騙されたのは女か、それとも男か?
「恋」に落ちたのか、それとも「罠」にはまったのか?

資産200億の“恋を知らない資産家の令嬢”と、それまでに10億を奪いながらも“一度も訴えられたことがない、詐欺師の男”。

そんな二人が出会い、動き出した運命の歯車。

◆これまでのあらすじ

詐欺師・小川の思惑通り、夫と離婚してしまった智。小川と一緒に訪れたアフリカで、二人はついにキスをしてしまう。




唇が触れ合ったのは、ほんの一瞬だった。

「俺を利用してください。あなたが誰かを…本当に愛することができるようになるために」

唇が離れてからも、私の頬に手を添えたまま囁いた、小川さんの言葉に私は我に返った。息がかかる程近くで見つめてくる薄茶色の瞳から逃げるように、その頬の手を振り払う。

―頬が熱い。

自覚したせいなのか、全身に熱さが広がっていく。脈が壊れたように早くなり、指先まで熱い。

「何するんですか。その、急に」

怒ったはずの語尾が弱くなったことを誤魔化したくて、私は、キッと小川さんを睨んだ。

「急じゃなかったらいいんですか?じゃあ次は、キスしますね、って言ってからキスします」

「そういうことじゃなくて!」

「手、握りますね」

反論などどうでもいいとばかりに、小川さんは、私の左手の指先を握った。呆気にとられている間に、それは小川さんの唇まで持ち上げられ、指先や手の甲に、軽い口づけが落とされる。

「智さんのペースとか、ぐちゃぐちゃとした感情に合わせていたら、永遠に関係が進まなさそうなんで、もう遠慮はやめます。

すっかり忘れられてるみたいだからもう一度言っておきますけど、俺はあなたが好きなんです。できればあなたと恋をしたい。利用されたって何をされたっていいから、側にいたいんです」

真っ直ぐに私を見つめたまま、まるで壊れ物のようにそっと、小川さんは私の手を離した。

「あなたは離婚した。だからもう、俺とこうしてることに罪悪感を抱く必要はないでしょ?」

小川さんの言葉が、軽く無責任に聞こえて、自分でもよく分からない感情に苛立ちが加わった。

―そんなに簡単なことじゃない。

「確かに離婚はしました。でも離婚したばかりですし、私には愛香がいます。母である私が、父親以外の人に心が揺らいでるなんて知ったら…」

「…揺らいでくれてるんですか?俺に?」

小川さんの言葉にハッとする。

―私は、今、何を。

「…っ、やばいな、嬉しい」

私の動揺をよそに、小川さんは、とろけるような顔で笑った。


本音を漏らしてしまった智!?一気に詐欺師は畳み掛け、このまま心が奪われる!?




気がついた時には、小川さんの腕の中にいた。もがく私をきつく包みこんで離さない長い腕は、とても強く、私は逃げ出すことを諦めた。

「あー、もう、ほんとやばいな。俺、自分で思ってたよりもずっと、智さんのことが好きみたいです」

近づいてくる誰かの気配に一瞬、腕の力が緩んだ気がしたけれど、それでも抜け出せなかった。キャンドルの炎を確かめにきたスタッフに、Everything ok?と声をかけられると、小川さんが、最高の夜だ、と弾んだ声で答えた。

「智さん、俺たち、とりあえず付き合ってみませんか。付き合う、って言葉がハードルが高いなら、付き合う練習とかでもなんでもいいです。

一緒に過ごす時間をください。ちょっとでも俺に心が揺れてくれてるなら、俺が智さんの本気を…本気の愛ってものを引き出してみたい。

めちゃくちゃ努力します。それでも、もし俺たちがうまくいかなかったとしても、俺といた時間を後悔させません。智さんが、幸せだったと思ってもらえるような時間にしてみせます」

「…でも私は…」

「母親だから?智さんが母親であることを邪魔するつもりはありません。むしろお嬢さんとの時間を最優先にして欲しい。お嬢さんはあなたに愛される。そして、そんなあなたを俺が愛して…甘やかしてあげたい」

