マスコミの「両論併記」が、世間に与える「意外な悪影響」 「バランスを取ろう…」の落とし穴

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日本のメディア報道は「両論併記」を意識してオピニオン欄などを構成することが多い。一見、バランスを取るための良識的な行為なようだが、それが世間に意外な悪影響を与えるケースも少なくない。『善意という暴力』(幻冬舎新書)を上梓した政治社会学者の堀内進之介氏が解説する。

両論併記は「偽りの天秤」かもしれない

ローマ神話において正義を司る女神ユスティティア(Justitia)は、しばしば目隠しをし、剣と天秤を携えた姿で表現される。剣は力を、天秤は公正さを表し、目隠しにはいかなる属性も考慮せずに平等に扱うという意味がある。後の時代に編纂された旧約聖書の箴言にも、「偽りの天秤を主はいとい、十全なおもり石を喜ばれる」という一節がある。「偽りの天秤」は、物事の軽重を不当に扱うことの謂いだ。

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バランスのとれた天秤は、古来より公正さを表し、それゆえに裁判や司法のシンボルとなったが、メディア報道においてもバランスや公正さは欠くことのできない美徳だ。メディア報道のあるべき姿は、女神ユスティティアのそれに似ている。公正を旨とし、理に適った意見を分け隔てなく平等に扱い、そうすることで賢明な判断を促す大きな力を発揮するからだ。

しかし、目下のメディア報道の姿は、あるべき姿とは大きく異なることが度々あるように思う。その姿はまるで「偽りの天秤」を持ち、根拠なき批判や意見を盲目的に取り上げ、そうすることで、憂慮すべき事案から多くの視聴者を遠ざける力を発揮しているかのようである。実際、メディア報道に関する多くの調査研究は、メディア報道が有害な影響をもたらす場合があることを指摘している。

それによれば、メディア報道が有害な影響を与える原因の一つは、「両論併記」という形式が多用されることある。そこで、以下では「両論併記」の悪影響と、それが多用される要因について考えてみたい。

気候変動の「懐疑論」を取り上げるべきか

気候変動やワクチン接種をはじめ、多くの事案については、その事案の深刻さを指摘する「警告者」と、それを過剰反応と見なす「懐疑論者」の対立がある。そのような対立では、警告者が提起する(1)問題となる傾向、(2)原因、(3)リスク、そして(4)対処法について、そのどれか、あるいはすべてが懐疑論者の批判の的になる。

たとえば、気候変動においては、(1)地球温暖化が産業革命以降に顕著であること、(2)CO2などの温室効果ガスが主要因であること、(3)地球温暖化が人類を含む生態系にとって深刻な影響を及ぼすこと、(4)深刻な影響を避けるには温室効果ガス排出量の削減が必須なこと、これらが「懐疑論者」の批判の的になっている。

このような懐疑論者の批判は、合理的な根拠に基づくこともあるが、そうではないこともままある。気候変動に関して言えば、警告者の主要な論点、特に地球温暖化の原因が人為的なものであることには科学的なコンセンサスがあるが、懐疑論者の批判はそれを意図的に無視するものが大半だ。

にもかかわらず、そのような懐疑論者の根拠を欠いた批判が、あたかも警告者の指摘や科学的なコンセンサスと競合するものであるかのように、一般人に受け取られるとすれば、その原因の一つは、間違いなく「両論併記」を好むメディア報道の姿勢にある。実際、多くの研究が、「バランス」を重視するメディア報道の姿勢が気候変動の問題に、有害な影響を与えていることを指摘している。それはワクチン接種の問題についても同様だ。

「イデオロギーバイアス」と「メディアの論理」

こうした「両論併記」が有害な影響を与えているという指摘に対しては、メディア報道にはジャーナリズムにおける「バランス規範」とでも呼べる原則があり、偏向報道を避けようとする努力が意図せざる帰結をもたらしているに過ぎない、と反論する声があるかもしれない。

しかし、以下に述べるように、「両論併記」を好むメディア報道の姿勢はバランス規範の遵守だけでは説明しきれない、いくつもの問題を抱えており、そのために懐疑論者の根拠なき批判に不均衡な発言権を与え、憂慮されるべき事案から一般人の関心を遠ざけるという事態を招いている。どういうことか、先行研究を参照しつつ順に説明しよう。

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メディア論における一般的な理解に従えば、メディア報道の内容に影響を与えるものには、三つのレベルがある。ジャーナリスト個人、ジャーナリストが所属する組織、そして社会制度や文化といった外部環境がそれである。

そして、どのレベルでも次の二つ要因が、ニュース素材の選別において、大きな影響力を持っている。その一つが、特定の考え方に基づいて特定のトピックを扱うことを好む傾向、つまり「イデオロギーバイアス」であり、もう一つが、ニュースの新奇性や媒体との親和性などを重視する「メディアの論理」だ。

