東京オリンピックの需要を見込んで仕様変更!?  妻が上司に電話した理由とは?『残業禁止』

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 残業はするな、納期は延ばすな――成瀬課長の明日はどっちだ!? 成瀬和正、46歳。準大手ゼネコンの工事部担当課長。ホテル建設現場を取り仕切る成瀬の元に、残業時間上限規制の指示が舞い込む。綱渡りのスケジュール、急な仕様変更……残業せずに、ホテルは建つのか?

綱渡りのスケジュール、急な仕様変更……残業せずに、ホテルは建つのか?『残業禁止』,ら読む

 翌週の冷え込みはいっそう厳しくなった。大寒だから当たり前ではある。寒いだけなら我慢すればいいが気がかりがあった。低気圧が近づいている。

 成瀬和正はその日、事務所に寝袋を持ち込んだ。ろくでもない予報に限ってよく当たるもので、夜10時ごろから雪が舞い始めた。熊川以外の事務所員はみな残っていたが、追い立てて帰した。これは所長だけの仕事だ。

 1時間ほどで窓の外は真っ白になった。足場にも着雪している。

 明日は無理か──。

 昨年3月に古い建物を解体し始めてから、地盤の崩れを防ぐ山留め工事、基礎杭打ち、掘削、軀体と、地下水が思ったより多くて慌てさせられたりしたものの、なんとか予定を大きく外れず進めてきた。しかし竣工まではまだ遠く、10月の引き渡しに向けて余裕などない。

 とはいえどうしようもないので、成瀬は思い切りよくすぐに作業中止を部下たちにメールした。協力会社には彼らから連絡がいく。寝袋とセットにしているポケット瓶のウイスキーを胃に流し込み、さっさと寝た。

 明け方に目覚めると雪は止んでいたが、積もった深さが20センチ近かった。1階に下りて外に出ようとしたらドアが重い。前に雪が吹きだまっていた。スコップほか道具には困らないが、あたりを歩けるようにするだけでひと仕事で、すぐ汗だくになった。

 成瀬は、自分が帰るために雪かきをしたのではない。事務所で一服していると、すぐに浅田しのぶが現れた。彼女も通勤の時は普通のOLと変わらぬ格好で、今日はきりっとしたトレンチコート姿だけれど、足元は長靴でがっちり固めている。

「遅くてよかったのに」

 浅田の自宅は東京でも東北部の浅草橋にある。事務所員中2番目の遠さだ。

「電車が思ったより普通に走ってたんですよ」

 浅田は「済みません、所長に肉体労働させちゃって」と恐縮もしてくれた。

 それからも、いつもより1、2時間遅れてではあるが、部下たちが出勤してきた。デスクワークに専念できるチャンスだし、作業が中止になったせいで発生する仕事もある。例によっての各種報告書、工程表も修正しなくてはならない。

 言うまでもないけれど、職人たちだって雪はまったく嬉しくない。休みは即、収入減を意味するからだ。

 ネットニュースによると、休講になった大学生が喜びのツイートをしたのが炎上しているらしい。成瀬は腹を立てる気にもならなかった。馬鹿な若者も社会に出ればすぐ分かるだろう。

 早く融けてほしいが、空は厚い雲に覆われたままだ。昼近くなっても陽が射してこない。

「最高気温、6度とか言ってますよ」

 同じことを考えていたのだろう、大田久典が苛立たし気に話しかけてきた。

「半端に融けて夜中にまた凍ったりすると最悪なんですよね」

 大田はぼやき続ける。

「温暖化なのに何でですかね。雪もよく降りますよね。災害が続くわけだ。地震、そろそろこのへんにも来るんじゃないですか。温暖化とはさすがに関係ないか。いや、俺たちにはよく分からないところでつながってるのかもしれませんよ」

 悪い予想は本当によく当たる。地震が起きなかっただけ幸いだったかもしれない。この雪では結局、丸三日が潰れた。

 また、悪いことが重なるというのも真実らしかった。

 通常だと週2、3回、設計事務所のスタッフが現場を訪れる。主な目的は設計図通りに施工されているかチェックすることだ。

 その日は珍しく設計者の武井慶人本人も来たが、雪の見舞いくらいに成瀬は考えていた。実際、事務所で向き合った武井は雪の話を始め、そのあとも他愛ない話題を続けたので、早く仕事に戻りたいなと思ったくらいだった。

