし大学を卒業するまでに目に見えた成果がなかったら、無難に就職でもしようと決めていました」

大学ではサークルやゼミには入らず、友達もまったくいなかった。

大学1〜2年の時にとにかく漫画を描いて、『ヤングジャンプ』(集英社)に投稿しまくった。

「大学3年の時にヤングジャンプで『青春ヒヒヒ』の連載が決まりました。当時、まだ世間的にも人気のあった不条理漫画でした」

連載が始まったのは2001年、大学4年の秋だった。1週間に14枚を仕上げるという週刊連載は想像よりもずっと大変だった。

押切蓮介さんに手伝ってもらってなんとか仕上げた回もあったという。

ただ残念ながら、連載は長続きせず単行本2冊分で打ち切りになってしまった。

「その打ち切りから次の連載が始まるまで1年間は完全に無職になってしまいました。当時は、連載を1回でもできたら、その後もずっと漫画家としてやっていけるもんだと勘違いしてました。打ち切られて、ポーンと社会に放り出されて、

『うわ、やべえ!! なんにもないじゃん!!』

ってすごい焦りましたね。

ただこの頃はまだ絶望はしていませんでした。『描けばなんとかなるんじゃないか』と思っていたので、とにかく描きました」

1年間の無職生活の後やはりヤングジャンプで『ハラハラドキドキ』という漫画を始めることができた。

腹に人面瘡が宿った高校生男女が主人公という、やはりシュールなギャグ漫画だった。

しかし『ハラハラドキドキ』もあえなく打ち切りになってしまった。

「それまでは実家暮らしでしたが、1人暮らしをするために赤羽に引っ越しました。

『もっといい作品を描こう!! 漫画だけに専念しよう!!』

と思っての覚悟を決めた移転でした」

最も苦しい時期を迎えた清野さんに転機が訪れる

『ハラハラドキドキ』が終了したのが2003年、そして『東京都北区赤羽』の連載が始まったのが2008年。その間の5年間が、清野さんの漫画家人生の中で最も苦しい時期だったという。

そしてその時期に描いた作品が先日発売になった『まあどうせいつか死ぬし 〜清野とおる不条理ギャグ短編集〜』に載っている作品群だ。


つらい時期を思い出す靖国通りと白山通りが交わる交差点(東京・神保町)にも、今回立ち寄った。

「ヤングジャンプの専属契約は2006年に切れました。そこから色々な出版社に持ち込みしましたけど、全然相手にされないことも多かったです。編集部に行っても、名刺も渡されず、いかにも『お前には興味はない』と言いたげなやり取りをして帰されました」

漫画専門誌以外の雑誌に漫画を描くのは、“横道にそれる”というイメージがあったので避けていたが、そうも言ってはいられなくなった。

当時やった仕事の中には、屈辱的な気分になるものもあった。

「『まあどうせいつか死ぬし 〜清野とおる不条理ギャグ短編集〜』に載っている漫画を久しぶりに読み返すと、当時の自分をありありと思い出しました。

とてもつらくて、未来は全然見えなかったけど、それでも30歳までは頑張ろうと決めていました」

その頃、仕事とは別に、ホームページやブログで雑記を書き始めた。反応は上々で、

「日常ってネタになるんだ」

と感じた。

「プライベートで出会った、赤羽の街にいる常軌を逸した人たちを見ていると『自分が描いてる漫画よりもよっぽど面白いじゃないか』とも思いました。

つまり『創作漫画ダメかも?』と『赤羽はネタになるかも?』と思う時期がたまたま重なったんですね。

とにかく現実の赤羽を舞台にした漫画を描いてみました」

漫画は描いてみたが、なかなか掲載させてもらえる媒体は見つからなかった。その当時は清野さんの知名度はまだまだ低かった。無名の作家のエッセイを載せようと思う出版社は少ない。

そんな折、携帯サイト『ケータイまんが王国』で連載することが決まった。今では携帯電話やタブレットで漫画を読むのは当たり前になっているが、当時はまだ一般的ではなかった。漫画が電子媒体へ移行する黎明期に作られたサイトだ。

「失礼ながら、その会社にはプロの編集者がいなかったんですよね。

『やっちゃえばいいんじゃないですか? 怒られたら一緒に謝りましょう』

って軽く言われました。でも、その時はそれがむしろ吉と出ました」

攻めたスタイルの連載で『東京都北区赤羽』がヒット!

『東京都北区赤羽』は毎回全ページフルカラーで描き、実際の写真も満載するという攻めたスタイルの連載だった。

「ちから」のマスター、ペイティさん、ワニダさん……など力強いキャラクターが次々に現れる強烈な内容だ。

連載は人気になり、単行本としてまとめられた。

「それまで増刷というのは都市伝説だと思っていました。でも次から次に増刷が決まり、『こんなにも刷ってもらえるんだ!!』と驚きました。累計20万部を超えて、初めて“売れる”ということを体験しました」