―この人は、また。

以前も、甘やかしたいと言われたことを思い出して、私は思わず笑ってしまった。何で笑ったんですか、と、少し体を離して私の顔を覗き込んだ小川さんの視線は優しかった。

「…その…付き合う練習、でもいいですか」

自分の口から出た言葉に驚いた。驚いたのは私だけではなかったようで、小川さんの腕の力が抜け落ち、不意打ちにあったような顔でジッと見つめてきた。

私は、恥ずかしさとか、むず痒さとか、そんな感情がごちゃまぜになり、小川さんから離れるために立ち上がろうと思った。でも。

「…っ!?」

少し離れたと思った瞬間、腕を引かれ、引き戻された。今度は後ろから抱きかかえられるように、私の体は小川さんの足の間に収まってしまった。

「智さんは頭で考え過ぎです。感情が動いたなら、たまにはそれに流されてもいいじゃないですか。これから俺といる時間は、頭じゃなくて、心に従ってみてください。世の中でいう正しいこととか、常識には囚われないで。自分が望むままに」

密着しているせいで、小川さんの言葉は体に直接響いてくる。考えすぎる、と言われたけれど、動揺を遥かに超えたこの状況に、いつもの思考のリズムなどとっくに奪われている。

「俺のお願いは、今全て伝えました。智さんが俺にして欲しいことはないんですか?言いたいこととか、なんでも」

私の体を囲み込んだ長い腕に、またギュッと力が入った。35歳を超えて、まるで10代の少女のように硬直して、身動き一つ取れない自分が恥ずかしくて、耳まで赤くなっているだろうことが自分でもわかった。

こんなことくらい平気なんだと振る舞いたいのに。何か…言わなければ。

「…あの…日本に帰ったら、その、すぐに送金するための手配をします。小川さんがおっしゃったように、まずは財団の1年の予算で…」

私がそこまで言うと、小川さんは吹き出し、声を上げて笑った。


日本に帰った瞬間に着信した、悪友マサからのLINE。その内容は?


そのおかげで体が離れ、少しの距離をとれた私に小川さんは言った。

「智さんってつくづく予想外過ぎますよ。俺に言いたいこと、って聞いたのに、この雰囲気とタイミングでその話…」

「……そうでしょうか」

自分でも変なことを言ってしまったとは思う。でも、とうに私のキャパシティはオーバーしていたし、今空気が壊れたことでホッとしている。

「もっと、色っぽいお願いが良かったのに。例えば、今夜はずっと一緒に、とか…」

「小川さんには、他はどんな団体が良さそうなのか、その活動や規模のリストアップと提案をお願いしてもよいでしょうか?報酬もきちんとお支払いしますので、仕事として受けていただければ。アフリカだけじゃなくて世界中のどこでも構いませんから」

おどけた軽い口調の言葉じりを強引に奪った私に、今夜はここまでかぁ、と苦笑いしたあと、小川さんは続けた。

「日本に帰ったら、すぐにリストアップしますよ。でも付き合う練習相手になる、っていうさっきの発言も忘れないでくださいね。取り消しは無しで。仕事は仕事できちんと線引きしますが、プライベートでは…そうだな、まずは擬似恋人、ということで」

嬉しそうにそう言い切ると、乾杯しましょう、とワインクーラーからボトルを取り出した。グラスに白ワインが注がれる様をぼんやりと眺めながら、擬似恋人、という単語を反芻してみる。

「智さん、俺の下の名前、知ってます?」

「…シンタロウ…さん、ですよね」

「良かった、知らないって言われなくて。擬似恋人の期間中は、下の名前で呼び合うことにしましょう」

智さんは形から入った方が良さそうだから、と笑って、グラスを掲げた。

「擬似恋人に乾杯」

グラスをカチンと合わせると、互いに一口を口に含んだ。こんな不思議な気持ちで乾杯をするのは初めてだし、味わう余裕などなく、ただ液体が喉を通過していく。まるで誓いの杯、契約の杯のようだな、と思っていた。

「この関係を俺から破棄することはありません。進めるのも終わらせるのも、智さんの決断に任せます。

俺は今日から本気で攻めますけど、智さんが本気になれなかったら、俺の力不足、負け、ということで潔く去りますから安心してください。そうだ、期限があったほうがいいかもしれませんね」