気候変動の問題を再び例にとれば、国内の経済成長を最も重視するという意味で、右派的なイデオロギーバイアスがあるメディア関係者は、地球温暖化の深刻さを指摘する声を不確実だと見なしたり、地球温暖化に対する国の政策のコストを問題にしたりする懐疑論者の主張を、新奇なもの、親和性の高いものとして取り上げる傾向にある。

そこでは、懐疑論者の主張は、警告者の声と競合するものとして「両論併記」されることになる。こうした傾向は、先の述べた二つの要因――「イデオロギーバイアス」と「メディアの論理」――が作用した結果だ。

「イデオロギーバイアス」と「メディアの論理」によって、本来なら「両論併記」にそぐわない批判や主張が取り上げられる背景には、先に述べたジャーナリズムにおける「バランス規範」の存在と、視聴者のアテンションを奪い合う目下の情報流通市場がある。

「バランス規範」によって無根拠な意見が拡散される

「バランス規範」は、そもそもはジャーナリストに、対立する双方の意見に同等の発言権を与えることで、視聴者に中立的な説明を提供するように求める規範である。ジャーナリストにしても、自らの客観性を示し、偏向報道との誹(そし)りを免れることができるので、この規範に従いやすい。

この規範は、通常はメディア報道の公正さを担保するために機能するが、しかし、ジャーナリストが相反する意見の妥当性を評価する時間や専門知識を欠いている時には、むしろ公正さを台無しにするように悪影響する。

というのも、バランス規範は、意見の妥当性を評価する時間や専門知識を欠くジャーナリストに、妥当性チェックの代理として「両論併記」を採用する動機を与え、その結果、競合するはずのない無根拠な意見に正当性と、メディアに登場する機会を与えるからだ。

全世代の8割以上が情報過多だと感じている情報流通市場の中では、視聴者のアテンションをいかに集めるか、その成否がメディアの生き残りを左右する。それゆえ、人目を惹く新奇な意見や極端な意見、あるいは賛否両論それ自体がビジネス上の価値を帯びることになり、その結果、情報流通市場における競争が、ジャーナリストやメディアに競合するはずのない意見を取り上げる動機を与え、それらに耳目を集める機会を与えてしまう。

バランス規範も情報流通市場も、懐疑論者の無根拠な批判・主張・意見などが、科学的なコンセンサスを得た合理的な議論とあたかも競合するような印象を与える「偽りの天秤」を、すなわち「両論併記」という形式を、広く蔓延させる培地になるのだ。

無根拠な意見を「非難」することにもリスクがある

しかし、こう述べても、懐疑論者の無根拠な意見を非難するために、あえて取り上げるジャーナリストやメディアもいるのであって、それらは、ある種の体質や怠慢、そして功利的な関心に基づいて取り上げられたものとは、区別されるべきだと思う読者もいるだろう。

確かに、取り上げる動機のレベルでは、たとえば善意と悪意とを区別することができるかもしれない。とはいえ、それですら視聴者に悪影響をもたらすという点では、善意か悪意かは問題にならない。

事実、懐疑論者の無根拠な意見を支持するメディア報道が耳目を集めれば、それを牽制し非難しようとするメディア報道も、増加する傾向にある。その結果、懐疑論者の無根拠な意見は、それを支持するメディアと非難するメディアの双方において、同程度に取り上げられるという状況が生じ、何れにしても懐疑論者の無根拠な意見が「量」の面でも、警告者の根拠のある主張と競合するという印象を視聴者に与えてしまうことになる。

懐疑論者の無根拠な意見を非難するという、善意から為されたことであっても、その帰結は必ずしも好ましいものではないのだ。

ここから言えることは何だろうか。それは、懐疑論者の無根拠な意見や警告者と懐疑論者の対立に、ジャーナリストやメディアは固執するべきではないということだ。

読者は何に注意すべきか

目下の情報流通市場においては、どの道、視聴者自身もリテラシーを身に付けておくに越したことはない。それは何も専門知識に習熟することばかりを意味するのではなく、メディア報道の「形式」を見極めるだけで事足りることもある。これまで述べてきたように形ばかりの「両論併記」には注意が必要だが、ある研究はさらに興味深い発見をしている。

それによると、懐疑論者の無根拠な意見を非難するために取り上げるメディア報道では、その意見が誰のものか、どこで述べられたものかなど、いわゆる出典がしっかりと明記されるが、懐疑論者の意見に好意的なジャーナリズムやメディアは、懐疑論者の主張を支持するものの、その出典を明示するのは避ける傾向にあるという。

主張ばかりで出典のない記事は、その著者の肩書がどうであれ、鵜呑みにすべきではないということだ。このような傾向がすべてに当てはまるわけではないが、出典を確かめるというのは、メディアリテラシーの基本にして、堅実な方法だということは確かだろう。

より望ましい転換は、懐疑論者の無根拠な意見は取り上げる文脈を十分に吟味し、可能な限り議論の別様な側面を探し、それを取り上げる努力をすることだろう。正義を司る女神ユスティティアが手にするべきは、物事の軽重を正しく測る天秤であって、決して「偽りの天秤」ではないのだから。