「中小企業を守る」は、一見「庶民に優しい」政策に見えますが……(撮影:梅谷秀司)

オックスフォード大学で日本学を専攻、ゴールドマン・サックスで日本経済の「伝説のアナリスト」として名をはせたデービッド・アトキンソン氏。

退職後も日本経済の研究を続け、日本を救う数々の提言を行ってきた彼は、日本に必要なのは「生産性の向上」だとしたうえで、『日本人の勝算』(東洋経済新報社)や『国運の分岐点』(講談社+α新書)で「最低賃金の引き上げ」「中小企業の合併統合」を主張している。

なぜ生産性を高めなければならないのか。なぜこれらの政策が生産性向上に必要なのか。改めて解説してもらった。

日本には「大局的な視点」が欠けている

今年OECDが発表した「Fiscal challenges and inclusive growth in ageing societies」では、今のままでは高齢化によって、G20の先進国の借金比率はGDPに対して現状より180%ポイント高まるとあります。政策を変えないと、格差がさらに拡大して、貧困率も大きく上昇するリスクがあるとあります。


日本は人口減少と高齢化の影響を最も受ける国です。生産性を上げていかないと、すでにアメリカに次いで高い日本人の貧困率は、さらに上昇します。

生産性を上げても、今までのように労働分配率が下がる一方では、貧困率は上がる一方です。だからこそ私は、政府が最低賃金を段階的に引き上げるべきだと論じてきました。

このような状況の下、日本の最低賃金をめぐる議論が、少しずつではありますが活発になってきている印象を受けます。

人口減少社会において、遅かれ早かれすべての日本国民が向き合わなくてはいけないこのテーマに関心が集まっているのは、大変喜ばしいことです。

だからこそ、最低賃金の引き上げに反対する一部の方たちから、あまりに冷静さを欠いた主張がなされていることが残念でなりません(このような主張への反論を本記事の最後にまとめて掲載しましたので、ぜひ最後までご覧ください)。

一方で、この現象のおかげで、日本の経済学の構造的な問題も見えてきました。

「大局的な視点の欠如」です。

日本の人口が減少していく以上、賃金が上がらないと個人消費総額が激減するというのは、中学生でもわかる理屈です。では、この減少を食い止めるにはどうすればいいかというと、生産性を高めて一人ひとりの所得水準を増やすことです。不思議なことに、人口減少は始まっているものの日本ほどではない欧州のほうが、なぜかこの生産性向上に対する理解が深いのです。

ここで議論が分かれます。

企業の生産性が高くなる環境作りが大事だという考え方があります。生産性向上のための技術導入や研究開発、社員研修に補助金を出したり、成功事例を示したりすることで、経営者は生産性を向上させるという考え方です。輸出促進政策などもこの種の政策の1つです。

産業振興策は、これまで効果が極めて限定的だった

しかし、このような産業振興策は、今までやってこなかったわけではありません。事実として、こういった政策が実行されているにもかかわらず、中小企業の生産性は高くなっておらず、従業員の賃金も先進国最低レベルです。

政府は1990年以降、こういった性善説的な考え方に基づき、ゼロ金利政策、企業への補助金、保護政策、景気を刺激するための公共工事などをさんざんやってきました。その結果、国の財政の健全性が世界最悪の状態になってしまいました。


にもかかわらず、景気がよくなっていないのは間違いない事実です。つまり、中小企業経営者の自主性に任せているだけでは何も変わらないということは、歴史が証明しているのです。

私が「生産性が向上しない原因」を分析した結果、2つのことがわかりました。1つは、非効率な産業構造が低生産性の根因なので、いくら生産性向上を訴えてもそもそも構造的に無理があるということ。もう1つは、経営者には生産性向上をするインセンティブが働いていないことです。

たとえるなら、運動が嫌いな体重60キロの人に、「こうすれば100キロのベンチプレスができるよ」と言っても、できるはずもないのと同じです。技術の問題だけではないのです。その技術を生かすための体にならないと、その技術を生かせません。別のたとえをするなら、文字を読めない人にスピード読書法を教えても無駄なのと一緒です。

では、生産性向上のためにどうすればいいかというと、『この法律が日本を「生産性が低すぎる国」にした』でも申し上げたとおり、「小さな企業が異常なほど多い」という「1964年体制」から脱却して、小さな企業の規模を大きくしていくことです。

