堀切橋から10月13日(日)の9時台に撮影した荒川。台風19号の影響によって水の色は土砂を含んだ茶色い濁流に。沿岸には大量のゴミが堆積して、橋から本来見えるはずの河川敷のグラウンドや遊歩道は水に飲みこまれていた(東洋経済オンライン編集部撮影)

10月12日(土)夜、伊豆半島に上陸後、首都圏を突っ切って各地に記録的な降水量をもたらした台風19号。通過後の翌朝9時台に、東京都足立区柳原と葛飾区堀切を結ぶ「堀切橋」付近から荒川の様子を伺った。河口から約10kmぐらいの場所だ。

このあたりの河川敷では普段、グラウンドや公園で野球、サッカーをはじめとする各種のスポーツにいそしむ人たちがたくさんいて、遊歩道ではランニングやサイクリング、散歩などをしている人たちや、通行許可を得た工事用車両などが通行している。その河川敷が大量の土砂や樹木、ゴミなどを含んだ茶色い濁流に飲みこまれていた。

台風の通過から10時間以上も経っていたにもかかわらず、これまで見たことのない莫大な水量を伴う激流で、それも、とてつもない速さで海に向かって流れていく。沿岸には上流から流れ着いたと見られる大量のゴミが堆積し、時間を追うごとにその量は膨らんでいった。同じように様子を見に来ていた人たちが、スマホやデジカメ、ビデオカメラなどで様子を撮影していた。昨夜の荒天がまるで嘘だったかのように晴れ渡る青空の中での何ともアンバランスな光景だった。

台風19号の接近に伴う豪雨の影響で、都内西部を流れる多摩川では二子玉川付近で氾濫が起き、長野県の千曲川では堤防が決壊。それ以外にも氾濫もしくは堤防が決壊した河川は規模の大小を問わず多数だ。周辺には甚大な被害が出ている。

荒川も一時は氾濫危険水位に到達

荒川は12日夕方から夜にかけて、上流の埼玉県熊谷市付近で水位が上昇し、避難勧告等の目安となる氾濫危険水位に到達した。浸水のおそれがある市区町村向けにこの通知がなされ、都内某所に在住する私のスマホにも「緊急速報」が届いた。荒川の下流に当たる東京都江戸川区の一部では浸水の恐れがある地域20万世帯以上に避難勧告が出たほどだった。

結果を言えば、幸いにも荒川は堤防の決壊や氾濫という最悪の事態は今回免れた。複数の知人から話を聞いたところ、下流に行くにしたがって川の幅も広くなっていくので流れも落ち着いていたようだ。そうした点には安堵しながらも、これまでに見たことのない荒川の光景に、「降水量と川の幅や深さなどによっては、どこかの堤防が決壊し、それに伴って流域の街がとてつもない濁流に飲まれていたかもしれない」という恐怖を覚えた。

元国土交通省河川局長の竹村公太郎氏は、東洋経済オンラインでかつて配信した2本の記事、「堤防決壊はあなたのすぐ近くでも起こりうる」(2015年9月15日配信、竹村氏寄稿)と「日本の河川堤防は集中豪雨に耐えられない」(2016年6月21日配信、竹村氏へのインタビュー記事)において、日本各地の堤防は江戸時代に作られたものが多く、どこでも決壊が起こりうると指摘している。

詳しくは2本の記事を読んでいただきたいが、ポイントをまとめれば、江戸時代に各地で堤防が作られた要因は、戦乱が落ち着いて平和になった後に稲作を進めるなどの目的があったからだ。ただ、各地の河川はもともと下流に行くに従って複雑に分岐していたため、それを強引に1本の堤防の中に押し込めていったという歴史がある。

大型機械のない人力でつくられた堤防が少なくなく、明治以降の日本政府はそれを引き継いだが、今回のような猛烈な大雨が降った場合に耐えられず、堤防が決壊する例は後を絶たない。少し前になるが2015年9月に、首都圏にも流れ込む一級河川である鬼怒川が破堤した茨城県常総市で、濁流が激しく家々を飲み込んだ光景を記憶している人もいるだろう。