 しかし武井の目くばせでスタッフがやにわに図面を取り出し、成瀬は自分の甘さを恥じた。

「会長の指示らしくってさ」

 クリエイターであることを強調したいのだろう、盛大に蓄えた髭のせいで表情が分かりにくい武井は、何でもないことのような口調で切り出した。

 一定ランク以上のホテルでは必須の施設になりつつあるフィットネスルームだが、予定になかったジャグジーも入れることにしたという。

「変更はしないにこしたことないですよって、私も言ったんだけどね」

 だったらその段階からウチも話に入れてくれよ。もう図面まで引いてるって、ウチの都合を聞くつもりなんかハナからなかっただろ。

 喉まで出かかるが我慢する。施主との窓口役を独占したがるのは設計屋の本能だ。無理に突っ込むと全面戦争になってしまう。

 それにしてもジャグジーとは穏やかでない。恐る恐る図面に目をやって成瀬は絶望的な気分になった。

「ほとんど大浴場じゃないですか」

 デカい。水がたっぷり入る、ということはそれだけ重さを考慮しなくてはいけない。排水ほかの設備もスペースをとる。

「これくらいはないとって、会長が言うんだって。ドバイで見たんだとさ」

 施主である「チェリーホテルズ」の会長に対抗心を燃やさせたのは、世界の金持ちが集まるドバイでも豪華さで知られたホテルらしかった。

 言い訳のように武井は「追加の見積もりはきっちり出してもらっていいよ」と付け加えた。当たり前だ。問題は工期である。

 成瀬は十月いっぱいとなっている引き渡し期限をできればひと月、最低でも2週間延ばしてほしいと主張した。

 施主の事情にも十分配慮したつもりだった。チェリーホテルズが首都圏に新しい施設を造るのは、言うまでもなく東京オリンピックがらみの需要を見込んでのことだ。

 しかし2020年7月に間に合えばいいわけではない。その前のゴールデンウィーク、年末年始から稼げるなら稼ぎたい。本番に向けた試運転にもなる。そんな思惑を含んでの10月引き渡しなのだ。開業に向けた準備はばたばたになるだろうが、半月なら許容範囲と計算した。

 武井だって理解しなかったはずはない。しかし返事は曖昧だった。

「ヤマジュウさんはそうご希望ってことでね」

「じゃないと無理ですって。はっきり伝えて下さい」

「職人の賃金割り増してもだめ?」

「3割増しでもどうでしょうね。仮に集まったってウチがパンクします」

「頑張ってもらってるのはようく分かってますよ。でもまだ10カ月あるんだから。ちょっとずつ詰めていったら、ね」

「9カ月です。それ自体きついんですよ。雪には参ったって、話したばっかりじゃないですか」

 成瀬は事務所を離れていた大田を呼び、工程にどれほど余裕がないか説明させた。それでも武井は、宥めるようにうなずくだけで、チェリーホテルズと交渉してみるとさえ最後まで約束しなかった。

 逃げるように武井たちが引き上げるのを見送って、大田は床を力任せに蹴りつけた。プレハブの建物全体が震えた気がした。

「殺すつもりかよ」

「本社に頼もう。俺たち相手だと武井さんも嵩にかかってくる」

「本社なんか当てになりますかね」

 大田はすでに捨て鉢だった。

「主張すべきはしてもらうよ」

 しかし大田の懸念は成瀬にも分かった。ヤマジュウは武井設計事務所がらみの仕事を多く請け負っている。武井が施主に推薦してくれるからだが、それは武井の無理難題をヤマジュウが聴き入れるのとバーターだ。

 考えてみれば武井だって好きで無理難題をふっかけるわけではない。図面を引き直すなんてまっぴらなはずだが、今後継続的な受注が期待できるホテルチェーンには盾突けない。仕事の供給源に逆らえない事情は、施工、設計に共通している。

