サッカーは個人競技ではない。日曜日にコロンビアU−22と対戦した日本U−22の報道を通して感じたことは、まずこれだ。
 
 日本のメディアは概して横並びだ。監督記者会見や選手と接触するミックスゾーンにおける選手たちへの質問を聞いていると、メディアが報じたがっているムードというか方向性を感じる時がある。今回がそうだった。

 サバイバルレース。東京五輪に出場する最終メンバー入りを懸けた戦い、だ。サッカーの代表チームは一般的に23人で編成されるが、五輪のメンバーは18人。出場枠は5人少ない。これにオーバーエイジ枠(3人)が加わる。コロンビア戦に招集されたメンバーは22人だったので、この中から、生き残ることができる選手は半分しかいないことになる。「いまのままだと厳しいと思います」。実際、ある選手は試合後のミックスゾーンで肩を落とし、そう漏らしていた。

 そうした視点は確かにあっていいと思う。だが、五輪本番は来年の7月下旬だ。このコロンビアU−22戦にしても、日本のU−22が国内で初めて戦うお披露目的な意味を兼ねた一戦だった。準備試合は今後も用意されている。

 オーバーエイジの顔ぶれも決まっていない。どのポジションで競争が激しくなるかはそれ次第。サバイバルレースとは言っても、その実態はまだ鮮明になっていないのである。こう言ってはなんだが、候補選手たちの個性やキャラが一般的なサッカーファンの間に浸透しているわけでもない。久保建英、堂安律はともかく、としてだ。

 一方、試合は完敗に終わった。コロンビアU−22は、もう一度戦っても勝算が低そうな実力派のチームだった。「東京五輪で金メダルを目指す」(森保監督)という日本にとって、このホームでの0−2はショックキングな敗戦だった。

 メディアにとっても、サバイバルレースどころの騒ぎではないハズだ。もし試合前の段取りで、取材の方向性がサバイバルレースに決まっていたとしても、変更するのが筋だろう。報道する上で、まず目を凝らさなければならないのは試合内容だ。主役は試合なのである。

 サッカーは個人スポーツではないーーと言いたくなる理由だ。

 東京五輪と言えば、マラソンがそうであるように、出場枠を懸けた争いがテーマになりがちだ。女子のゴルフ然り。日本人の2枠目は渋野日向子なのか、追い上げ急な鈴木愛なのか。それとサッカーを同じ目線で語るなと言いたい。

 概して日本は報道を含め、各スポーツ競技を同じコンセプトで語りがちだ。その中心にあるのが野球になるが、それぞれの競技にはそれぞれのコンセプトがあることを忘れるべきではない。

 東京五輪の競技数は33。各競技を伝えようとする時、33通りの方法があると言うことだ。33のコンセプト、もっと言えば33の文化がある。それを伝えるのが五輪報道本来の意義ではないのか。「サバイバルレース」はステレオタイプな、雑というか安直な報道に見えてしまう。

 コロンビアU−22の話をすれば、まだ東京五輪の南米代表に決まったわけではない。南米予選はこれからだ。そして枠はわずか2つ。W杯(4.5枠)の半分以下だ。南米にはブラジル、アルゼンチンがいるので、日本U−22に完勝したコロンビアU−22が、予選を通過する可能性は決して高くない。

 ちなみに欧州の枠は4(カタールW杯は13枠)。五輪のサッカー競技は世界一決定戦とは言い難いレギュレーションで行われる。それにオーバーエイジという超特殊事項が加わるので、金メダルと言っても他競技の金とは重みが違う。五輪の男子サッカーは、そもそも実態が不鮮明な競技なのだ。 そうしたものとどう向き合うか。本来議論が必要だ。欧州で活躍するA代表の久保建英、堂安律をわざわざ、そこに呼ぶ必要があるのか。そのメリットとデメリットを天秤にかける必要がある。呼ぶのであれば、それなりの説明があって然るべきだ。