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コラム【注目の人 直撃インタビュー】

男性ホルモンが関係 認知症対策としての「色ボケ」の効能

清水国明さん(タレント・実業家)

 4度目の結婚をテレビで公表し、話題になったタレントで実業家の清水国明(69)。お相手は25歳年下のプロデューサー、奈穂さん(43)で、1歳になる息子にも恵まれていた。これで息子2人、娘3人、孫が5人。来年古希を迎える立派なおじいちゃんだが、仕事も夜も現役バリバリだ。

  ◇  ◇  ◇

■朝昼晩のときもある肉食

  ――本当にお元気ですね。

 まあそうなのでしょうなあ。十二指腸がんになったときも、医者も驚く回復ぶりで、トカゲの遺伝子混ざってますね、なんて言われましたから。実は手術後に処方された薬もほとんど飲まなかったんですよ。昨日も2時間半の睡眠時間でゴルフ場に行って18ホールを回り、そのあと夜中まで仕事して、家に帰ってから嫁とセックスしました。

  ――その若さの秘訣は。

 よく何か飲んでいるんじゃないかと聞かれるんですけど、何も飲んでません。食事は、食べたいときに食べたいものを好きなだけ食べる。朝昼晩が肉でもいいくらいで、今夜も女性3人と1ポンド(約450グラム)ステーキを食べに行くのですが、僕は2ポンド食べたりしています。酒も最近は缶ビール程度ですけど飲んでますね。

■69歳にして3日に1度ペース

 ――そんなに食べて、大丈夫なんですか?

 まあお腹がパンパンになるくらいですよ。ジムに通ったりもしません。頑張っていることがあるとすれば、セックスだけ。ある医学関係者に言われて、膝を打ったことがあるんです。精子をためておくと、「なんだ使わないのか」と体が解釈して、勝手に吸収してしまうのだそうです。それがなんと、老化要因となってしまう。オナニーでもいいから、3日に1度は出したほうがいいというのです。僕は今もそのくらいのペースでしてます。若いからセックスするんじゃなくて、セックスするから若いのです。

 ――昨今はちょっと何かあるとセクハラと騒がれ、親父ギャグも言いにくい時代です。

 僕は仕事の相手でも、そういうことを気にしたことはありませんね。「噂の!東京マガジン」(TBS系)でも女性スタッフの隙を見て、胸やお尻を触ってます。志垣太郎から「どうしてそんなことできるの?」って驚かれたり、「なんで止めないの?」って懲りない僕の代わりにスタッフから山口良一が叱られたりして、しっちゃかめっちゃかですけど。

 ――それでも、触り続けていると。

 性欲に駆られて、どこがと言われるかもしれませんけど、大きな無欲の人でいたいと思うのです。こんな話もあるんです。ある高名なお坊さんが弟子と行脚をしているとき、川を渡れないで困っている若い娘がいた。坊さんは娘を背負ってやるのですが、渡りながらお尻を触ってキャーキャー言わせている。それを見た弟子たちが宿に着いたとき「なんてことをするんですか」と問い詰めたところ、「なんだおまえたちはまだあの娘を背負っていたのか。わしはとっくにあの河原に降ろしてきたぞ」って。このとき、お尻に執着して悶々としていたのは弟子たちで、変に禁欲せず、触りたいときに触ったお坊さんの方がよほど精神は健全なんだというお話です。これと同じ境地というと言い過ぎかも知れませんけど、やりたいことを我慢せず、こだわらず、無邪気な欲と素直に付き合って生きたいのです。

 ――とはいえ、反動もあるのでは? 離婚は総じて大変といいますし、4度目の結婚を前に躊躇したりしませんでしたか。

 ないですねえ。僕は趣味が結婚で特技が離婚と言ってるくらいで、もめたことはない。離婚でいえばだいたい相手が切り出し、よっしゃわかったと決断するだけ。ただ離婚と同時に関係も終わりにはせず、支え続けます。おかげで前の妻(23歳年下のダンサー)とも今も仲が良く、先日(移住先の)フランスから帰ってきたときは、息子の進学の相談に乗りました。

 ――そうした生き方、ポリシーはどこからきているのですか。

 親父、ですかね。僕は福井県和泉村(現大野市)という谷底の村で生まれました。そこは日照時間は短く、冬は雪が3〜4メートルも積もるところなのですけど、親父は厳しい環境のなか、農業、林業、漁師をして、自分の手で家族を養いました。村に熊が出ると一人で山に分け入り、3日間追いかけて仕留めたといった武勇伝が僕は大好きでしたし、病気やケガをしても病院や薬に頼らないところ、自給自足で生きるところ、チェーンソーで丸太のログハウスを造ったり、1日1度は奥歯をギッと噛むような全力を出し切るのも親父の影響だと思います。

 ――色の道も?

