―病める時も、健やかなる時も。これを愛し、これを敬い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?―

かつて揺るぎない言葉で永遠の愛を誓い、夫婦となった男女。

しかし…妻が“女”を怠けてしまった場合でも、そこに注がれる愛はあるのだろうか?

8kg太り、夫の誠司から夫婦生活を断られてしまった栗山美月は、誠司の無理解に悩まされながらもダイエットを決意。

無茶な食事制限が祟り、ボルダリングジムで倒れたことをきっかけに、パーソナルトレーナーの甲斐と出会い、本格的なダイエットをスタートさせた。

だがある日美月は、温和な甲斐が女性を怒鳴りつけるのを目撃してしまう。過去の秘密を共有することで、距離を縮めた二人。

すると突然甲斐は、美月に「浮気したいって思った事ある?」と迫った。




右手から滴る水が、冷たい。

美月を見つめる甲斐の視線の熱さとは、まるで対照的だ。

鳴り響くEDMの中で、美月と甲斐の視線が絡み合う。2人の距離が徐々に近づこうとしたその時…美月はようやく口を開いた。

「あの…。何か拭くもの借してもらえます…?」

美月がそう発した途端、どんな女性でも一瞬で虜にできそうな甲斐の美しい顔が、拍子抜けしたように緩む。

そしてすぐに喉を鳴らしながら笑うと、傍らに畳まれていたスポーツタオルのひとつを取って美月に差し出した。

「すみません、美月さん。調子乗りました。どうぞ新しい水飲んでください」

そう言いながら甲斐は、新たにウォーターサーバーの水をコップに注ぎ、美月の目の前に置く。美月はそのコップの水を一気に飲み干すと、甲斐に向かってホッとしたように微笑んだ。

「甲斐くん綺麗な顔してるから、ちょっとドキドキしちゃった。こんな冗談、本当に引っかかる人もいるから気をつけたほうがいいよ」

そう言う美月の顔を、甲斐は覗き込むように伺う。

「でも、美月さんは引っかからないんですね。ご主人に、寂しい思いをさせられてても」


美しい若い男に見つめられた美月が、その内心で抱いていた本音とは


甲斐の問いかけに、美月は小さくうなずいた。

「…うん。誠司さんのことずっと愛し続けるって、誓ったから…」

誠司を愛している。美月は、あらためてその事実を認識する。甲斐に甘い視線で見つめられた時、美月の思ったことは、たった一つだったのだ。

―これが、誠司さんだったらいいのに…。

かわいい、かわいいと毎日言われていても、あんな目で誠司に見つめられたことなど、ここ数年は全く記憶にない。

甲斐の刺激的ないたずらは、ここのところダイエットで充実していた美月に、どうしようもない寂しさを思い出させた。

急に落ち込んだ様子を見せる美月に、甲斐は静かに言葉をかける。

「美月さん、俺…やけくそになってつまらない冗談言って、すみませんでした。…俺、多分まだ芙美のこと吹っ切れてないんです。東京と仙台の遠距離で寂しい思いさせてたのは事実なんで、俺が悪かったのかもって思ってるところも少なからずあって。

でも、こうして美月さんみたいに一途な女性だっているんですもんね。俺、美月さんがご主人のために頑張ってるのを見ると、なんていうか、救われる気がするんです。人を愛する気持ちって、こういうものだよな…って」

甲斐の言葉は、徐々に熱を帯びていく。話し終えてからやっと、思った以上に熱弁を奮ってしまったことに気づいた甲斐は、照れくさそうに笑いながら口をつぐんだ。

だがそんな甲斐の言葉に、美月は思いがけず力づけられた気がしていた。

自分の愚直な一途さが、誰かの勇気になる。そんなこと、想像すらしていなかったのだ。

再び火が灯った闘志を胸に、美月はチェーンに通した指輪をしっかりと握りしめる。

「甲斐くん、私、甲斐くんのためにも絶対頑張るよ!12月の結婚記念日までには、絶対絶対綺麗になりたいの。綺麗になって、あのワンピースを着て指輪をつけて、誠司さんに『綺麗だね』って言わせてみせる。これからも力を貸してね」