 それでも成瀬は本社に電話した。相手は直属の上司、工事部次長の伊藤征治だ。同じ現場で働いたことも一度や二度でなく、気ごころは通じているつもりだった。

 成瀬の説明を聞いて、伊藤はため息をついた。

「厄介な話持ち込んできよるなあ」

 いつまで経っても抜けきらない関西なまりでつぶやく。

「すみません。けどこれはこっちに理がありますよ。向こうのせいで作業が増えるんだから、それなりのマイナスは引き受けてもらわないと」

「分かっとるて。考えるわ。チェリーホテルズの営業やっとんの誰やっけな。武井の事務所回っとんのが別におるはずやさかい、そっちから攻めるほうがええかな」

 電話を切ったあと成瀬は「なんとかしてくれるんじゃねえか」と大田に言った。自分を励ますためでもあった。

「俺はせいぜい金を分捕る作戦を練る。とにかく、やらなきゃいけないことから始めよう」

 大田もぶすりとしたままではあったがうなずいた。

 まずは「数字拾い」。新たに鉄筋やコンクリートほかの資材がどれだけ必要になるか計算する。

「熊川に言うのが筋だろうな」

「最初から砂場にやらせたらいいじゃないですか。どうせそうなるんだから」

「一応順序ってものがある」

 熊川健太に気を遣う必要があるのか成瀬も迷わないではなかったが、遣って損もないだろうと、作業の立ち会いから戻ってきた熊川に丁寧に頼んだ。

「いいですよ」

 しかし熊川は眉一つ動かさず付け加えた。

「ただ私、御存じの通り残業はできませんから、その範囲でですけど」

 傍でやりとりを聞いていた大田の頰に赤みが差した。砂場良智も経緯を説明されて、熊川への、チェリーホテルズや武井に対する以上の不快感をあからさまにした。事務所の雰囲気が悪くなったのは、はっきりした「損」だった。

 余計な仕事を抱え込んだのは砂場ばかりでない。役所の認可も取り直しだ。そして工程の見直しがやはり大きい。細かな調整は日常的にやっているが、今度のは小手先で済まない。

「10日でいいから遅らせてくれませんかねえ」

 このごろ大田は、独り言のようにつぶやいている。当てにならないと言いながら、本社の工作にすがっているのだ。

 けれど伊藤からは一向に連絡がない。急かすのもはばかられた。営業が伊藤の依頼をすんなり受けたとは考えにくい。連中は、会社を支えているのは金を引っ張ってくる自分たちと思っている。ふざけるなと言いたいが、役員の数では営業畑のほうが多いから始末が悪い。

 営業が承知しても、武井、チェリーホテルズにうんと言わせるのはもっと難しい。切り出すタイミングを計る必要があるだろう。

 とはいえ3日が経ち5日経ち、1週間過ぎてもなしのつぶてでは、成瀬も我慢できなくなった。成否が分からなければ工程表に手をつけられない。感触だけでも聞いておきたい。

 直通電話にかけると、伊藤はすぐ「例の話やな」と言った。

「ええ」

「ちょっと待っとって。まだ何も言うてきとらへんのや」

 伊藤は30分ほどしてかけ直してきた。

「すまん、やっぱりあかんらしい」

 半ば予想していたとはいえ成瀬は落ち込んだ。諦めきれない気持ちもあった。

「誰がそう言ってるんです?」

「詳しいことは分からん」

 伊藤の口調に面倒くさそうな響きを感じて成瀬ははっとした。すまん、と謝った時も申し訳なさそうに聞こえなかった。

 伊藤は営業に話していなかったのではないか。今、確認したかも怪しい。彼からすればどうせ通らない要望を出して営業にうるさがられることにメリットはない。返事がない段階で察しろ、ということだ。

 ありがとうございました、と言って電話を切った成瀬だが、ふつふつ怒りがわいてきた。だめならだめで一緒に憤るくらいしてくれてもいいじゃないか。

 もっとも大田の消沈ぶりがあまりひどいため、成瀬は自分を憐れむのも忘れてしまった。実際、工程の問題はとてつもなく厄介だった。2人でいろいろ検討したが、配管を考えると鉄骨の組み方から変えなければならない。引き渡しを延ばさずすべてを押し込むなど、象を軽自動車に乗せるようなものだ。

 工程を組むのは、パズルに似ている。初めのほうで間違ったために、最後の一ピースがはまらなくなったりする。

 やり直しを繰り返す大田の帰りは遅くなる一方で、泊まり込むこともあった。気分転換にと飲みに誘っても断られる。大田が飲みを断るなんてよっぽどだ。

 とにかく成瀬が経験した中でもトップクラスの忙しさになってしまった。数えてみたら、三が日が明けた後、もう2月になったというのに2日しか休んでいない。ほかの現場監督たちはもっと少ないだろう。もっとも妻に土日の仕事がよく入るという熊川はやはり例外だ。