 そういえば母をナンパしたとき、尺八を吹きながら田んぼのあぜ道を夜な夜な歩いたとか、そっちの逸話も親父にはいくつもあります。村の盆踊りには子どもをほっぽらかしで夫婦だけで出掛け、親になっても男女の時間を持ち続けていました。その背中を見て育った僕は小学校の分校に新しい女の先生がやって来ると「野イチゴです」と言って箱に蛇の頭を入れてプレゼントしたり、いたずら好きな、こまっしゃくれた子どもでしたね。高校時代は生徒会長をして、剣道に打ち込んでいたんですけど、学校の裏山にある天空の城(越前大野城)で不純異性交遊している学生を見つけては竹刀で叩いてました。自分も勃起してましたけどね。制服とかコスプレ好きは、報われなかったこの頃の反動でしょう。

人生ブランコ いつもリスクテーカー

  ――将来は何になろうと思っていたのですか。

 サラリーマンにはならないやつと思われていて、まあそうなんだろうなと。大学では海外の貨物船に乗るアルバイトをして、ソ連に行ったりしてました。そして京都の旅館の住み込みで(笑福亭)鶴瓶、原田(伸郎)らと出会い、できたのが「あのねのね」。「赤とんぼの唄」は船上でニーチェを読んでいるときに思いついた輪廻転生の歌です。時給170円の時代に河原町のビル屋上のビアガーデンで歌うと、30分公演を2回やって3000円もらえた。これを2人には2000円もらえると嘘ついて壇上にあがったのが、今に続きます。ギャラはその後、原田たちにバレて、いまだに恨まれてます。

 ――窮地やどん底もありましたか。

 もちろん。鈴鹿の8耐に挑戦すると宣言して10年、バイク免許取得からはじめ、やっと初参戦した決勝前日に転倒し鎖骨を骨折してしまったのは痛恨の思い出です。リタイアするのは仲間やファンに申し訳ない。でも動くに動けない。絶望に喘いでいたら、何度もお世話になっていた整形外科の先生が「普通はやらないけど」と言いながら、プレートを体に入れて、ボルトで患部を固定する手術をしてくれたんです。麻酔でブレーキを握ってるかどうかすらわからない状況でしたけど、それで何とか出場でき、173周を完走と認定される制限時間まで1000分の2秒というギリギリでチェッカーフラッグの下を走り抜けることができました。最悪の状況でも、諦めなければたった一夜にして最高にもなるんだと身をもって知りました。

 ――それが信条に?

 人生ブランコやと思うんです。振れ幅が大きければ大きいほど、揺り戻しも大きい。うまくいかないと落ち込んだり、悪い流れを止めようとしがちですけど、いくところまでいっちゃえば、それと同じくらいの幸せがくる。だから見るまえに跳べ、いつもリスクテーカーです。僕の姉はパートから会社社長になり、それを退いた今は名古屋でレストランの皿洗いをして「いらっしゃいませ」って大声を出している。僕もそのくらいフットワークを軽くして、いろんな顔を持って、ひとつ駄目になったら終わりとは考えない。おかげさまで毎日ワクワクですよ。

 ――どのように人生を全うしたいと思いますか。

 僕はね、先祖が毎日空の上から子孫を見ていると思っているんです。よく頑張っているから助けてあげようとか、先祖会議している。たまにズコーンとパワーが降りてくる気がしますからね。その先祖たちが一番喜ぶことは何か。子孫を多くつくることですよ。人生を全うして、先祖に会ったら、こう言われたいですね。「ようセックスやってくれたなあ」って。

(聞き手=長昭彦/日刊ゲンダイ)

▽しみず・くにあき 1950年10月15日、福井県生まれ。京産大法学部卒。タレントのほか、富士山のふもとの自然体験施設「森と湖の楽園」、瀬戸内海の無人島での「ありが島」プロジェクト、東京都立川市で人工砂浜「タチヒビーチ」などを運営。会社5つを切り盛りする実業家。企業の社員研修、異業種交流の「国明会」、ビジネスマンらのアイデアを聞きバックアップするプロジェクトなども行い、「子どもたち世代のために」と、水の電気分解で水素を燃やすことでエネルギー源にする脱原発、脱化石燃料に力を注ぐ。