先ほど甲斐にしてもらったのと同じように、誠司と見つめ合いたい。

そう決意を新たにする美月に、甲斐は嬉しそうに拳で胸を叩いた。

「愛の力、見せちゃってください!」




それからの美月のトレーニングは、調子の上がる一方だった。

週に2,3度の甲斐のパーソナルトレーニングはもちろん、甲斐がいてもいなくても、週1,2程度のボルダリングも欠かさなかった。

徒歩で1時間以内の場所であれば姿勢良く歩くようにもしたし、誠司が不在の隔週土曜日は、相変わらず桐乃とタンパク質の摂取に勤しんだ。

誠司はやはり富士の帰りに『とらや工房』のどら焼きを買ってきたが、どら焼きを食べる日にはあらかじめ日中の運動量を増やすことにした。

コッテリ好きな誠司は、以前はダイエットメニューに付き合ってはくれなかったものの、赤身肉や鶏肉などの肉をたっぷり使ったメニューはダイエットメニューと認識していない様子で、「みいちゃん、美味しいよ」と褒めてくれる。

地道な努力が織りなす日々。

ダイエットを始めてから2ヶ月近くが経っていたが、美月のモチベーションは衰えるどころか日に日に増していくようだ。

―筋肉がついてきたのかな。ちょっとずつ、いろんなトレーニングに慣れてきてる…。体も軽い。ボルダリングも難易度の高いコースができるようになってきて、すごく楽しい。ひとつひとつホールドを登っていくみたいに、小さな努力を重ねること…。私、けっこう好きみたい!

そんな努力の日々の、結果が出始めたのだろう。

”クリスマスに向けてのおもてなしレッスン”と冠して、約1ヶ月半ぶりに開催した料理教室で、山田さんが美月の顔を見るなり驚きの声をあげたのだ。

「あれ…?美月先生、なんかすごく痩せてない!?」


料理教室の生徒たちとの「ある会話」が、美月の闘志に火をつける


山田さんの隣で、小野さんも言う。

「本当だ!顔なんかすごくスッキリしてますよ!」

「えへへ…本当ですか?嬉しいなぁ。実はね、ダイエットしてるんです」

山田さんと小野さんが言う通り、実際に美月の体型は徐々に変化を見せていた。

現在の体重は52kgちょっとと、ダイエット前から3kgほどしか変わっていない。

だが甲斐に言わせれば、158cmで54.9kgだった2ヶ月前も、BMIは約22の普通体型。美月の体をだらしなくふくよかに見せているのは、筋肉量の少なさと体脂肪率の高さなのだという。

体重はさほど変わっていないのに、体型はみるみる引き締まっていく。

それは、軽くて場所を取る脂肪が減り、重くてコンパクトな筋肉量が増えているという、まぎれもない証拠だった。

おそらくこのままダイエットを続けていれば、12月の結婚記念日にはあのワンピースも、ネックレスにしている指輪もはめることができるだろう。

そう密かに確信していたことが客観的にも認められた気がして、美月はしみじみと喜びを噛みしめるのだった。

だが、満面の笑みで美月がフォアグラの処理に取り掛かろうとした途端、山田さんが困ったような笑みを顔に浮かべて言った。

「フォアグラかぁ〜、すっごく美味しいけど、でも、こんなのたくさん食べたら太っちゃいますよね?

なんか、美月先生が痩せてきたの見たら、ちょっと気になってきちゃった。ねえ美月先生。今日のメニューはこれだとして、次回のレッスンは美味しいダイエット料理にしてくださいよ!」




「ダイエット料理…ですか?」

小野さんも、山田さんの発言を聞いて激しく頷いている。

「それいい!しかも、いつもの美月先生のお料理みたいに、ちゃんとごちそう感のあるやつだったら嬉しいです!盛り付けも綺麗で、おもてなし感もあって、デザートなんかもつけられたら最高ですよねぇ」

美月の頭に衝撃が走る。ごちそう感のあるおもてなしダイエット料理なんて、考えたこともなかった。

ここのところ毎日ダイエット用に高タンパクな料理を作っていたが、それはあくまでも家庭での日常的な料理だ。

ささみにチーズをかけて焼いたり、赤身の牛肉ステーキに大根おろしを載せたり、カブやブロッコリーをオイルでソテーしたり…なんてメニューは、おもてなし料理を知りたくてわざわざ料理教室に来る人には、魅力的ではないだろう。

美月は食い入るように、小野さんと山田さんの雑談に耳をそばだてる。

―たしかに、心まで満足できるダイエットメニューが完成したら、私も嬉しい。ダイエット料理のレッスン、真剣にやってみたい…!