企業の規模が大きくなればなるほど生産性が上がる。企業の規模が小さくなればなるほど生産性が下がる。これは経済学の大原則です。

たしかに、中小企業の中にも大企業より生産性が高いケースはありますが、それらは給与水準や輸出比率が高い、統計上珍しいケースです。

規模の大きな企業が多いアメリカなどの国は生産性が高く、小さな企業の割合が高い日本や韓国の生産性が相対的に低いことも、この大原則を証明しています。

人口減少が進行する日本において、中小企業の規模を大きくするということは、合併や統合を意味します。

しかし経営者側からすると、面倒な生産性向上策を実行し、他人のために賃上げをするインセンティブはありません。

経営者を生産性向上に駆り立てる刺激もありません。日本はインフレも起きていませんし、ずっと超低金利が続いています。海外との激しい競争もありません。さらに、合併することは「社長の席」の数が減ることを意味します。経営者にとっては、現状維持が最も快適なのです。

もちろん、経営者の中には、賃上げのために生産性向上を目指す人もいるでしょう。しかし大部分は自分の目先の利益だけを考え、今の経済政策が変わるすべての提言に反対するでしょう。その気持ちは理解できます。

このように、人口減少のインプリケーションがわからないか、あるいは興味がない経営者の良心に期待できない以上、国が企業の規模を大きくせざるをえない方向に持っていくしかありません。その効果が大きく期待できる政策の1つが、「最低賃金の引き上げ」です。これにはさまざまな国のエビデンスがあります。経済史で学ぶ「賃上げインフレ」の再来です。

世界的に、外部からの刺激がないと中小企業の経営者は動かないというのは共通です。賃上げインフレは外部からのショックです。

倒産・廃業したいと思う経営者はいません。社長本人も失業するからです。だからこそ、最低賃金が上がったら、なんとかしようと頑張るのです。

つまり最低賃金の引き上げは、日本経済の低迷という「病気」の根治治療薬なのです。

最低賃金引き上げ反対」は、自己中心的な主張だ

実はさらに大局的な視点に立っていただけば、最低賃金の引き上げに反対するということが、国益を損ねる極めて「自己中心的な主張」だということがわかります。「人口減少・高齢化の下で社会保障費をどう負担するか」というすべての日本人に関わる問題を、まったく無視しているからです。

社会保障負担総額を日本人全員の総労働時間で割ると、「日本人が1時間働くごとに、社会保障費をいくら負担しなければならないか」を算出できます。2018年の数字で計算すると、824円。もはや社会保障のために働いていると言ってもいいほど深刻な状況ですが、これは今後もっと悪化していきます。高齢者が減ることなく、生産年齢人口はどんどん減少していくからです。

私の試算では、2030年に1137円、2040年は1642円、2060年は2150円。給料を上げていかなければいけないのは明らかです。

もし給料を上げなかった場合、日本政府が取るべき道、そして日本の未来というのは、究極的には以下の3つしかありません。

1.税率を高めて、労働者をさらに貧困にさせる
2.社会保障を減らして、高齢者を貧困にさせる
3.両方しないで、国の借金をさらに増やして、国が貧困になる

給料を上げないというのは、日本の中の一部の「企業」や「経営者」を喜ばせるだけであって、日本国民全体にとっては百害あって一利なしの選択肢なのです。

さらに付け加えるなら、目先の利益ではなく長い目で見れば、企業や経営者にも害が及びます。

日本という国や日本人が貧しくなっていくのですから、日本で経済活動をする企業もさらに貧しくなっていくのは当然です。今の政策では、先に貧乏になるのは社員かもしれませんが、社長もゆくゆくは必ず貧乏になります。つまり、人口減少社会の中で、給料を継続的に上げないということは、この国で誰も得をしない「愚策」なのです。

しかし、残念ながら、日本にはこのような大局的な視点を欠いている方たちが財界やアカデミックの世界にも多くいらっしゃいます。

給料を上げることなく、人口減少・高齢化の問題にどう対応するべきか「代案」を示していただきたいと思います。しかも、その代案は、2060年までの人口減少に対応できるというエビデンスを、数字をもって示すべきです。「イノベーション」「頑張りましょう」「日本には日本の価値観がある」などという根性論だけでは、とても人口減少に対応できません。