『親ちゃん、アフリカから帰ってきたでしょ。そっちの首尾はどうだった?潤一郎パパは相当参っちゃってるままだけど、今のところ目立った動きはなし。俺を未だにクビにしないのもナゾだし、何考えてんだか不気味だわー。ま、ヒリヒリして面白いけどね』

日本に戻り、空港から神崎智を自宅まで送り届け、その玄関をでた瞬間に着信した。タイミングの良すぎる悪友、マサこと田川正義からのLINE。

『刑事はどうなってる?』

待たせていたタクシーに乗りこんでから返信すると、すぐにまた着信した。


親太郎が智の感情を揺さぶるために連絡をとった相手とは?


『俺が教えた女性たちのことは一応調べたっぽいけど、その後の連絡はなし。あの熱血刑事、動きが遅すぎない?まあ親ちゃんの過去のレディたちが、かなり手強いんだと思うけどさあ。

あの強面の刑事さん、武闘派な事件しか解決できない馬鹿、ってオチじゃなきゃいいけど。』

ふざけた文章だが、マサがあの刑事を本当に馬鹿にしているわけではないことは分かっている。福島がただの武闘派刑事ではないことは実績が物語っているし、対面した時に親太郎も感じたことだ。

親太郎が智の父親である潤一郎の前で、大見得を切ったタイミングは、実は親太郎本人が予定していたより早かった。

その直後、親太郎は騒ぎを反省し、その責任を取るためにマサの事務所を辞めたことになっていて、それをマサからも潤一郎に報告させていた。

とは言え、マサもすぐにクビになるだろう、と2人で予想していたのだが、あの日から1か月以上が経っても、潤一郎は田川法律事務所との契約を破棄していないどころか、その気配すらなく、今までと変わらず会社に呼ばれているのだという。

―まあ、待つしかない。

父・潤一郎、夫・大輝、そして刑事の福島。種をまいた相手達が、例え予想通りに動かなくとも、親太郎に焦りはなかった。

―人も金も…思いもよらない動きを見せるから面白い。

タクシーが六本木のホテルに着いた。事務所を辞めた時に、それまで仮住まいさせてもらっていたマサの家も出たのだが、住む場所にこだわりのない親太郎にとっては、ホテル住まいの方が気楽だった。




荷物を簡単に整理し、シャワーを浴びてようやくアフリカの空気を振り払えた気がした。

ベッドに腰掛けると、携帯を取りだしてLINEする。

『久しぶり。明日とか明後日とか、ちょっと時間ないかな?葉子にきちんと伝えたいことがある』

送信先は富田葉子。瞬時に既読になり、返信が来た。

『連絡、ありがとう。報告は神崎さんのこと?』

『会った時に、直接話したい』

『わかった』

短いやりとりで、会う時間が決まった。携帯を持ったまま冷蔵庫からビールを取り出す。缶を開けるとグラスに注ぐのも面倒でそのまま口につけた。

神崎智の資産から、近々まずは5億が動く。それは視察した実在する財団への正式な寄付で、親太郎が奪うのは、その次。

ただ智は…今は少し不安定な状態だとは言え、大企業を継ぐつもりで勉強し努力してきた才女だ。冷静な判断が癖付き、データを収集し状況を分析する賢い女(ひと)。

その冷静さを奪い、感情を揺さぶらなければ、おそらく大金は動かない。

―葉子の出番だ。

人がふりまわされ、冷静さを奪われるのは、いつも愛憎の感情だ。そのために種を撒き、育ててきたのが、富田葉子、という存在だった。

ーごめんな。償いはするよ。

葉子とのLINE画面にそう謝った後、智との画面に切り替えて文字を打つ。

『今日はゆっくり休んでください。明後日の夕食の約束、楽しみで待ちきれません。早く、会いたい』

送信し、しばらく眺めていたが、既読にはならなかった。疲れてぐっすりと眠っているのだろう。別れ際、小さな欠伸を繰り返していた智の様子を思い出しながら携帯を置くと、親太郎も冷たいシーツに体を預けた。

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親太郎が葉子に告げる言葉とは?そして、刑事が探っていたのは、意外なもので…