気になって国土交通省荒川下流河川事務所のホームページなどから荒川の歴史を調べてみた。

現在の隅田川はかつての荒川下流部にあたり、その沿川では、江戸時代に頻繁に洪水が発生し、明治時代になっても洪水が頻発した。明治元(1868)〜明治43(1910)年の間に、床上浸水などの被害をもたらした洪水は10回以上。中でも明治43年の洪水は甚大な被害をもたらした。

洪水対策で全長22kmに及ぶ人工の川がつくられた

東京では、それまで農地だった土地の利用が工場や住宅地に変化したことによって、洪水の被害が深刻化。荒川の洪水対応能力を向上させるために、全長22kmに及ぶ人工の川である「荒川放水路」の基本計画が策定された。これが今の東京を通る荒川下流部に当たる。

東京の下町を水害から守る抜本策として、荒川放水路事業は明治44(1911)年に着手され、掘削した土砂の総量が東京ドーム18 杯分、約1300世帯が移転を余儀なくされたほどの大規模工事によって、昭和5(1930)年に荒川放水路は完成した。20年近い歳月をかけた巨大プロジェクトだったわけだ。途中には大正12(1923)年に関東大震災が発生。当時を思うと、これをやり遂げるには関係者の大変な努力があっただろう。

荒川放水路が完成して以来80 有余年の間、荒川放水路の堤防が決壊したことはない。今回の台風19号による猛烈な雨も、いざというときの河川敷部分も使って大量の水を下流に流し、災厄を防いでくれた。12日夜には荒川から隅田川に水が流れないように、東京都北区にある岩淵水門が閉じられた。ツイッターでは「岩淵水門が閉じたが、荒川下流は大丈夫なのか?」とのつぶやきも多数見られたが、隅田川にそのまま水を流し続けていたら別の被害を招いていたかもしれない。

荒川流域だけでなく隅田川流域が守られたのも、先人たちの将来を見据えた取り組みがあってこそ、と言えるだろう。とはいえ、この先も荒川の堤防が壊れないという保証は何もない。基本設計は100年以上前につくられたものだ。

竹村氏は2016年6月のインタビューでこうも言及している。

「現在の治水の原則は堤防を強化するとともに、水位を下げること。荒川放水路は現在の隅田川の水位を下げるための装置だし、ダムや川幅の改修も増水の際に水位を下げるのが目的。つまり堤防を信用してはならない。いつか壊れる、という発想だ。

壊れないといえば嘘になる。こんなことを露骨に言えるのは十数年前に退官したから。現役の河川局長が国会で『堤防なんか信用しちゃいけない』なんて言ったら『ふざけんじゃない』となっちゃう。

でも、現役の人々がやっていることを否定するわけではない。みな内心では堤防が危ないと思っているから補強したり、水位を下げるためダムや貯水池を作っている。仕事を創り出したいからやってるのではない。江戸時代に99.9%作られた堤防を引き継いだから、補強しようとしているのだ」

「数十年に一度」の大雨が頻発

気象庁は今回の台風接近に伴って、「数十年に一度」の大雨が降り、災害の危険性が高まったときに出す大雨特別警報を一時は首都圏全域を中心として広範囲に発令した。ただ、地球温暖化に伴ってなのかは明確に言えないが、かつては考えられなかったような異常気象が頻繁に起きるようになっている。「数十年に一度」はこの数年だけでも何度聞いたフレーズだろうか。

国土交通省荒川下流河川事務所のホームページには、これまでに経験のない集中豪雨によって、仮に荒川の堤防が決壊した時にどうなるのかのフィクションドキュメンタリー動画「荒川氾濫」が紹介されており、YouTubeで一部を閲覧できる。見た感想としてはこんなことになってほしくはないが、流域の住民であれば、いつか来るかもしれない事態を想定しておくことは必要だろう。

そして、同ホームページには「今後も首都東京を堤防で守るため、堤防強化対策や高規格堤防の整備によって水害を未然に防ぎます。あわせて、首都東京でも発生が予想される大地震に備え、荒川放水路では、堤防や河川構造物の耐震化を行っています」という記載もある。

河川工事やダムの建設について否定的な意見が見られることがある。中には本当に無駄なものもあるかもしれないのでプロジェクトごとに精査する必要はあるだろう。しかし、今回のような事態を目の当たりにしたときに時間も手間も費用もかかり、万が一に備えるという治水の重要性について事実関係をちゃんと調べずに、感情論で頭ごなしから否定するのは合理的と言えない。