――素晴らしい兄弟ですね。ではお父さんとお母さんはどんな人?
「僕ら兄弟がみんなめちゃくちゃご飯を食べるので、おそらく料理については本当に大変だったんじゃないですかね。それでも満足いくまで食べさせてくれましたし、今思えばすごく有難いなと思います」
 
――厳しい人でしたか?
「両親はふたりともスポーツをやっていたからか、謙虚さというところは厳しく言われますね。そういう、サッカーよりも人間性のことを言われるのが多いです」
 
――言われて印象に残っている言葉は?
「『活躍したからと言って、調子に乗るな。天狗になるなよ』というのはよく言われますね」
 
――そんな家族の元を離れ、なぜ高校から広島ユースに進んだのですか?
「色々なクラブに参加したなかで、一番サッカーに集中できる環境だと思ったんです。グラウンド、寮、学校の関係も、すべてがすごく整っていた。いろんな人に相談しても広島ユースの評判がすごく良かったのもひとつです。それにキーパーのレベルが高くて、育成に力を入れていた。自分にとっては、まさに理想郷でした」
 
――とはいえ、鹿児島なら、鹿児島実業や鹿児島城西など、高校サッカーの強豪校もありますよね。そうした選択肢は考えなかったのですか?
「もちろん高校サッカーも憧れではありました。県を代表してテレビで応援してもらえる冬の選手権の舞台もすごくいいなと。でも高校の部活動になるとGKの専属コーチってなかなかいないんですよ。それを考えると、元プロのコーチや、しっかりとした資格を持ったGKコーチがいるクラブユースのほうが魅力的だったんですよね」
 
――広島ユースは、入った当初どんな印象でしたか?
「レベルが高くてスピード感があって、最初はついていくのに必死でした。もちろん練習はかなりきつかったですしね。でも鹿児島にいた頃にはやったことがないメニューばかりで、すごく新鮮で面白かったです」
 
――高校に通いながら、ユースで練習するのは結構ハードだったのでは?
「毎日バタバタでしたね。朝ご飯を食べたらすぐに学校に行って朝練をして、帰りのホームルームが終わったらダッシュで寮に帰っていました。16時に学校が終わって、16時40分に練習がスタートなので、寮に着いたらすぐに着替えて自転車か走りで練習場に向かって、トレーニングといった流れです」
 
――それは忙しいですね。
「しかも、20時半にはご飯を食べないといけないという寮のルールがあったので、それに合わせて、『走って帰れば、あと何分は自主練ができるな』と計算していました(笑)。ご飯を食べた後には、寮のトレーニングジムで筋トレをして、22時過ぎに風呂に入って22時半に寝る。そんな毎日でした」
 
――遊ぶ時間はないですね。
「まったくなかったです。テレビも全然見ていなかったですね」
 
――オフは何をして過ごしていましたか?
「特別何かをしていたわけではないですね。月曜日がオフでしたけど、その日に限って学校が7時間目までありましたから(笑)。18時くらいに学校から帰ってきても、19時が門限なので、もう1時間くらいしか余裕がない。今振り返っても、本当に忙しかったです」
 
――高校時代は遊びの誘惑が多いですが、その生活だと、そもそも誘惑に触れる機会すらないですね。
「そのとおりです。ただ、それもひとつ広島ユースに決めた要因でした。サッカーに打ち込める環境はすごく大事だなと思っていたので」
 
――広島ユースに入る時には、すでにビジョンはあったのですか?
「中学の時からプロになるまでの道筋は思い描いていました。広島ユースから絶対にプロになって、鹿児島に帰ろうと思っていました。送り出してくれる両親や、中学校のクラブチームのみんなが、『プロになって帰ってきてほしい』という言葉をくれたので。そういうふうに応援してくれる人がたくさんいたからこそ、絶対に結果を残して帰ってこようと」