いつか必ず大地震に見舞われる国に必要なこと

それだけではなく、日本特有の事情があることも忘れてはいけません。それは「自然災害」です。

ご存じのように、日本は首都直下型地震と南海トラフ地震という2つの危機が迫っています。東日本大震災の震源地である三陸沖で、定期的に巨大地震が繰り返しているのと同様に、この2つの巨大地震も遠くない将来、確実に起きることがわかっています。しかも、2つが連続して起きる可能性が高いと言われています。

震災で甚大な人的被害があることは当然ですが、首都、東海、南海という日本経済の中心部が深刻なダメージを受けることで、経済も急速に悪化することは容易に想像できましょう。

公益社団法人「土木学会」が阪神・淡路大震災で神戸市が受けた経済被害を参考にして、20年間でどれほどの「間接被害」になるのかを算出していますが、そこには驚きの数字が出ています(2018年6月「『国難』をもたらす巨大災害対策についての技術検討報告書」より)。

なんと、首都直下型地震で778兆円、南海トラフで1410兆円というのです。日本の名目GDPは550兆円ですので、近い将来起きるこの2つの巨大地震が、人命の面はもちろん、経済の側面でも「国難レベルの災害」であることは間違いありません。

日本は1990年までは極めて健全な財政を守ってきた国です。しかし、1964年から続く中小企業保護政策によって、経済合理性を無視した感覚的な経営が当たり前となり、バブルの怠慢経営、そして失われた20年を経て、ついに財政が世界最悪となってしまいました。

生産性が低く、財政が貧弱。その状態で自然災害が襲ってきた場合、日本は海外調達に頼るしかありません。日本経済の規模と自然災害の規模からすると、その金額を出せる国は多くはありません。出せる国も、無条件で安く出してくれるとは思えません。すでに「日本が売られる」と騒がれていますが、現状程度ですむとは、とても考えにくいのです。

巨大地震のリスクがなく、人口が増加しているような国ならば、「MMTによれば財政赤字は問題ではない」「国債が自国通貨建てだから破綻しない」などという理屈はありうるかもしれません。

しかし、巨大地震のリスクがそこまで迫っているうえに、人口減少と高齢化もすさまじい勢いで進行している今の日本では、「現実逃避」をしているとしか思えません。

生産性向上がすべてではない。中小企業が多いことを日本の強みにするべき。ネットにあふれる「反論」の多くは、残念ながら精神論・感情論の域を脱しておりません。『下町ロケット』はたいへん優れたフィクションです。しかしフィクションはフィクションでしかありません。どんなに美しくても、現実を無視した議論は極めて危険です。

「日本人は苦しいときにこそ底力を発揮してきた」。たしかにそうかもしれません。しかし厳しい言い方ですが、そんなことで経済がよくなるなら、日本はとっくにデフレから脱却しています。経済とはサイエンスであって、「頑張り」や「思い」で乗り切れるものではないのです。

中小企業経営者の目先の利益を優先して日本全体が貧しくなるか。それとも「数字」による合理的判断に基づき、賃金を上げて日本経済をよみがえらせるか。

人口減少、そして巨大地震、この2つの大きな危機に対して、具体的にどうやって立ち向かっていくことができるのか。最低賃金の引き上げに反対している方たちは、ぜひとも説明をしていただきたいと思います。

今、日本は歴史的な分岐点に直面しています。

国際競争力が5位なのに生産性は28位。先進国の中で最も優秀な労働者なのに最も賃金が低い。このようなおかしな状況をつくった「1964年体制」を続けていくのか、改めるのかという分岐点でもあります。

後世の人々に誇れるような決断をするためにも、精神論や感情論をぶつけ合うのではなく、経済合理性に基づいた議論を期待します。

いただいた「ご指摘」にお答えします

「イギリスで最低賃金引き上げが成功したというデータは、各国の最新の研究で否定されている」と主張される方がいます。私も頑張ってその論文を探したのですが見つからなかったので、前回の記事(最低賃金引き上げ「よくある誤解」をぶった斬る)で「ご存じの方は教えてほしい」と書きました。

それに対していくつかのコメントがありましたので、ここで補足しておきたいと思います。

例えば、イギリス政府が大学に依頼した最低賃金の検証結果を信用できないと主張する方がいます。イギリスの最低賃金に関して、2008年までのデータ検証も「否定されている」と訴えています。