連載が始まった頃は、生活のために隣町のお弁当屋さんでアルバイトをしていたが、人気が出てからはもちろんアルバイトをする必要はなくなった。

ただ、それでも悩みがなくなったわけではなかった。

「今度は、赤羽の漫画を描き続けるというのが想像以上につらくなってきました。

創作漫画を描いていた時は、とにかくネタを考えるのが苦しかったんです。慢性的にネタが足りなかった。

でも『赤羽』は逆でした。次から次にとんでもないネタが降ってくるんです。

『どのネタをどう描こう?』

『ちゃんと作品に昇華できるのか?』

などと考えているうちに、ネタに押しつぶされそうになりました。描きたいことはあるのに、自分の力が追いつかなくて描けない……という苦しみもありました」

『東京都北区赤羽』が成功すると、他媒体からも声がかかるようになった。

2015年には『東京都北区赤羽』の続編である、『ウヒョッ! 東京都北区赤羽』(双葉社)、『その「おこだわり」、俺にもくれよ!!』(講談社)、『ゴハンスキー』(扶桑社)、『Love & Peace 〜清野とおるのフツウの日々〜』(白泉社)と4つの連載が重なった。

「ラフな絵なら4つ連載もいけるかと思ったんですけど、つい描きこんじゃって。一度描きこんじゃうともう元には戻せなくなります。時間は全然足りなくなりましたが、それでも容赦なく、締め切りはやってきて。

『なんでこんなにたくさんの仕事を引き受けてしまったんだ……』

と自分の浅はかさを呪いました。全部辞めて逃げようと思ったくらいです」

しかし『東京都北区赤羽』の人気はさらに盛り上がり、2015年には『山田孝之の東京都北区赤羽』としてドラマ化された。そして、翌年には『その「おこだわり」、私にもくれよ!!』もドラマ化された。

「うれしかったはずですが、でもその頃は忙しすぎてあまり記憶がないんですよね。

振り返ると、人生でしんどくない時期ってないですね。仕事がない時はない時ですごいしんどかったです。

『仕事さえあれば自分の人生は満たされるはずなのに!!』

と毎日思ってましたけど、実際に忙しくなったら、休みたくて仕方がなくなってる自分がいます。結局ないものねだりなんですね」

赤羽に対する罪悪感

また清野さんには、少しだけ罪悪感があるという。

「今の赤羽は僕が『東京都北区赤羽』の連載を始めた頃とはずいぶん違います。赤羽がドラマ化されたあたりから街が少しずつオシャレに洗練されてしまった気がします。漫画で描いてきた「変な人」もすっかり見かけなくなりました。

もちろん、僕だけのせいとは思ってませんけど、オシャレ化した要因の1つくらいは自分にあるよな……と痛感しています。こういう街の変化が一概に悪いことだとは言わないですが、少なくとも僕の大好きだった、未知と刺激に満ちていた赤羽はもう存在しない。ひょっとしたら、自ら破壊する手伝いをしてしまったのかもしれないというジレンマはありますね。おこがましいですけど……」

長らく続いた『東京都北区赤羽』(2013年からは『ウヒョッ! 東京都北区赤羽』として『漫画アクション』(双葉社)にて連載)は2019年の初頭で最終回を迎えた。

他の連載も終了し、現在の連載は『東京ウォーカー』(KADOKAWA)の『東京怪奇酒』だけとなった。

「2019年はずっと単行本製作の作業をしていました。実は何作も連載していた頃と変わらないくらい、実作業をしていました。

特に『まあどうせいつか死ぬし 〜清野とおる不条理ギャグ短編集〜』はほとんどのページを修正する大作業になりました」

昔の原稿をそのまま単行本にも載せてもよかったのだが、やはり目に余る所は直そうと思った。そうしていったん手をつけ始めると、止まらなくなった。


『短編集』(上)に描かれている、漫画家人生で最もつらい時期に担当編集と打ち合わせた喫茶店。今回、同じ店でレアチーズケーキを食べてもらった(筆者撮影)

「セリフや絵はもちろん、ストーリーやオチまで変えちゃったところも結構あります。

若い頃、赤羽のアパートにこもって一生懸命描いた漫画を、今の自分がブラッシュアップさせてあげた感じですね。若き自分と今の自分がコラボしているような不思議な感覚でした。描きながら、当時のことを思い出しました。

こんな、世間の価値観から逸脱しまくったシュールな漫画を、絶対売れると信じて一生懸命描いていた若い自分をいとおしく感じました。今回出した2冊は

『はい、これで漫画家おしまい』

って言われても納得できるな、という作品になっています。

ここ10年でいちばん所得の低い年になりましたけど、ある意味漫画家としての原点に立ち帰れたような気がします。

原稿料の出ない作業を自ら進んでずっとしてましたから、今仕事をすると、

『漫画って描くとお金もらえるんだ!! すごい!!』

って、新鮮な気持ちが押し寄せてきます」

今後はどのような漫画を描くのか?

ちょうど40歳になる直前に、今までやってきた仕事に整理がついた形になった。

清野さんはこれからどのような漫画を描こうと思っているのだろうか?


「すでに新作のテーマは決まっています。内容はまだ言えませんが、初期の『東京都北区赤羽』のようにページ数に自由が利くウェブ媒体で連載できればと思っています。

最近は、気力にも体力にも限りがあるんだな、と強く感じています。だから本当に描きたいと思うことに絞って描いていくつもりです。正直、やりたくないことをやってるヒマはないですね」

なかなか認められずつらい思いをした創作漫画時代があったからこそ、『東京都北区赤羽』をはじめとする実録漫画が奥深い味わいの作品になったのだと思う。

そうして人気漫画家になった清野さんが、次にどのような漫画を描くのか? 心待ちにしたい。