19世紀後半のベトナムの山間の村を舞台に描く『第三夫人と髪飾り』は、何から何まで美しいビジュアルの映画です。主人公はその村――生糸の生産で富を築く「絹の里」の当主の元に、第三夫人として嫁いで来た14歳の少女。その家にはキリリとした第一夫人とたおやかな第二夫人がおり、第二夫人が産んだ幼い三姉妹がいます。絹のアオザイの光沢、首をかしげながらくしけずる長い髪、ベッドにかかった紗布の向こうで交わされる秘め事、ゆったりと流れる美しい川、下着姿で水浴びする女性たち、クラシックな屋敷の暗がりで浮かび上がる赤いランタン…とにかく何もかも美しい映画です。

ところが実はこの映画、ベトナム本国ではたったの4日で上映禁止になっています。そうした美しい表現をまといつつ、実のところそんなにふんわりしたぬるま湯じゃないってことなのよ、お客さん。

何言ってんですか? と突っ込まれるのを覚悟で言いますが、私がこの映画を見て思い出したのは、「組織の中で多くの人が望まず、“これなんの意味があんの?”と思っているのに強要される○○」みたいなものです。

私は大学を卒業してから「一般的な会社に所属していた経験」は極めて短い方ですが、その当時何が嫌だったかって、毎朝の通勤ラッシュが死ぬほど嫌でした。当時使っていた路線は、都内の地下鉄で一二を争う猛烈な混雑路線で、誇張ではなく毎朝がもみくちゃ。さらに悪いのは、私が人間としてかなりのミニタイプであることです。満員電車に乗れば「オッサンの密林」に頭の上まですっぽり取り囲まれ身動きできず、毎日のように「今日は臭いオッサンがいませんように」と祈りつつ電車に乗り込むのですが、そんな小さな願いは夏なんかは1週間のうちに5日(って毎日)は打ち砕かれ、会社に着くころには身も心もズタボロで、「これから仕事するとか冗談じゃねえわ!」と叫びだしたい気持ちでした。

ズタボロ状態で会社にたどり着くと今度は、朝から背広まで汗が染みるほど汗っかきな上司「三田ちゃん」が、脳天突き破るハイトーンボイスで言います。「アツミくんさぁ、朝起きたらさ、まずは熱いシャワーあびてくんの、そうすると目が覚めるヨ!」。三田ちゃんは決して悪いヤツではありませんでしたが、めちゃめちゃ無邪気に心からの善意で、さも「俺が考え出した最高のメソッド!」みたいなテンションで分りきったことを言うので、私の疲れは100倍増したものです。新卒で入ったその会社を、私は1年で辞めました。

そんな私の人生は、世の良識人から「でもみんな我慢してるんだからさ」と、たしなめられ続けられることの連続なのですが、私には「みんな我慢してるなら、なんでみんなで変えないの」としか思えず、最終的に返ってくるのは「でもそれが決まりだから」とか「ずっとそうやってきたから」とか「それが伝統だから」という返答――つまるところは、思考停止。

さらに驚かされるのは、時にこの返答が半分キレぎみだったりすることです。社会から与えられた「決まり」にその人もいやいや従っているのに、なぜか「決まり」というだけで我慢し(その我慢を美しいとすら思っていて)、他の人たちにも我慢を強要する人たち。無意味に長い非効率的な会議も、無意味に制限される服や靴(熱い最中の女性のノースリーブや、男性のスーツ&ネクタイも!)、無意味に強要される飲み会も、無意味な上下関係も、こうした環境の中で延々と続いてゆきます。ええと、それっていったい何のため?もしくは誰のため?

さて映画に戻れば、この映画が描いているのはまさにそういう状況です。山間の小さな「絹の里」を取り仕切る名家、そこの「きまりごと」として脈々と続いていることが、ほとんどすべての登場人物を不幸にしています――だたひとり、ほとんど「人間らしさ」をもって描かれない、「きまりごと」そのものの象徴であるかのように登場する当主を除いては。

何も知らない少女たちが、この名家の伝統と決まりごとを刷り込まれてゆく過程、そしてその最中で自我に目覚めるその先に、どんなことが起こるのか。悲劇と苦痛を受け入れるのか、敢然と拒絶するのか。その分かれ目は、もちろんその人それぞれの中にしかありません。

『第三夫人と髪飾り』

10/11(金)より、Bunkamuraル・シネマほか全国順次ロードショー。

©copyright Mayfair Pictures.

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