しかし、それは関係ありません。私が用いている最新の分析は2019年版のものです。おそらく、この最新の分析の存在を知らないのか、286ページにも及ぶ低賃金委員会の報告書をお読みになったことがないのでしょう。

また、最低賃金引き上げが雇用に悪影響を及ぼすことを示す「最新エビデンス」として、イギリスのエセックス大学の教授の論文(Mike Brewer, May 2019, "What do we really know about the employment effects of the UK’s national minimum wage?" )を引っ張り出してきた方もいらっしゃいます。

こちらも原文で読むと、「最低賃金の引き上げは失業率の向上につながっていない」という事実を否定してはいません。低賃金委員会が使っている検証方法が不十分で、高度化したほうがいいと提言しているだけです。統計の技術的な議論が展開されています。

最低賃金の引き上げが本当に失業率向上につながらないことを証明するためには、今の検証方法では不十分と書かれています。論文としては面白く、正しいと思います。しかし、それは私の論点を否定するものではありません。

それどころか、今現在の失業率向上につながっていないという「事実」は、論文執筆者自身も認めているのです。にもかかわらず、そこにはまったく言及しないというのは、英語の読解力に深刻な問題があるか、あるいは全文を読んでいないとしか思えません。

ちなみに、エセックス大学はイギリス国内の大学ランキングで29位です。有名大学の研究ではないと指摘しているわけではありません。日本国内の大学ランキングで二十数位の大学で実施され、国内で学問的コンセンサスも取れていないマイナーな研究を取り上げて、「これが日本の最新研究です」と外国人に触れ回るのと同じくらい、問題のある主張だと申し上げたいのです。

論文の「主旨」をしっかり読むべき

もう1つ指摘された論文は、カリフォルニア大学アーバイン校のデービッド・ニューマーク教授の論文(David Neumark, December 2018, "Employment effects of minimum wages")です。

こちらも原文でしっかり読めば、ニューマーク教授の論点が、「最低賃金の引き上げが貧困対策になるか否か」だということがわかります。興味深い内容ではありますが、私がこれまで申し上げてきた論点は単なる貧困対策ではなく、最低賃金を引き上げることで生産性を向上させるのが急務だという論点ですので、この論文はあまり参考になりません。

ポイントがズレているということで言えば、アメリカのエコノミストの74%が最低賃金の引き上げに反対している事実を私が意図的に無視しているのではないかという指摘もありました。


これも論文(Employment Policies Institute, March 2019, "Survey of US Economists on a $15 Federal Minimum Wage")を読めばすぐわかりますが、74%のエコノミストが反対しているのは、最低賃金を15ドルにまで引き上げることについてです。エコノミストの66%は最低賃金の最適なレベルは10ドルと考えているとあります(いまは7.25ドル)。つまり、この調査は引き上げの是非についてのものではなく、「引き上げ幅」の問題なのです。

また、84%のアナリストが、15ドルまで引き上げれば「若い労働者」に悪影響を及ぼすと答えています。日本で反対派の方たちがよく言う「最低賃金を上げたら全体の失業者が増える」うんぬんという話ではないのです。

もっと言ってしまうと、アメリカと日本では「最低賃金」というものの現実が大きくかけ離れているので、単純比較することは難しいのです。

アメリカでは、最低賃金で働く労働者の割合が日本と比較して圧倒的に少ないのです。「最低賃金で働くスキルのない労働者」もアメリカの場合、文字の読み書きができない、学校に通っていないなど、日本の最低賃金労働者と同列に語れるような人々ではありません。

例えば国際学力調査(PISA)ランキングでは、日本は世界3位ですが、アメリカは31位です(OECD、2016年)。厚生労働省の調査によると、最低賃金に近い水準で働いているほとんどの日本人は高卒以上です。一方、アメリカ政府の2016年の分析では、3200万人のアメリカ人は読解力が足りないといいます。

このような複雑な事情にはいっさい言及することなく、「最低賃金は雇用に悪影響を及ぼす」という結論へ導くために、海外論文の一部を恣意的に解釈した意見が氾濫するのは、ただ残念の一言です。

改めて強調しますが、人口減少・高齢化という巨大な問題に対応するためには、中小企業の社長だけではなく、日本社会全体が大局的な視野に立つことが求められていると思います。