 ジャグジー問題が持ち上がって10日ほど経った。大田の目はどんよりしていないことの方が珍しい。ひどい時には声をかけても反応しない。顔色も悪い。

「今日はもう帰れ」

 昼休み、パソコンに向かって修行中の達磨大師よろしく固まっている大田に成瀬は言った。カップラーメンを作る気力もなさそうだ。こんな状態でアイデアなど浮かぶはずがないし、作業の立ち会いで足場に登らせるのが怖い。

 抵抗するかと思ったら、大田はあっさり「そうします」とうなずいた。前日から頭痛がしていたとも明かした。

「我慢してましたけど、かえって迷惑ですね」

 早く言えとたしなめた成瀬にも、大田の気持ちは痛いほど分かった。普通の神経の持ち主なら、こんな時に戦線離脱するのは心が痛む。

 マフラーを巻きコートを着た大田は、それでも頭が寒いなとおどけてみせた。

「治ったらこき使うからな」

「そうして下さい。今晩ゆっくりさせてもらったら大丈夫ですよ」

「いや、明日1日休め。こじらせられたらかなわん」

 居合わせた砂場が「そうですよ」と横から口を出した。キャリアを考えると生意気な感じもしないではないが、自分もできる限りの穴埋めをするという意欲の表れだろう。

 ただ、ドアの向こうに大田が消えた瞬間から、人のやりくりで成瀬は悩み始めた。明日使う工程表をまず用意しなければならないが誰にやらせる? さすがに砂場というわけにいかない。

 自分でやろうと肚を決めた成瀬だったが、ひいひい言わされる羽目になった。しばらくその手の仕事をしていなかったせいはあるにしても、部下たちに仕事の速いところを見せてやるつもりだった浅はかさを思い知らされた。

「すまんな、俺が残ってると帰り辛いよな」

「関係ないです。やることはいくらでもありますから」

 結局3人揃って11時過ぎに事務所を出た。

「お前たちも気をつけろよ。2人に調子崩されたら冗談抜きでおしまいだ」

「所長こそですよ」

 浅田に言われて成田はその通りだと思わざるを得なかった。そろそろアラフィフ突入である。大した病気になったことはないが、血圧と中性脂肪はこの5、6年高めをキープしている。今のような生活が続けば何が飛び出しても不思議はない。

 だがそこでいつもの壁にぶつかる。残業を減らす方法はない。どう気をつければいいのだろう。

 部下たちはみんな地下鉄である。じゃあな、と成瀬は一人関内駅を目指した。こんな時間になると人通りもほとんどない。駅前の横浜スタジアムでナイターがある日は別だが、プロ野球の開幕にはまだしばらくかかる。

 ちなみに早く開幕してほしいわけではない。野球帰りの人込みに出くわしたら出くわしたで、どうしてこいつらにはこんな暇があるんだと腹が立つ。

 前に横浜に通っていた時は、成瀬も何度か観に行けたのだが。横浜の頭文字、Yをかたどった照明スタンドの下、生でプレーを観ながら飲んだビールの旨さを懐かしく思い出した。

 駅に着いた成瀬は吹きさらしのホームに立った。終電ではなかったけれど、もう間隔がかなり空いている。スマホを持った手がかじかんだ。スマホをポケットに戻して息を吐きかけ、こすりあわせる。

 着信音がした。もともと入っていた中から選んだ「イパネマの娘」である。季節感がそぐわない。いや、ブラジルは今夏という意味ではこれでいいのか。

 メールでなく通話の着メロなのがまた、いったい誰だろうと思わせた。画面を見ると大田の名前が出ている。ゆっくり寝かせるために帰したのにと、成瀬は苛立ちを覚えた。

 大田自身、休み時だと認めていたではないか。それでも仕事が頭から離れないのか。画面をタップし、尖った声を出した。

「何だ」

「成瀬さんでいらっしゃいますか」

 返ってきた声は大田のものではなかった。

「はい、そうですが」

 調子を改める。

「驚かせて申し訳ありません」

 言った女の調子も硬かった。

「大田の妻です」

「ああ」

 成瀬は中途半端な返事をした。そうか、とは思えたけれど、会ったこともない大田の妻が夫の携帯で上司に電話してきた事情が分からない。

「実は──夫が倒れまして」

 えっ、と声が出た。少し離れたところにいたカップルがこちらを向いた。