料理教室の生徒さんの言葉に意欲を掻き立てられた美月。しかしある葛藤に襲われる…


翌日の夕方、美月は甲斐のジムでいつも通りトレーニングに励んでいた。

最初は10秒もできなかったプランクも、今では90秒はキープすることができる。3セットのプランクを終えて椅子に座った美月は、いちご味のプロテインに口をつけながら、昨日の料理教室での話題を甲斐に相談していた。

「なるほど。特別感のあるダイエット料理ですか…。いいですね。そういうニーズは絶対にあると思います」

「でしょでしょ?このプロテインも、まずくはないんだけど、美味しいかと言われればそうでもないし…。ダイエットって真剣にやっていれば多少なりとも食事の喜びからは離れちゃう。もし、ダイエット料理だなんて思えないほどごちそう感のあるお料理が作れたら、最高だろうなぁって思うの」

「そうですねぇ、ハレの食事が毎回焼肉ってわけにもいかないですしね。まあでも、2週に一度焼肉通ってる美月さんは、毎日焼肉でも大丈夫そうですけど」

真剣に夢を語る美月を、甲斐がからかう。美月はそんな軽口をひと睨みしていなすと、大げさにため息をついた。

「私だって、毎日焼肉だったら流石に飽きます!でも、ダイエット中に行ける外食のお店って、焼肉以外にあんまり知らないんだよねぇ。

今日も、珍しく誠司さんが会食だっていうから、せっかくだからどこかダイエット向きのお店に偵察に行ってみたいんだけど…。いいお店がどこにあるかも分からないし、一人で新しいお店を開拓するのもちょっと気がひけるの。あぁ、何食べようかなぁ」

そう美月が言うや否や、甲斐が瞳を輝かせた。

「俺、今夜空いてますよ」

「え…?」

一瞬理解ができず聞き返す美月に、甲斐が焦れたように繰り返す。

「だーかーら。俺、今夜空いてます。さっきの話的にもちょうどいい店ありますよ。『麻布Lasen』っていう、イタリアンとフレンチ出す店知ってます?そこ、めちゃくちゃオシャレな上に低糖質のコース出してるんですよ」

「ええっ、そうなんだ?」

麻布のフレンチ・イタリアンが提供する、低糖質のコース料理。正直、今すぐにでも飛んでいきたいほど興味があった。

だが…いくらダイエットのためとはいえ、既婚の身でありながら他の男性と食事に行くのは、トレーニングの範囲を超えているような気もする。

誠司さんは、なんて言うだろう?そう思うと、美月は即答できなかった。

しかし、そんな考えは次の瞬間すぐに消えてしまった。

「7時半でいいですか?予約とったほうがいいと思うんで、よければ電話しちゃいます。絶対絶対、美月さんの参考になると思います!」

そう言う甲斐の顔は、底抜けに純粋だ。

キラキラと誠実な輝きを放つ甲斐の表情を見て、美月は途端につまらないことを考えてしまった自分が恥ずかしくなる。

―甲斐くん、私の話を真剣に聞いてくれてたんだ…。広く考えれば、これもトレーニングだし、仕事の勉強でもあるよね…。よし、いいか!




「なるほど、瞬間燻製かぁ…。家でもできるかなぁ」

肉厚なプラチナポークの瞬間燻製を頬張りながら、美月はブツブツと中空に向かって呟く。

夜の8時半。

結局美月は甲斐の提案に乗り、一度自宅で身支度を整えてから、糖質制限ディナーコースの勉強のため『麻布Lasen』を訪れているのだった。

「見てください、ちゃんとデザートもついてるんですよ」

隣の席でメニューに目を通している甲斐の目も、美月に負けないくらい真剣だ。いつもはTシャツ姿の甲斐がフォーマルなシャツスタイルに身を包んでいる姿は、想像した以上にキマっている。

―甲斐くんって、やっぱりかっこいいんだなぁ。お料理も想像以上に参考になるし、思い切って来てよかった!

呑気にそんなことを思いながら、美月は「どれどれ?」と甲斐の持っているメニュー表を覗き込む。

だが、次の瞬間。座ったばかりの美月の肩に、大きな手のひらがポン、と乗せられた。

「…?」

疑問に思った美月が振り返る間も無く、頭上から声が降って来る。

「こんなところで何してるの?みいちゃん」

それは、間違えようのない、最愛の人の声。

振り返るとそこに居たのは、ニッコリと微笑む誠司の姿なのだった。

▶NEXT:11月18日 月曜更新予定
甲斐とのディナーで、まさかの誠司と鉢合わせ...。この修羅場を、どう乗り切る?